第181話 僕らが苦労をする理由
どうして彼女は、兄から借りていた楽器を置き、違う楽器を手にすることにしたのか――
「これは、この前言ったよね。私は――」
その答えは、彼女自身の口から語られた。
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「で? 具体的になにを教えるんですか?」
同い年の
クラリネットから、バスクラリネットへの転向。
それには一体、どうすればいいのか。正直この先輩にあまり主導権を渡したくなかったのだが、木管楽器のことになると畑違いの鍵太郎にはよくわからないので、そう言わざるを得なかったのである。
すると広美は、その眼差しを涼しげに受け流し鍵太郎に言う。
「まあ、実はそれほど指使いも変わらないし。同じクラリネット属だから、そんなに苦労することはないと思うんだ。
だから結局、慣れなくちゃいけないのは、純粋にその大きさだと思うよ」
そう言って、広美は咲耶の持つバスクラリネットを見た。
これまで広美が吹いてきたその楽器は、咲耶が吹いていたクラリネットの、名前の通り低音楽器版だ。
なにが違うといえば、やはり先輩の言うとおり、まずその大きさである。
楽器が大きいほど低い音が出る――という法則そのままに、バスクラリネットは、通常のクラリネットの二倍の長さがあるのだ。
なのでこれまでと同じように吹いてしまうと、感覚の違いに戸惑うことになる。そう広美が解説すると、それを聞いた咲耶がうなずいた。
「あ、はい。さっきちょっと吹いてみて思ったんですけど、やっぱり長さが出た分、吹いたときの抵抗が違うというか。マウスピースも大きくなったので、口の中で制御するのが大変でした」
「『大きくなったので、口の中で制御するのが大変でした』ね、うん」
「……なにが言いたいんですか」
なぜかそこを繰り返して言ってくる広美に、鍵太郎は再びうろんな眼差しを向けた。
始まった――と、ニヤニヤ笑う広美を見て思う。
この先輩は腕も立つし知識もあるのだが、こんな風に、普通だったら口に出すのもはばかられるようなことを言って、その反応を楽しむという悪癖があるのだ。
今回もまさにそれで、鍵太郎は咲耶を守るために、こうして広美との間に立っているのである。
これから一緒に低音楽器としてやっていくために咲耶には上手くなってもらいたいが、こんなのの影響を受けてしまっては大いに困る。
このオアシスに毒沼になられたら、もう目も当てられないのである。
それをもう一度強く認識して、鍵太郎は先輩と戦う覚悟を決めた。
反撃に出る。
「なにを言っているのかは俺にはよくわかりませんが、とりあえず、クラリネットに比べたら反動が大きいんだな、ということはわかりました」
「そうだね。つまるところ、最初から最後までそこなんだと思う。その先の低音の役割とか歌いまわしとかは、後で湊っちやアサミンに訊くといいよ」
鍵太郎がそう言うと、先輩は意外なほどあっさりと引き下がる。
しかし口の端に笑みを浮かべていることからして――今のはまず小手調べ、ということなのだろう。
本当の戦いは、むしろこれからだ。
そう思って身構えると、広美が言ってくる。
「反動に関しては、たぶん吹いているうちに気にならなくなっていくと思う。楽器自体が大きいんだから、振動だってデカくなるさね。がんばって咥えて慣れてってちょーだい」
「わかりました」
「……これはなんのためらいもなく返事できる宝木さんがすごいのか? それとも俺が穢れているだけなのか……?」
その広美の攻撃など全く意に介していない――どころか完全に理解していない咲耶の反応に、ふと、鍵太郎の鋼の意思がぐらつきかけるが。
しかし、だからこそ自分が踏ん張らねばならないのだ。そう思って、再び闘志を呼び戻す。
「いいぜ……やってやろうじゃねえか」
孤独な戦いになるのは、最初からわかっていたのだ。
毒を食らわば皿までも。
この先輩の放つ攻撃は、全てこの身に引き受ける所存である。
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「あとは、やっぱり少し、息を多く使う気がします」
鍵太郎が、そんな悲壮な決意を固める脇で。
咲耶が首を傾げて楽器を見下ろし、広美に思ったことを告げた。
