第168話 民衆を導く自由の女神

 結局、『女神』はどこにいたのだろうか。

 彼女はどこにでもいるようで、どこにも見えなかった。



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『――十四番、川連第二高校。自由曲「民衆を導く自由の女神」』


 準備を終えて静まり返った会場の中に、始まりを告げるアナウンスが響く。

 吹奏楽コンクール、県大会本選。

 湊鍵太郎みなとけんたろうたち吹奏楽部の面々はついに、その本番のときを迎えていた。

 ここに来るまでに様々なことがあったが、それでも、やれるだけのことはやってきた。

 あとはもうこれからの数分間で、それを全部出し切るだけだ。

 名前を呼ばれ、指揮者の先生が客席に向かって一礼する。

 そして彼はこちらを振り向き、ひとつ笑って――

 指揮棒を構え、振り下ろした。



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 暗闇の中に、煌きが点る。

 それは、始原の輝き。

 前に進むことだけを考えて、いつしか見失っていた、始まりの灯火。

 それが導く方角へ、鍵太郎は歩いていた。そしてそのうち気がつけば、周りには同じように小さな火を持った人間が、一緒に歩くようになっていった。

 周りはとても暗かったけれど、そのおかげでなんとか進めるようになっていた。

 火は熱と光を増して、道を照らしつつ大きなうねりを作っていく。

 その中から聞こえてきたのは、自由を求めた民衆たちの歌。

 自分たちの行く先を、踏み出したその足で切り開いて。

 雲の切れ間から光が差すように――そしてそれを切望するように、地上から手を伸ばす。

 民衆を導く自由の女神。

 彼女はいつも近くにいたような気がするのに、見つかるのはその断片ばかりで。

 いったいどこにいるのかと、追い続けてここまでやってきた。

 今だってそうだ。民衆が歌い上げるのは女神のテーマで、曲の本質は最初からそこに示されている。

 なのに、どこを探しても見つからないのは、どうしてだろう。

 求めれば求めるほど、その姿は遠ざかっていくようで。

 けれど確かにここにいる。それだけは感じられる。

 色を変え形を変え――あたたかくやわらかい光が、雲の彼方に消えていくのが見えた。

 結局、自由とはなんだったのか。

 女神はどこにいるのか。

 振り返ってみればそれを求めて、争いが始まったように思う。



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 ある日ひとりが、自分が絶対に正しい、と言い出してから、歯車が狂い始めた。

