第182話 自信の在り処
夏休みも終わって、二学期に入ったこの時期。
受験のため三年生は、部活に来たり来なかったりするものだが――
しかし関掘まやかは、毎日のように音楽室に顔を出している。
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「……で、誰よりも上手く吹いて帰る、ってわけだ」
と、そんなフルートの先輩の背中を見て。
先ほど吹奏楽部では、今度学校祭でやる『エルザの大聖堂への行列』という曲の合奏をしたわけだが――まやかはその冒頭のソロで、見事な吹きっぷりを見せたのだ。
本当に上手いというのはこういう人のことを言うんだろうな、というくらい、それは圧巻の演奏だった。
彼女は前から上手かったが、最近はそこに加えて、さらに凄味すら迸ってきたように感じる。
『はじまりの火』を取り戻した彼女に、もはや敵はいないのだ。
そういう意味では、今回のコンクールはこの先輩にとって、とてもいいものだったのだろう。
いいものだったと、思うのだが――
「あーあ……」
しかしだからこそ、そんな彼女と、自分の演奏を比べてしまって。
鍵太郎はそこで、ため息をついた。
『エルザの大聖堂への行列』には実は、鍵太郎にも一人で吹くところがあるのだ。
だが一人といっても、まやかのようなソロではない。
いつもと同じ伴奏だ。
ただそれが、それぞれの楽器が小さく一本ずつで吹く――という、少々怖い場面であるだけで。
「……」
そう考えると、自分のメンタルが豆腐のごとく弱いものに感じられてしまって、鍵太郎は渋い顔で再びため息をついた。
こんなんで、本当にこれから部長としてやっていけるのだろうかという思いがまた、頭を掠める。
別に、部活で一番上手くなきゃ部長になっちゃいけないなんて、そんな考えを持っているわけではないのだけれども。
それでも、部長になるんだったら――このくらいのプレッシャーなんて跳ね除けて吹けなくちゃいけないんじゃないかという思いがあるのもまた、事実だった。
だからこれは、まやかが悪いわけではない。
自分が自分で、どうにかしなければならない問題なのだ。
それがわかっていたからこそ、鍵太郎は必死に、どうにかならないかと頭を巡らせていたわけだが――
「……あれ?」
しかしそのせいで、まやかがいつの間にか振り返ってこちらをじっと見ていることに、しばらく気がつかなくて。
そしてなおかつ、こちらが気づいたのを悟った瞬間――彼女が笑顔で、手招きをしてくるのが見えて。
「……」
その光景に、鍵太郎はそれまでの暗い気分など、はるか彼方に吹き飛ばし。
そして、その代わりに――心の底から、ダラダラと冷や汗を流し始めた。
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鍵太郎にとって関掘まやかに連行されるというのは、ヤンキーに体育館裏に呼び出されるのと同じくらい、恐ろしいことである。
なので――
「……こ、殺される、殺される、絶対殺される……!」
体育館裏ならぬ、音楽準備室に連れ込まれた鍵太郎は、そんな先輩を前にガタガタ震えていた。
なにしろ彼女にはちょうど去年の今頃、演奏のことで散々と言っていいほどしごかれているのだ。
それはもはやトラウマと言ってもいいレベルで、鍵太郎の精神に深い影響を及ぼしていた。
去年と違うところは唯一、まやかが笑顔であることだが――むしろそれが、余計に怖い。
何が怖いって、その笑顔で、去年よりさらに彼女が何を考えているか分からなくなっていることが、とんでもなく怖い。
元々この先輩とは演奏上の音域も役割も、まるで違うのだ。
そのせいでここ最近まで、ずっと彼女とは対立をしてきた。
だからこそ、鍵太郎はこの部活で一番、この人が苦手だったのだが――
「どうしたの? 何をそんなに怯えてるの?」
しかしまやかは、笑顔のまま不思議そうに、そう首を傾げて訊いてくる。
