第180話 お楽しみはこれからだ
「……あれ?」
その間違い探しのような光景に、鍵太郎は思わず目をぱちくりさせた。
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その光景を見る、数日前――
「リードってみんな同じように見えるけど、そんなに違うもんなんですか」
鍵太郎は自分の前で楽器を吹く、高久広美にそんなことを訊いていた。
広美の担当は、バスクラリネットだ。
チューバを吹く鍵太郎とは、同じ低音楽器になる。だがこの二つの楽器には、大きな違いがある。
木管楽器と金管楽器。
それは鍵太郎が今口にした、『リード』を使って音を出すかそうでないか、ということだ。
するとその、リード――アイスを食べるスプーンくらいの大きさの薄い木製の板をぴこぴこ振って、広美が言う。
「違う違う。全然違うよ。やっぱり植物――生き物からできてるから、一枚一枚個性があるし。同じ箱に入ってた五枚でも、吹いてみると全然違うくらいだからね」
「へー。そうなんですね」
先輩の言葉に、鍵太郎は不思議半分、感心半分といった印象でうなずいた。
リードを息で振動させて音を出す――という、クラリネットやサックスといった、木管楽器の音の出る仕組みは知ってはいたが。
やはり自分にはないものなので、詳しいことはわからなかったのだ。
なので今しがた、学校祭に向けて新しく状態のいいものを選ぶことにしたという広美に、そんなに違うのかと訊いてみたのである。
素人目には全部同じにしか見えないのだが、それでもこの先輩にとって、それは全部違うものらしい。
楽器のシルエットが印刷された箱からリードを取り出し、彼女はそれを口に咥える。
「バスクラだと大体五枚、一箱の中に入ってるけど。それでも加工の具合が違いすぎるから、こうやって一枚ずつ吹いて見ていかなくちゃいけないの。使ってると磨耗してくるから、こうやって状態のいいのを自分で探して、どんどん準備してかなくちゃいけないし」
「ふーん。大変なんですね、木管の人って」
自分の知らないところで、木管の人たちは苦労してたんだな――そんなことを改めて知って、鍵太郎はうんうんとうなずいた。
先輩がリードを何枚も付け替えているのを見たときは、一体なにをやっているのだろうと思ったが、こうして説明を聞いてみると、彼女たちにとってこれがいかに大切な作業なのかがよくわかる。
いい音を出すには、まず道具選びから。
言われてみればもっともな話だ。
しかし品質に一枚一枚バラつきがあるということは、それだけ選ぶのにも苦労するのではないか。金管吹きからすると、音を出すまでにそこまでやるというのはかなり面倒なことに思えて、鍵太郎は首を傾げた。
けれどもその様子を見て、先輩はおかしそうに笑う。
「いいや、もう大変だとか、思わなくなっちゃったよ。なんていうか、感覚的には、毎回宝くじ買ってる気分かな。今回は当たりが何枚入ってるかな、それとも全部ハズレかな……っていう。そんなんだから、箱を開けるときは毎回ドキドキしちゃうね」
「なんだか、相変わらず例えがおっさんですねえ」
「結構、的を射てる表現だと思うんだけどねえ。まあ、そんなわけで。これはあたしのお楽しみでもあるんだ。なんなら、一度後学のため見ていくかい?」
そう、おもしろそうに広美が言うので。
鍵太郎は、すぐに首を縦に振った。直接自分には関係ないものだが、木管の人たちが、どうやって自分に合う道具を探すのかに興味が出てきたのだ。
そんなに楽しい作業だというのなら、なおさら――と。
そう思う鍵太郎の脇で、広美はさっそく新しいリードを箱から取り出した。
キラキラした青い外装フィルムに手をかける。そして――
「では、まずこの子の服を脱がせます」
「ちょっと待てい」
そこでいきなり謎の言い回しが飛び出してきたので、鍵太郎は思わず広美にストップをかけた。
確かに、先輩はさっき、一枚一枚個性がある、などという言い方をしていたが。
それはないのではないか。半眼で自分を見つめてくる後輩に、しかし広美はニヤニヤ笑いながら、素知らぬ調子で言ってくる。
「なーに? なにか引っかかることでもあった?」
「いや……別に」
その顔を見て、確信する。
これはいつもの、逆セクハラだ。
困ってるこっちを見て、悪趣味にも楽しんでるだけなのだ。そう思って鍵太郎が口をつぐむと、先輩はニヤニヤ笑いのまま、解説を続けてきた。
もちろん――妙な言い回しはそのままで。
「最初に裸にした子は、濡らしてあげないといい声を出してくれないので、舐めて水分を含ませます。お風呂に入れてあげるのも可。一度にたくさんの子を見てあげるときは、そうするときもあるよ」
「な、舐める……。それに、一度にたくさんて……」
「だーって、相性のいい子って見つからないときは、本当に見つからないんだもん。なにか言いたいことある? ない? じゃあ続けるよ。適度に濡れたら、楽器にセットします。このときマウスピースにはリガチャーで正常な位置に固定してあげて、ズレのないように。ちゃんと味見できないからね」
「味見……」
「うん、そう。そうやって楽器につないであげたら、いつもやってるみたいに、いろんなことをしてあげるんだ。内容は人によって、好みだね。ゆっくり長めにやったり、タンギングの具合を確認したり」
「…………」
なんだかもう、単なるリード選びが、別のものに見えてきた。
木管奏者って、みんなこんなんなのか。いや、同い年のクラリネット吹きは、こんなこと絶対考えてないはずだ――などと現実逃避にそんなことを考えている間にも、先輩は言う。
「角度も変えて試すよ。右に寄ったり左に寄ったり、ポイントがズレてる子もいるからね。さて――そんな感じであたしはひと通りやって、オールマイティにできて、印象のよかった子を残します」
