第184話 悪魔の取引
「わー、思ってたより立派だ……」
学校から少し足を伸ばしたところにある、
今日は、学校祭で行う吹奏楽部のコンサートのポスターをここに貼ってもらうために、ここに来たのだが――店の偉容が予想外なほどで、少々気後れしてしまっていたのだ。
都賀楽器店の入り口には、色々とおしゃれな飾りつけがしてある。
おそらくは展示用だろう。どう吹くのかも分からない曲がりくねった金管楽器らしきものが、ベルを花のように咲かせて鈍い輝きを放っている。
店の正面はガラス張りで、なんとなく中の様子が分かるのだが――どこもかしこもキラキラな上に整然としていて、その筋の人達御用達の店、という感じがビンビン伝わってくるのだ。
「……」
一応、自分も『その筋の人』のはずなのだが。
実は楽器屋自体に来るのが初めてなので、鍵太郎は顔を引きつらせて改めてその建物を見上げた。
備品などは学校にあるもので十分足りていたし、前に楽器が壊れたときなどは顧問の先生がここの店長を学校まで呼んでくれたので、特に店まで足を運ぶ必要もなかったのだ。
だから鍵太郎は吹奏楽部にいながらも、今までこうして楽器屋そのものにはほぼ縁がなかったわけだが――しかし今日は、その楽器屋の店主になぜか呼び出されてしまったので、こうして出向いてきている。
店に入りにくいのは、その店主がどうにも得体が知れなくて、怖いというのもあった。
特に一番最近に会ったときなどは、それが顕著だったのだ。
だから顧問の先生にも、このポスターを渡されるときに「あいつになんか変なこと言われたら、今後金輪際テメーの店からはなにも買わねーぞって言っていいからな」と言われてきたのだが――
「……大丈夫だよな、うん」
そのことを思い出したら、店の入り口に他にも同じような演奏会のポスターが、数枚貼られているのが目に入ってきたので。
鍵太郎はそこで覚悟を決めて、楽器屋の中に入ることにした。
大丈夫だ。
あの顧問の先生とこの楽器屋の店主は、同じ音大の先輩後輩同士でもある。
さらにそこに商売のことが絡んでくれば、あの通称『腐れ楽器屋』も、そうそう妙な真似もできないだろう。
そう思って気持ちを奮い立たせ、鍵太郎は店のガラス扉に手をかけた。
するとそこに飾られている複雑に曲がった金管楽器が、さりげなくこちらを歓迎するように――入り口にベルを向けて配置されていることが分かった。
###
「いらっしゃいませー♪」
店に入るなり明るく挨拶してきたのは、レジにいるエプロンをつけた若い女性店員だった。
ああそうか、いくらなんでもあの人ひとりで店を回してるはずはないか――と妙に納得して、店内を見回す。
都賀楽器店の販売スペースは、大きく二部屋に分かれているようだった。
入り口のある手前の部屋は主に楽譜や音楽関連の書籍、譜面台などのちょっとした小物が置いてある。
対して奥の部屋には、サックスやトランペットなどの煌びやかな楽器類が、ショーケースに入れられて売られていた。
奥の部屋の方が照明の具合もあってか、高級感があるように感じられる。
こうして見ると見慣れた楽器たちが、ひどく高そうに見えるから不思議だった。
部屋同士を仕切るものはないので、入り口近くにいながら店のほぼ全域を見渡すことができる。あの若店主は、一体どこにいるのだろう――そう思って、鍵太郎がきょろきょろしていると。
いつの間にかこちらに近寄ってきていた女性店員が、首を傾げてこちらに尋ねてきた。
「あれ、あなたが店長が今日来るって言ってた、小さいお客さん?」
「あ、はい……。たぶん、そうです」
小さいって、どういう意味なのか――と、主に自分の身長のことを考えて、鍵太郎は半眼になるのだが。
都賀はたぶん、そっちではなく年齢的なことを指して、小さいと言ったのだろう。
そう心に折り合いをつけていると、その女性店員は「ああ! そうなんだ!」と言って身をひるがえし、店の奥に向かってしまった。
「そこで待っててね! 今、店長呼んでくるから!」