その態度はまあ、去年のように訳が分からないまま、嫌悪感むき出しで「おまえが嫌いだ」と言われるよりは、はるかにマシなのかもしれなかったが――
しかしその裏では、一体どんな感情が渦巻いているのか知れたものではない。
なので鍵太郎は、激しく目を泳がせながらも、まやかに対して探りを入れることにした。
「い、いやあ……! なんで俺、ここに呼び出されたんだろうな、って思って……」
「それはあなた自身が、一番よくわかってるんじゃないの?」
「ぐふぅっ!?」
「あら、なんで吐血するの?」
鍵太郎があまりの衝撃で倒れ伏すのにも、まやかはあまり意に介している様子もない。
どうやら彼女は、自分が周りにどのくらいのプレッシャーを与えているのか、よく理解していらっしゃらないらしい。
そのせいで、前は『静かなるタカ派』なんて影で呼ばれていたくらいだったのだが――
そうだ。
この人は昔から、こういう人だった。
だから――
「……先輩は上手いなあ、って思ったんですよ」
鍵太郎は倒れ込んだまま、ため息と共に、自分の本音を吐き出すように口にしていた。
最低音と最高音。
その立場の違いそのままに――
鍵太郎はまやかの上からの視線を頭の後ろで感じながら、言う。
「すげー上手いなって思うんですよ。それは先輩が、これまですっげー努力してきたからだっていうのも知ってるんですけど……そうじゃなくて、もっと根本的に俺とは何か違うんじゃないかって、そう思うときがあるんです」
それこそ、彼女が血を吐くような努力を重ねて、そこまで辿り着いたことは知っている。
誰よりも曲のことを考え、演奏のために練習して。
気がついたら自分がなにを思って楽器を吹いていたのかさえ、忘れていた人だ。
けれども、それ以上の『どうしようもないもの』が――ひょっとしたら、この先輩と自分の間にあるのではないかと感じるときがあるのは、確かだった。
そう、例えば――
今日の合奏で、彼女がとてつもない演奏をしたときとかに。
「あんな風に吹けるのかなって――先輩みたいに吹けるのかなって、すごく不安になるんですよ」
音楽のことしか考えてなくて。
自分が周りにどんな影響を与えてるなんて、考えもしない。
それに、色々と迷惑をかけられたこともあるけれど――それなのに、あんな風に堂々とソロを吹けるというのは、ある側面では彼女の『強さ』でもあって。
周りのことばかりを考えてしまう鍵太郎にとって、それは非常にうらやましいものでもあった。
「どうやったらそんな風に吹けるんですか。どうやったらそんな――自信たっぷりに振る舞えるんですか」
自信がないとか怖いとか。
そんなものをこの先輩は、もう演奏からは微塵も感じさせない。
あんな風に吹けたら、どんなにいいだろうと思う。
そんな、誰もが認めて、誰もが部長だと納得できるような存在に。
そんな人間に――自分もなりたかった。
けれども、それは不可能なことなのかもしれないと、この人を見ていると思ってしまうのだ。
立場が違うから。性格が違うから。
そう言ってしまえば簡単かもしれなかったが――そこで目を閉じて『諦めてしまう』ような真似は、絶対にしたくなかった。
だからこそ、自分はこうして這い蹲るようにして悩んでいるのだ。
そう言い終えると――
まやかは「……なるほどね」とつぶやいて、こちらに声をかけてきた。
「一体なにを、後ろでため息をついているかと思ったら、そういうこと。そんなことで、あなた悩んでたの」
「そんなことって、そういう言い方ないじゃないですか……!」
さすがにその言い草にはカチンときて、鍵太郎は顔だけを上げてまやかへと抗議した。
こっちが真剣に悩んでいるのに、そんな風に言うことはないのではないか。
そう言いたかったのだが――
先輩は呆れ顔でこちらの視線を受け流し、いつもの調子で言ってくる。
「あのね」
「――っ!」
――怒られる!