「……合格ライン、高いんですね」
「そうだよ。なんたって、あたしと本番をともにする子を選ぶんだからね。それを全員やって、よかった子は期待株としてリードケース行き。普通だった子は箱に戻してまた後日。よくなかった子はさようなら」
「いい子悪い子普通の子――って、すんごい昔にどこかで聞いたような……」
「そうやって分けたら、結果的に残った子を、ちょっとずつ慣らしていくの。本番までに調教してくんだ」
「調教……」
「そう。あ、でも普通の子でもちょっと手を加えてあげると、すごくよくなったりするよ。ヤスリで削ったり」
「は、ハードですね」
「まあ、あんまりやりすぎると使い物にならなくなっちゃうから、ホントにちょっとだけだよ。ちょっとだけ。と、まあそんな風に色々あって、それでようやく本番でいい音してくれるリードができるんだ」
「本番までには、本当に……色んなことがあるんですね」
「そうだよ。ね、言ったとおり楽しい作業だったでしょ?」
「どこかですか」
どっちが、なんのお楽しみなのか。
そこでようやく発言権が与えられて、鍵太郎はニヤニヤ笑って楽しんでいる先輩に渋面でそう返した。
広美の手中にあるリードに、心の底から同情する。この人に買われてしまって、後悔していないだろうか。いや、それともいい音が出るようにしてくれて、喜んでいるのだろうか。
しかし、どっちにしてもそれ以上考えてはいけないような気がして――
「あーもう、わかりました、わかりましたよ! 参考になりました!」
鍵太郎は、そう叫んで強制的にこの話題を打ち切った。
先輩は「なんだい、もうおしまいかい」と残念そうに言ってくるが、このままこの人のペースに巻かれていくと、それこそ知らず知らずのうちに、感性がヤスリで削られていくように加工されていくのはわかりきっているので、しょうがないのである。
「えー。いいじゃん。楽しいじゃん。湊っちももう十七でしょ? そろそろ自分の好みがはっきりしてきたんじゃない? 靴下履いてないとダメとか」
「なんの話ですかッ!?」
まあ、確かにこの前、学校祭でやる『メリー・ウィドウ』の原典オペレッタを見ていて、フレンチカンカンが出てきたときに「ふむ……ガーターベルトもいいな」などと思ったりしたのだが。あの刺激的な太ももを見たときに、一瞬でも変なことを考えなかったかと言われれば、嘘になるが。
まあ、そんな風にもう手遅れという感もるが――
「ああもう、この人ひどいよ……」
本当にもう、降参だ。その意味を込めて、鍵太郎は顔を覆った。
この一年で、つくづく思い知ったことがある。
高久広美。
鍵太郎にとってこの第二の師匠は――こんな風に正しい知識を妙な形で吹き込んでくる、逆セクハラおっさん女子高生なのである。
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と、そんなことがあったので――
「いやー、ちょうど後継ぎを探してたところだったから、助かったよ」
「……ええ、まあ」
鍵太郎は咲耶の隣にいる広美に対して、うろんな眼差しを向けていた。
そう、宝木咲耶。
実家が寺社で、自身も観音様レベルで清らかという――今時こんな女子高生いないよ、という美少女である。
話を聞くに、彼女は広美の引退後、バスクラリネットに転向することにしたらしい。
今まで兄のおさがりクラリネットを吹いてきた咲耶が、なぜここに来て楽器を変えることにしたのか。
それはわからないが――
「さあ、咲ちゃん。あたしが引退するまでに、手取り足取りじっくりねっとりと、バスクラのことを教えてあげちゃうからねえ」
「はい、よろしくお願いします!」
「やめろおおおおおおお!!!!」
彼女のいろんな危機を感じたので、鍵太郎は咲耶をかばうように、両手をわきわき動かす広美との間に割って入った。
言いたい放題の同い年たちに囲まれた鍵太郎にとって、咲耶はまさに、癒しともいうべき存在だ。
だがそんな彼女に、広美がコーチとして付くとなれば――
「なんだい湊っち。あたしは至って真面目に、楽器のことを教えようとしてるだけだよ」
「信用ならない!? その手つきと顔つきで言われても、まったくもって信用できない!?」
自分のことを省みるに、『これ』が感染してしまってもおかしくないのである。
そんな未来は御免こうむりたい。一瞬想像してしまって、鍵太郎は首をぶんぶん振った。確かに広美の引退後、誰がバスクラリネットを吹くかというのは鍵太郎にとっても重要事項なのだが、それとこれとは話が別なのだ。
けれども、もうそうも言っていられなくて――
「ねー、咲ちゃん。咲ちゃんもバスクラ、ちゃんとできるようになりたいよねー?」
「はい、もちろんです」
「ほらー」
「ぐぬぬぬぬぬぬぬ……っ!」
当の本人がやる気になっている以上、もう止めようがなかった。
だとしたら低音楽器として同じ動きをすることが多い以上、咲耶にも吹けるようになってもらった方がいいのだ。
その理屈は、わかる。
だったら――
「わ、わかりました……だが、宝木咲耶を汚すことは、俺が絶対に許さんからな!?」
せめて広美が変なことをしないよう、見張っているしかない。
そう覚悟を決めて、鍵太郎は先輩に強く言い放った。
しかしその返答を聞いて――広美は、さらに楽しそうに笑う。
「そうかい。じゃあ――お楽しみはこれからだ」
「……っ!」
その笑顔を見て、鍵太郎は、先輩の本当の狙いはむしろこちらだったのだと悟った。
はめられたと後悔するも、もう遅い。
世のため人のため自分のため、そしてなにより、宝木咲耶を守るため。
鍵太郎の孤独な戦いが、ここに始まろうとしていた。
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