 彼女はこれが『正解』だと、自分たちに言ってきたけれど――そのやり方で自分たちがどうしても『自由』になれるとは思えなくて、鍵太郎はいろんな人の話を聞くことにした。

 同い年の人間、先輩後輩。

 果ては先生や他校の生徒まで、多くの人の言葉を耳にした。

 けれどもその誰もが正しくて――誰もがどこか、間違っているように聞こえて。

 自分が正しい、自分が正しいとみなが言う中で、掲げた理想はどんどん遠ざかっていく。

 それがどうあっても我慢できなくて、だったら自分が全部背負ってやると、一番強烈に主張をしたこともあった。

 けれどそれすら、結局は間違いのひとつに過ぎなくて――自分ひとりが抱えた火はあまりに小さいと、思い知らされることになった。

 しかしふと、改めてそこで気づいたことがある。

 正しさを集めて。

 間違いを『武器』に変えて。


 自分の想像をはるかに超えた『なにか』を作ることはできないだろうかと。



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 仲間を集め、そして作戦を立てて――

 そこで、戦火があがった。

 理不尽な圧政に耐えかねた民衆たちは、反発するように『武器』を手に取った。

 そうすればここから解放される。自由になれる。

 本意ではなかったが、その発想ですらこちらの勢いとなった。

 結果的に自分自身が作り上げた状況によって、熱なき女神を信奉していた彼女は、敗れ去ることになる。

 ただ、そのままではなにも変わらないことはわかっていた。

 だから、それまで対立していた彼女の手も取った。

 むしろそこからが、本当の戦いだったのかもしれない。

 果たしてなんのためかもわからない――『自由』を求めた、戦いの。

 『きたかぜ』と『たいよう』は手を組んで、荒廃した地を駆け抜ける。

 その後ろから願うような叫ぶような、みなの歌う声が聞こえてくる。一度途切れたはずのそれは、より強い形となって再び大きなうねりを作り出す。

 バラバラだったはずの人間たちがひとつの祈りを掲げ、大きな炎を作り、道を照らしていった。

 誰かが歌えば誰かが応え、それが重なってまた違う旋律と結びつく。それは壮大な賛美歌コラールとなって、辺りを真っ白に染め上げる。

 深い祈りとほとばしる炎のまま、鍵太郎が走り続けていると――そこで。

 先頭にいるはずの自分の、さらに前に。

 長い髪をはためかせた女性が、走っているのが見えた。

 こちらに背を向けているため、『彼女』がどんな顔をしているのかはわからない。

 だが、その姿は。

 自分たちを導くように走り続けている、その姿は――


 自由の象徴。

 解放への旗印。


 不完全を抱えた、名もなき民衆が作り上げた偶像。


 民衆を導く、自由の――


「――!」


 必死になって手を伸ばした瞬間、『彼女』の姿は見えなくなってしまった。

 代わりに聞こえてくるのは、やはりみなの歌声、変わらぬ景色たち。

 あれはなんだったのか、そう思う間もなく――

 果てしないように見えた旅路の終着点が、そこにやってきていた。



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 あとには雨が降った後のような、ただ優しい空だけが残る。