と、その口調に、思わず去年のことを思い出してしまって――鍵太郎は反射的にびくりと身体をすくませた。
そして、そんな後輩に。
先輩はそのまま、自分の思いを告げてくる。
「あなたは演奏してるんだから、曲のことだけ考えてればいいのよ」
「……え?」
そんな、予想外のセリフに。
鍵太郎の理解は、最初全く追いついていなかった。
その様子に、まだ言葉が足りないと判断したのか――まやかは一瞬首を傾げた後、さらに言葉を重ねてくる。
「あのね、部長だからとか自信たっぷりに吹こうとか、上手くやろうとか間違えないようにしようとか、そんな余計なこと一切考えなくていいの」
「よ、余計なこと……?」
「余計なことよ」
あっさりとそう言い切られて、そんな先輩に鍵太郎は、絶句するしかなかった。
自分にとってこんな大きなウエイトを占めているものが、この人にとっては単なる『余計なこと』なのだろうか。
全く理解できない。
それはやはりこの人とは、まるで立場が違うからなのだろうか――そう思って呆然と口を開けていると。
まやかはさらに言ってきた。
「むしろそんなこと考えてたら、吹けないでしょう。だったら、このフレーズをどう吹くか、この曲をどう吹くか。それだけを考えてた方がいいじゃない。わたしはそうしてるわ。
「あ……」
音楽のことしか考えてない。
それが関掘まやかという人で――だからこそ、この先輩はこの先輩であるということを。
鍵太郎は、ここで改めて思い知った。
曲のことしか考えていないからこその、あの見事な吹きっぷり。
それが結果的に、周りを圧倒して自信に溢れているように見せていただけで――本人は全く、そんなことを考えてすらいなかったのだ。
威圧も嫌悪も執着も傲慢も、もうこの人の中にはまるでない。
あるのはただの、真っ白な思いだけ。
それを周りが勝手に誤解して、勝手に怖がって――勝手にうらやましがっていただけだった。
「あ……はは、は……!」
自分で勝手に、思い込んでいただけだった。
それに鍵太郎が、苦い、苦い笑いを浮かべると――まやかはその表情に、やっと自分の言いたいことが伝わったと悟ったのか。
安心したように微笑んで、言う。
「というか、まあ――本当の意味で、そう自覚して吹けるようになったのは、ごく最近なんだけどね」
「……最近、ですか?」
「それまでのわたしは、無意識にどこかで『誰かの要求してくる音』を出そうとしていたから。気がつかないうちに、先輩たちならこう言っただろう、先輩たちならこうしただろうって――記憶の中の先輩たちの音を真似て、先輩たちの影を追いかけ続けて――そうやって、いつの間にか自分の望みを忘れていったのが、それまでのわたしだったから」
「ああ……」
コンクール前のことだ。
彼女が自分がどうしたらいいのかわからない――と言ったときに、それを突破する手がかりになったのが『自分の望みを思い出すこと』だった。
そのときまやかは、『いなくなった先輩たちと、もう一度一緒にやりたかった』と言った。
それはもう叶わないことだけど――それでも、今いる部員たちと一緒にできれば、それでいいのだと。
そう自覚した途端、まやかの音は変わり始めたのだ。
「そのことで、わたしはだいぶ遠回りをしてしまったから――他の人にはそうしてほしくないの。あれはわたしにとって必要なものだったかもしれないけど、それでもやっぱり、あまりよくないことには、変わりないから……。ましてや、それを思い出させてくれたあなたに同じ思いをさせるなんて――絶対にごめんだったから」
だから、と関掘まやかは言った。
いつものように、きれいな滑舌で――今までで一番の、微笑を浮かべて。
彼女はこちらを見下ろして――言う。
「あなたはあなたの『
そう言って、こちらに手を伸ばしてくる先輩のことを。
拒む理由など――どこにもなかった。
「――はい」
その手を取って、鍵太郎は立ち上がる。
その様子を楽しげに見て――そしてまやかは、少しだけその微笑みに、悲しげなものを混ぜた。
「……あの人も、こんな風に考えられたらよかったのにね」
「……先輩、『あの人』って」
それは彼女を置いていなくなってしまったという、かつてこの部にいたという先輩のことだろうか。
『その人』に関する出来事は、鍵太郎が入部する前のことだ。
なのでその件については、こちらも人づてにしか聞いたことがないのだが――
それでも、彼女にここまでの影響を与えた人だ。
『その先輩』はまやかにとって、とても大切な人だったに違いない。
けれど――そのことについて、彼女はゆるゆると首を振る。