「これも管が太くなったからなんでしょうか? 長く吹いてると、少し酸欠になりそうです」
これも慣れるんでしょうか? と若干不安そうに言う咲耶に、鍵太郎は、自らもホルンから今のチューバに楽器を変えたときを思い出した。
そういえば、あのときは楽器が大きくなった分、毎日酸欠状態だったが――
「大丈夫。そのうち慣れるよ」
しかし今はもう、以前のように目の前が暗くなることはないのだ。それを思い出して、鍵太郎は咲耶に笑顔でそう告げた。
まあ、全力全開でやり続けたときは気がつけば合奏後に指先が痺れていたり、立ち上がれないくらい身体がだるかったりもするが。そう言うと、なぜか咲耶は顔を引きつらせる。
「そ、そっか。じゃあ私もがんばらなきゃいけないね」
「あれ? 今の説明のどこに、不安要素がありました?」
「どこもなにも、不安要素しかないじゃんか、この子は」
「え?」
どうしてか、広美にまで呆れた顔をされた。訳が分からないが、まあ、バスクラリネットならそこまで強烈な症状は出ないと思うので、そんなに心配しなくていいだろう。
その辺は、さらに音域が低いこちらに任せればいいのだ。
しかしそう言うと、咲耶は眉をひそめる。
「いや、そういうところを湊くんにばっかり任せるわけにはいかないよ」
「けど、宝木さんもそんな急にはできないと思うから、それは吹いていくうちに段々慣れていってくれればと思うし」
「それは、そうだけど……」
「じゃあ、これから毎日腹筋でもする?」
「腹筋?」
そこで出てきた広美の言葉に、咲耶はうつむきかけていた顔を上げた。
たくさん吸えないなら、吸えるように身体を鍛えればいいじゃない――そんな吹奏楽部古来のトレーニング法に、彼女は光を見出したらしい。
そういえば、卒業したあの人にもいつだったか腹筋しろって言われたなあ、などと鍵太郎が思っていると、広美が言う。
「あたしが中学のときなんかは、毎日腹筋三十回しないと下級生は楽器吹かせてもらえなかったよ」
「へー。そうなんですか」
やっぱり、これからはそういうこともしないといけないのかな。そう思って、実はそこまでやってない鍵太郎は首を傾げた。
そして咲耶といえば、楽器を置いてそのまま横になって――
「じゃあ湊っち。そしたら咲ちゃんの足首を押さえようか。眉を寄せて苦しそうな顔をして起き上がる咲ちゃんを、下からのアングルからじっくりと励ますといいよ」
「だからって、なんでわざわざそういう言い方するのかなあ、この人は!?」
「大丈夫、湊くん! 私今、ハーフパンツ履いてるから!」
「そういう問題じゃない! そういう問題じゃないんだよ、宝木さん!?」
頭の後ろに手を当てて、準備は万端という風に言ってくる同い年に、鍵太郎はそのままの勢いで突っ込んだ。じゃあどういう問題なのか、と訊かれれば、非常に答えに窮するのだが。
だからこそ、そう問われる前に鍵太郎は続ける。
「おかしいでしょ!? だったら先輩が手伝ってあげればいいじゃないですか!? 俺より詳しいでしょ!?」
「詳しいというのなら、実はこの方法はあまり役に立たないということも知っている」
「なぜやらせようとした! 宝木咲耶に、なぜこの方法をやらせようとしたぁーっ!?」
単なる嫌がらせ以外の何物でもない広美の行動に、鍵太郎はもはや泣きそうになりながら突っ込んだ。
鋼の意思も、先輩にかかっては形無しである。
打ちひしがれていると、咲耶が「役に立たないんですか?」と意外そうに立ち上がって言ってくる。
「けど、今先輩は中学のときにやってた、って」
「あー、まあ確かにそうなんだけど。最近改めて調べたらわかったんだけど、あれって鍛えられるの、楽器を吹くときの筋肉とは違うんだって。知ったときは、なんであたし、中学のときあんな思いしてたんだろって思ったね。マジで」
なんだかわからないまま、形だけが『伝統』っていって受け継がれちゃってるいい見本だよね――と。
広美は肩をすくめて言ってきた。
「だから、なにをしたいのか、どんな練習をしたらいいか。それは自分で考えて、調べていくといいよ。人から言われたものを意味もわからず模倣していくだけじゃ、それ以上は伸びないし」
きみらはすごく素直で、純粋だけど。
あたしがいなくなった後になにが必要かと言われたら、楽器云々以前にまずそこなんだと思うよ、と言って。