 湿気を残しながらも嘘のように晴れた、その空を見上げ――鍵太郎はそこで小さな虹と、あたたかくやわらかな光を見出していた。

 この曲の数少ない休みの中、その旋律を聞きながら、先ほどの彼女のことを思う。

 一瞬だけ見えた、あの姿。

 あれはきっと――と思ったところで。

 鍵太郎はああ、なんだ、とふいに納得していた。

 誰もが正しくて、誰もが間違えていて、当然だ。

 だって、それを組み合わせてようやく――『彼女』は姿を現すのだから。

 『正解』はこの旅そのもので、自分が出会ってきたものの全て。

 いつもどこかにいるような気がして、どこにもいないのも当然だ。

 彼女はいつもそこにいて、自分のことを導いてきた。

 ならば――と思い、休みを終え、鍵太郎は終わりへ向けてもう一歩を踏み出す。

 姿は見えなくても、せめて最後まで付き合おう。

 この先になにがあるかわからないけれど――きっとその先も、新たな道があると信じて。

 ここまで来るのにも結構大変だったけれども、もうひとふん張りだ。

 ゆっくりと大切に足を踏み出し、その先に向かう。フィナーレは全員で、最高の輝きをもってしめればいい。

 上から音が降りてきて、鍵太郎はそれを受け止めた。遠くでチャイムが鳴っていて、あの部長は今、なにを考えているだろうかと思う。

 彼女がこの楽器を使いたいからということで決まったこの曲は、ここでいったん幕を引くことになる。

 他愛ない、そんな小さな楽しみから始まったこの曲を、他の人たちはもう一度やらせてくれるだろうか。

 いや、やらなければならないと、彼女は言うのだろうが――

 今はただ、この舞台を。

 そう思っていると最後の最後で、自分に女神のテーマが回ってきた。

 それを他の低音のメンバーと吹き上げて――さらにもう一度、それを全員がやる形で。


 『民衆を導く自由の女神』。

 それを巡る旅路は、ここに終結することとなった。



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「みんなさー、上手くなったよねー」


 本番の演奏を終え、鍵太郎たちが楽器をしまっている中で。

 卒業したトランペットのOG、豊浦奏恵とようらかなえが感心した様子でそう言ってきた。


「袖で聞いてたけどさー、なんて言うかみんな、去年とは全然違ってたよ。うん、すっごい上手くなってたね」

「そ、そうですか」


 しきりに褒めてくる奏恵に、鍵太郎は照れ笑いを浮かべる。

 奏恵だって相当に上手い先輩だ。そんな人にここまで言われると、素直に嬉しく思える。

 近くには彼女の他にも、打楽器運びを手伝いに来た先輩たちがいた。

 しかしその中に――あの人の姿がない。

 それになんとなく周りを見回していると、同じく去年の卒業生である、滝田聡司たきたさとしが言ってきた。


「そうだよ。おまえら、ほんと上手くなったなあ。春日にも聞かせてやりたかったよ」

「……そうですね」


 聡司の言葉に、鍵太郎は少しの間を挟んでそう答えた。

 去年の部長だったあの人のことだ。

 来ないというなら、それ相応の大切な用事があったに違いない。

 そう考え、ほんの少し逡巡した後、聡司に尋ねてみる。


「……春日先輩は、なにか用事があったんですか?」

「一般の部の本番は、明日だからな。あいつもあいつで今頃、リハーサルをがんばってるはずだよ。

 いやー、すっげえ残念がってたぞ春日。『応援に行けなくて、本当にすみません~!!』って」

「……そうですか。あと先輩、春日先輩のマネをするのはマジキモイんでやめてください」

「しばらく見ないうちに、ずいぶんデカい口叩くようになったなあ、おまえ!?」


 背は多少伸びたみたいだけど、そういうのはデカくならなくていいんだからな!? と、言う聡司は相変わらずだったので、鍵太郎は少しほっとした。

 きっとあの人もこんな調子で、変わらず楽器を吹いているに違いない。

 そう思うと悲しいけれど、しょうがないかな、という気持ちにもなった。

 そんな風に考えられたのは、いいことだったのか、悪いことだったのか。

 複雑な気持ちでいると、奏恵が言う。


「なんかさー、やっぱいいよね。楽器やるって。あたしも久しぶりに吹きたくなってきちゃったよ」

「……先輩いま、吹いてないんですか?」

「うん。楽器持ってないし、周りにやってる人もいないからさ。しばらく吹いてないんだよね、ペット」

「へえ……」


 意外に思ったので、鍵太郎は目をぱちくりとした。

 この人たちの代はみな、未だに楽器をやり続けているようなイメージがあったのだ。

 特に奏恵などは、いつもトランペット片手に元気にはしゃいでいた印象がある。だからだろうか、言われてみれば少し、先輩は記憶にあるより沈んだ調子に見えた。

 顔色もあまり、よくないように思える。

 純粋に体調の問題もあるだろうが、これは――


「……ああ」


 そこで気づいてしまって、鍵太郎は声をあげた。

 ホルンの先輩もそうだったが、奏恵は吹くことによってストレスを解消し、さらに活力を生み出していた類の人間なのだろう。

 だからこそ今はそれができなくなって、自分だけではどうしようもない澱のようなものが、心に溜まってきているのだ。

 そして、そんな彼女の背中を押すことは――


「先輩はきっと、どこかで吹き続けた方がいいと思いますよ」


 きっと自分も、そちらの道へ進むということになるのだろうけど。


「やりたいんだったら、どこか見つけてやった方がいいですよ。先輩みたいな人だったら、どこでも大歓迎だと思いますし」

「そっかなー。やっぱりそうかなー」


 けれど――


「そうですよ」


 けれど、『そちら』を追いかける方が、きっと『正解』なのだろうから。


「その方がきっと、先輩のためにもなるんでしょうし」

「お、なんだなんだ? しばらく見ないうちに、マジでいっぱしの口きくようになってきたじゃねえか、おまえ」

「そうだよー。なーんかいつの間にかかっこよくなっちゃってさ! うりうりうりうり!」

「ちょっ、やめてくださいよ!」


 先輩二人にいじられて、鍵太郎は笑いながら抗議の声をあげる。

 そこにはどうしても、誰かの姿が足りないような気がしてしまうのだが――

 その欠損を埋められる日も、今日の本番のようにいつかどこかで、やってくるのだろう。

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