「あ、はい……」
元気な店員さんだなあ――そう思って、鍵太郎は彼女のことを見送った。
すると販売スペースのさらに奥の方から「てーんちょー! てーんちょー!」と言う声が、こっちにまで聞こえてくる。
どうやら奥にはまだ部屋があって、店長である都賀はそこで仕事をしているらしい。
今は日曜日の午前中なのだが、自営業であり客商売な以上、仕事は山ほどあるのだろう。
ましてや少々度を越したところのあるほど、商売人の彼だ。
きっといつも見るように、精力的に仕事をこなしているに違いない。
そう思っていると、都賀がこちらにやってきた。
「どうも。呼び出してしまってすまないね」
「……いえ。こちらも用事があって来ましたから」
丸めたポスターを持って、鍵太郎はやや警戒しつつ都賀へとそう応じた。
しかし用事があるのは実際その通りで、自分はこのポスターをこの店に貼ってもらうために、ここまでやって来たのだ。
ここはそもそも、最初から楽器に興味のある人間が来る店である。
音楽など関係ない店へ貼るより、よほど宣伝効果は高い。
けれどいつもだったら、このポスターはあの顧問の先生がここへ貼りに来ていたはずだった。
それをわざわざ自分を指名して貼りに来させるなんて、なにかあるとしか思えないのだ。
だがそんな鍵太郎の警戒の眼差しを受け流し、都賀は女性店員に言う。
「
「はいはーい、わかりましたー」
「じゃ、湊くん。こっち座ろうか」
「……はい」
都賀の指した場所は、奥の販売スペースのガラステーブルだった。
席に着くと、また店のさらに奥に引っ込んでいく、女性店員の後ろ姿が目に入る。
そこはどうも従業員用の作業スペースらしく――その場所には彼女の他にも、何かの楽器を整備しているリペアの人がいるのが見えた。
###
奥の販売スペースは、自分にはまだ場違いに感じられる。
その落ち着き払った、だが妙に格調高いその雰囲気は、鍵太郎にどこか居心地の悪さをもたらしていた。
しかし都賀にとっては、ここはまさに自分の城だ。
彼はいつも以上に余裕のある表情で、鍵太郎に言う。
「で、今日は何しにここに来たんだっけ?」
「……今度の学校祭でやるコンサートのポスターを、ここに貼らせてもらいに来ました」
自分で呼び出しておいて、よく言う――
そんな嫌味を言いたくもなるが、ぐっと堪えて鍵太郎はそう返した。
なにせ、店の入り口には他にも、演奏会のポスターが何枚も貼られているのだ。
ここは言えば、普通に受け取ってくれるはずだ。
そう思っていたのだが――都賀は鍵太郎の予想をはるかに上回ることを言ってくる。
「嫌だ、って言ったら?」
「……は?」
そこであまりにも理解の外にあったことを言われて、鍵太郎は思わず口を引きつらせていた。
だって実際に店の入り口にはもう、いくつもポスターが貼ってあるのだ。
あれは全部、店長である都賀へ話を通して貼ったもののはずだった。
いくらなんでもその団体の人が、勝手に貼っていったものではないだろう。
他の団体が貼っているのなら、特にこちらの申し出を断る理由もないはずなのに。
そう考える鍵太郎に、都賀は言う。
「僕がそのポスターをこの店に貼らなきゃいけない理由って、どこかにあるかな? 店の貴重なスペースを埋めてまで、他のもっといい宣伝に使えそうな場所を、きみたちの部活のためにわざわざ使う必要ってどこにあるかな?」
「……!」
ニコニコ笑顔でそう言ってくる都賀に――鍵太郎は、覚悟していた瞬間が始まったことを感じていた。
この人は、ただの意地悪でこう言っているわけではないのだろう。
会った回数は少ないが、そういう人でないのはわかっていた。むしろそんな人だったらこの店はとっくに潰れているだろうし、あの顧問の先生だって、とっくに縁を切っているに違いないのだ。
だからなにか意味があって、自分にこれを訊いているのは間違いない。
けれど、正解が思いつかなかった。
なので鍵太郎は、これまで培ってきた自分の『武器』で都賀に対抗するしかなかった。