先輩は苦笑しながらこちらに続けてくる。
「不思議だなとか理不尽だなと思うことがあったら、まず自分で調べに行きなさい。今はネットとかに参考になることが山ほど書いてあるから、その中でいいなと思ったものをどんどん部活でも取り入れていけばいいんだし。
疑え――ってほどじゃないけど、自分の周りにあるものは、自分の納得いく形で受け止めにいったほうがいいんだ。楽器のこともあるけど、今回はそれが言いたかったのさ。あたしは」
「先輩……」
自分がいなくなった後のことを、雄弁に語る広美を見て。
鍵太郎は、この先輩が自分たちの未来のことを、本気で心配しているのだと悟った。
そう言われてみれば確かに、自分も咲耶も、言われたことには従ってしまうというか、事を荒立てたくないために黙ってしまう面はあるのだ。
しかしそれがある側面で、今回のコンクールのような、事態がギリギリになるまで動けない状況を引き起こしてしまった、とも言える。
だからこれからは、自分のような人間がいなくなっても低音として、三年生として、自分たちの力でこの『場』を動かせるようになってほしい――と。
広美がそう言いたかったのだとわかり、鍵太郎は先輩に声をかけた。
ここ二年ほどの付き合いで、この先輩がなにを言いたいのかは、だいぶわかるようになっている。
なので、それと同時に――
「先輩、今の……その場の雰囲気で思いついたからしゃべってただけですよね……?」
「あ、ばれた?」
この人が急にこんなもっともらしいことを言い出すときは、なにか裏があるのだということも、これまでの経験からわかっていたので。
鍵太郎は、舌を出して笑う広美を、苦笑いで見返した。
まったく、この人はどうしてこんな真面目なことを話すと同時に、こんな顔もできてしまうのだろう。
その言動のせいで周りから、なにを考えているのかわからない、と言われることもある彼女だが――
「あーもう、そうやって茶化すからいまいち説得力に欠けるんですよ。先輩は」
たぶんこれは、広美なりの『照れ』なのだ。
それがなんとなく察せられて、鍵太郎は自分の師匠に、あと何度できるかもわからない反撃をした。
今浮かべている苦笑いも、真剣な顔も、まぎれもなくこの人そのもの。
まったく、両極端にすぎるのだ。
自分のことや、場の雰囲気を客観的に見られるにもほどがあるだろうに――
そう思っていると、広美はいつのもようにニヤリと笑って言う。
「そうかい。じゃあ練習再開だ。楽しい時間を、もうちょっと続けようかねえ」
「望むところです」
そんな先輩の顔を見て、鍵太郎は、その感情を笑って受け止めた。
この人が最後に渡してくれるもののを、余さず全て受け取りたい。
この、なんでもできるくせに変に不器用な――そんな師匠を見て、今更ながらにそう思う。
「さあて。じゃあこないだ調べたら出てきた、肺活量を増やすためのブレストレーニングをやってみようかね。はい、じゃあ二人一組になって。咲ちゃん、ちょっと前屈みになろう。湊っちは咲ちゃんの下腹部を押さえようか」
「人がその気になったのを見て、サラッととんでもないこと言ってきやがったな、この人は!?」
「大丈夫だよ! 湊くん、私がんばるから!」
「宝木さんは、その努力の方向性を先輩の言う通り、もうちょっと見直したほうがいいと思う!」
でも――やっぱり弟子で遊ぶのは止めてほしいな、と。
いつもの広美を見ていると、そんなことを思ったりもする。
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「ああ……。まったく、ひどい目にあった……」
そんな、別の意味で地獄の特訓、とも言うべき試練を終えて――
鍵太郎はぐったりと、椅子にもたれかかった。
あれから咲耶と二人で先輩の指示通りに動かされたり、弄ばれたり、実になるんだかならないんだかよくわからない形でトレーニング法を教えられた。
すると、隣にいる咲耶が言う。
「ごめんね、湊くん。なんだか付き合わせちゃって」
「ああ、いいよ。それは」
申し訳なさそうに言う同い年に、鍵太郎は笑って手を振った。
さっき教わったことの中には、自分にとって役に立つこともあった。それになにより、彼女がこうしてバスクラリネットを吹こうと決めたことは、それだけでも十分嬉しいことなのだ。