「……いいえ。もう、いいの。なんでもないわ。これはもう昔のこと。あなたの知らない――遠い遠い、昔のこと」
だからもう、いいの――
そう言って悲しげに微笑むまやかへは、それ以上触れてはいけない気がした。
これは、彼女だけの物語だ。
自分も持っている、他人には触れてもらいたくない部分だった。
だから――
「……今度の学校祭、がんばりましょうね」
「――ええ」
『今』の彼女の微笑みを取り戻すため。
鍵太郎はまやかに、ただそれだけ声をかけることにした。
###
だが。
触れてはいけない部分とはいえ、触れなければならないところもある。
というわけで――
「……そういえば先輩。先輩はテストとか、大丈夫なんですか?」
あまりにも毎日部活に来ているまやかのことが心配になって、鍵太郎はそう尋ねていた。
今度の学校祭は、三年生は確か、今度の中間テストで学年二十番以内に入らないと出られなかったはずなのだ。
学校祭は十月末だ。受験の近い三年生への、特例措置のようなものだろう。
勉強はがんばっているから、部活に出ていても大丈夫――そんな風に正面切って言えるようにするための、その順位である。
まあここまで完璧に、ソロを吹くこの先輩のことだ。
肝心の本番に出られないなんてそんな手落ち、するわけないだろうが――と、思っていると。
「……えっ?」
関掘まやかは、なぜか表情を凍らせて。
そのままダラダラと――滝のような冷や汗を流し始めた。
「……えっ?」
その様子に、軽く訊いてしまった鍵太郎の方がむしろ面食らう。
奇しくもそれは、先ほど自分がこの先輩に呼び出されたときと、全く同じ反応で――
だからこそ鍵太郎が呆然としていると、やはりまやかは同じように激しく目を泳がせながら、言う。
「だ、大丈夫というか、そうよ、あれでしょ? 二十番以内とはいかなくとも、赤点を取らなければいいんでしょ?」
「いや、なんかすっげえハードル下がってるんですけど……え、先輩? ひょっとして」
まさか。
こんなに毎日のように部活に来ておいて、この人――
「実は先輩、意外と成績悪……」
「そんなことない。そんなことないわよ?」
食い気味に否定してくるその様は、なんだかもう逆に説得力がなかった。
しかし、こちらとしても驚きなのだ。
こんなに部内では圧倒的な実力を誇るこの人が、まさかそれ以外では、結構なポンコツだとは――そう思っていると。
まやかはいつものようにきれいな口調でもって、高速で後輩に弁解を始める。
「違うのよ? そうじゃないのよ? 練習ばっかりやってたせいで気がついたら勉強してなかったとか、そういうんじゃないのよ? 成績も別に、そんなに悪くはないのよ? ええ、そんなには」
「先輩……すごく悲しくなるんで、もう止めてもらってもいいですか……?」
「だから! 赤点さえ取らなければこっそりと、素知らぬ顔で本番に出ちゃえばいいのよね。さすがに出ちゃったらもう、ステージから引き摺り下ろされることはないわ。そうなったらもうこっちのものよ」
「えー? そうかなあ……?」
なんだか悪しき伝統が、この人から始まろうとしている気がしないでもないのだが――
しかしまあ、もうこの人がいないと成り立たないというくらいまで、練習は進んでしまっているのだ。
そしてあの『エルザの大聖堂への行列』のソロは、もうまやかで行くことしか考えられなかった。
ならここは、多少目をつぶるしかないのだろうが――しかし。
「わかりました、わかりましたよ。こっそり出ちゃっていいと思いますよ、俺も」
「そ、そうよね。さすが話がわかる人は違うわ。ふ、ふふ」
「ただし」
安心しかける先輩に向かって、鍵太郎は楔のように強く一言を打ち込む。
それに、まやかはびくりと身体をすくませて――どうも、立場が先ほどとは完全に逆転してしまっていて、それが妙におかしいのだが。
鍵太郎は笑ってそのまま、先輩に自分の思いを告げることにした。
「先輩は、もっと音楽以外のことも考えないとだめですからね?」
「……はい」
「はい。わかればよいのです」
ちょっとだけ今の部長の真似をして、得意げに胸などを反らしてみる。
それがまあ、自信につながるのかはわからないが――
「……少なくとも去年より俺は、先輩と対等に吹けそうですよ」
誰よりも一緒に吹ける誰かを探していた、その先輩に対してそう言えるようになったのは。
きっと自信に思っていいんじゃないかと――今はそう思えるのだ。
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