「……本町先生は」
それは他人の言葉を借りて、自分の力に変える方式。
これで今年はコンクールでの修羅場を、どうにかこうにか乗り切ってきたのだ。
部長や副部長、その他の三年生相手に、二年生の自分が渡り合ってこられたのはこれが大きかった。
だがそこで鍵太郎の脳裏に――一瞬の迷いが生じる。
この楽器屋には今まで自分が使ってきた『武器』の、どれもが通じないような気がしたからだ。
けれども結局、これしか手段は残されていなかった。
だから鍵太郎は手に持った刃を、そのまま都賀に突きつけることにした。
「……本町先生は、あなたが変なことを言うようだったら、今後金輪際この楽器屋から何も買わないと言っていました」
「ふぅん。デメリットの提示か。まあいいや。それも間違いじゃあない」
「……っ」
案の定、力を込めたはずのその一撃が弾かれて、鍵太郎は顔をこわばらせた。
これ以外に他にはもう、対抗手段は残されていない。
この先、どう立ち回ればいい――必死に頭を巡らせていると、都賀は言う。
「デメリットの提示も、時と場合によってはやる必要があるね。でも、それは次に禍根を残すから、なるべくやらない方がいいよ。だからこの場合本当にやるべきなのは、メリットを示す方だ」
「……メリット?」
「そう。僕が喜んでそのポスターをこの店に貼りたくなるような、そんな得をする理由を示すんだよ」
今回だったら、これを貼ってくれたらもっとうちの楽器屋から、品物を買ってくれるとかね――と。
都賀は特に機嫌を損ねた様子もなく、あっさりとそう話した。
「……そんなやり方も、あるんですね」
やはり、この人は別にこちらに、危害を加えようとしているわけではないらしい。
それが彼の態度からわかったので、鍵太郎は都賀に対して素直にそう口に出すことができた。
すると楽器屋は、それまで浮かべていた笑みを一段鋭くして、言ってくる。
「だから僕はね。きみにそのやり方を詳しく教えてあげたくて、ここに呼んだんだ」
「……」
本番はどうもここかららしい――と、都賀の表情を見て鍵太郎は悟る。
商機を見つけた途端、笑顔でごり押しするのがこの楽器屋のやり口だ。
しかし、自分のどこにそんな『商機』があったのか――そう考えていると、都賀は言う。
「きみさあ。自分がこのままでいいと思ってる?」
「……!」
そこでこの楽器屋が今、自分が一番気にしていることを言ってきたので――鍵太郎は驚きのあまり、目を見開いた。
確かに、そうなのだ。
ここ最近は、部長になることへの不安から、そのことばかりを考えてきた。
けれど――それで部員のみなから優しい言葉をかけられるたびに。
「思ってないでしょ。このままじゃいけない、どうにかしなきゃって思ってるでしょ」
心のどこかで、疑問に思っていたことがある。
もっと自分に自信を持っていいと、あのアホの子は言っていた。
大人だってそうそう全部上手くはやれないのだから、独りで抱え込む必要はないと顧問の先生は言ってくれた。
やり方は無数にあるのだから、自分が正しいと思うものを選んでいけばいい。そう今の部長からは言ってもらった。
師匠とも言うべきあのおっさん女子高生からは、疑問に思うことがあったらどんどん調べに行けばいいと言われ。
そしてこれからも一緒にがんばろうと、クラリネットの同い年には言われた。
さらに今まであんなに対立していたはずの副部長にさえ、あなたの望むことをやればいいと言われたのだ。
けれども――
「……まだ、足りないんです」
そんな優しい言葉だけでは生きていけない世界があることも、自分はもう知ってしまっていた。
これからは、楽しいだけじゃだめなんだ――選抜バンドでそう言っていた、あの人のことを思い出す。
あの人が今、幸せかどうかはわからない。
けれどもこれからは、せめて自分の周りだけは不幸が降りかからないように、守っていきたかった。
だから――
「こんな自分じゃ、全然足りない。俺自身が強くならなきゃって――ずっとずっと、思ってました」