だから別に、咲耶が気にすることはない。まあ、いささか努力がひたむき過ぎる感はあるが――それも彼女が新しい楽器に慣れようと、必死だからだろう。
けれど――
「でも……なんで宝木さんは自分の楽器があるのに、バスクラをやろうと思ったの?」
彼女はどうして、兄から借りていた楽器を置いて、違う楽器を手にすることにしたのか。
それだけがわからなくて、鍵太郎は咲耶に、直接理由を尋ねてみることにした。
普通は自分の楽器があるのだったら、そのままそれをやり続けるはずである。
こんなに苦労をしてまで楽器を変える必要など、どこにもないのだ。なのになぜ、こうまでしてバスクラリネットに変えようとするのか――
そう思って首を傾げると、咲耶はちらりといつもいる、クラリネットの方を見た。
「うん。まずは、あっちはもう大丈夫かな、って思ったから」
「……ああ、なるほど」
彼女が目で指したところに一年生の、クラリネットの後輩の姿を認めて、鍵太郎はうなずいた。
いつもビクビクオドオドしているはずのその長い前髪の後輩は、今はそんな様子も見せず、ただ一心不乱に流れるような連譜の練習をしている。
『メリー・ウィドウ』の最後の部分だ。
目の回るような高速フレーズを苦心しながら、でもどこか楽しげに吹くその姿は、この間のコンクールのときとは違って、生き生きして見えた。
あれなら、もう誰かの影に隠れなくても大丈夫だろう――そう咲耶が判断したのも納得できるくらいだった。
心配だった後輩のことがなくなって、彼女もこれからを自由に選択できるようになったのだろう。
でもそれは、あえてバスクラリネットを選ぶ理由にはならないはずなのだ。
それは二次的な理由に過ぎない。だったら、本当の理由はなんなのか――そう思って、鍵太郎がきょとんとして咲耶を見ると。
彼女は、ふっと微笑んで言ってくる。
「そういえば、前に言ったっけ? 私がこの部に入ったのって、お兄ちゃんが楽器を吹き始めて変わった理由が知りたいからだ――って」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたね」
もう、だいぶ前のことだが。始めてこの同い年の家に行ったとき、咲耶はそういえば、そんなことを言っていたのだった。
自分の兄がびっくりするほど変わった、その理由を知りたいと――
そう言っていたはずの彼女は、しかし今度はこちらがびっくりするくらいに、嬉しそうに笑う。
「それがもう、わかったから」
その笑顔を、そのままこちら向けて。
そして咲耶は真っ直ぐに、自分の思いを告げてきた。
「これは、この前言ったよね。私は湊くんと一緒にいるって」
「あ……」
その言葉で思い出すのは、この同い年と一緒に行った選抜バンドだ。
その最後の最後で、傷ついてしまった自分に彼女がかけてくれた言葉が――
「そう。あのときの約束を守ろうと思ったんだよ。
つらいことも、苦しいこともあるかもしれないけど、私は湊くんと一緒にいます。それが答え」
自分にとって、選ぶべき道だったと。
そう言い切る咲耶に、鍵太郎はただ「……ありがとう」としか言えなかった。
部長や副部長とはまた違った意味で、『場』を動かせるこの低音楽器――
そこに彼女が来てくれたことに、改めて感謝の意を示す。
「ありがとう、宝木さん……。ここはたまに、すっごくつらくて苦しいこともある低音パートだけど、俺は宝木さんと一緒にがんばろうと思う……!」
「……うん。そう言うだろうなあとも薄々思ってたから、まあいいんだ。元々、性格的には私も低音向きだと思うし……ありがとう。一緒にがんばろう。うん」
「うん。あれ?」
なぜか若干テンションが下がった咲耶が、気になるといえば気になるところではあったが――
それでも心強い味方が増えたことに、間違いはないのだ。そう思って、「これからもよろしくね、宝木さん」と声をかけた。
すると、咲耶は――
これまで誰かからの借り物で、誰かの道を歩んできた彼女は。
「はい。これからもよろしくね――湊くん」
少しだけ苦笑気味に、しかし、とても嬉しそうに笑って――自分の意思で一歩、こちらに近づいてきてくれた。
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