そんな方法があるなら、ぜひとも教えてもらいたかった。
つい先ほどだって、目の前にいるこの楽器屋に、自分の武器をあっさりいなされたばかりなのだ。
もっともっと強くならなければ、この先はとてもやっていけない。
そう答える鍵太郎に、楽器屋は目を輝かせる。
「ほら。やっぱりそう思ってたじゃないか。だから僕が、これからそのための方法を教えてあげようって言ってるんだよ」
「それを教えて、あなたに見返りはなにかありますか」
しかしこの楽器屋が、単なる厚意だけで動くはずがなかった。
その裏には必ず、計算づくの利益があるはずだ。
鍵太郎がそう考えていると、都賀は間髪入れずに答えてくる。
「お代は、きみの将来かな」
「……」
これじゃまるで、悪魔の取引じゃないか――目だけが笑ってない笑顔を浮かべる楽器屋に対して、鍵太郎はそんな感想を持った。
命や寿命を差し出す代わりに、その者は絶大な力を得る。
けれどもそれの行き着く先は、いつだって破滅しかないのがお決まりのパターンだ。
それでも悪魔を上手くやり込めて、めでたしめでたしとなる結末のものだって、ないではないが――その前に取って食われる可能性だって、十分にあり得る話だった。
そのようなリスクを冒してまで、都賀のこの誘いには乗るべきだろうか。
そう思って、鍵太郎が楽器屋とにらみ合っていると――
そこでふいに、元気な女性の声が割って入ってくる。
「あー! また店長が見所のある子をいじめてるー!」
「合戦場さん、これはいじめてるんじゃない。契約上の駆け引きというんだ」
そこにやってきたのは、エプロンをつけた女性店員、合戦場だった。
彼女は都賀の言葉にも「そんなこと言って店長、パワハラを正当化するのはだめなんですからねー!」と言い放って、持ってきたコーヒーを二人の前に置く。
「まったく。お客さんに対してなんてことをしてるんですか!」
「お客さんだからこそだよ。彼は僕にとって大事なお客さんだ。だからこそこうやって交渉して、利益を出そうとしてるのさ」
「もー! ああ言えばこう言う!」
「あのう……」
合戦場の登場によって緊張していた空気が一気に緩んでしまい、鍵太郎はどうしたものかと声をあげた。
すると彼女はなにかを勘違いしたのか、こちらに向かって言う。
「あ、ごめんごめん! うちの店長が変なこと言ってごめんね! ゆっくりコーヒーでも飲んでいって!」
「いえ……そうではなく」
「じゃ、私は店番に戻りますから。この子になんか変なことしちゃダメですよ、てーんちょ?」
「変なことなんてしないよ。ただこれからの取引内容について、じっくり話し合うだけさ」
「わー、うさんくさーい!」
そう言い捨てると、合戦場は持っていたトレイを置きにまたその場を立ち去っていってしまった。
風のようにやってきて、風のようにいなくなる人だ。鍵太郎がぽかんとしていると、都賀はこめかみに指を当てて苦笑いし、こちらに言ってくる。
「……まあ、ああいう子なんでね。店の雰囲気を明るくするのには、すごく役立ってくれてるよ」
「全部リセットして去っていきましたね、あの人……」
「まあおかげで、ちょっとこっちも悪ノリが過ぎたかなって思ったねえ。さっき僕は『きみの将来』って言ったけど、あれはちょっと端的に表しすぎたかと思う。正確には、きみにはなかなか見所がありそうだから、今のうちに恩を売っておきたいっていうところさ」
「……そうですか」
「それで
先行投資というか、青田買いというか。
まあそんなところかな――そう言って、楽器屋はまた営業スマイルを浮かべた。
「だからそこまで深刻に考えなくていい。それでも真剣には考えてはほしいけど」
「つまり、話し合いはまだまだ続くんですね……」
「当然さ。ここからが本番だよ?」
じゃ、コーヒーでも飲んで一服したら、また交渉を始めようか。
都賀はそう言って、置かれたコーヒーカップに手を付けた。
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