第166話 あなたの隣は

 静かな空間に小さな輝きが、いくつか点る。

 舞台の中で、瞬くそれ。しかし湊鍵太郎みなとけんたろうは、それらがみな、ためらうように揺らぐのを感じていた。

 いつもと感覚が違うせいだと思う。県のコンクール前の、最後のホール練習。

 そこでは今、指揮者の先生の提案で、部員全員がいつもとは違う位置で楽器を吹いていた。

 普通だったら隣にいる同じ楽器の音が遠くに聞こえるので、距離感や方向感覚がいつもと違い混乱を招いているのだ。

 ただ――鍵太郎の隣にただ一人、いつもの自分の席から動いていない部員はいる。

 鍵太郎と同い年のトランペット吹き、千渡光莉せんどひかりだ。

 彼女はかつて本番で犯してしまった失敗を乗り越えるため、自らその場に留まったのだが――その光莉も真っ青な顔で、揺らぎ続ける火のように今にも消えそうになっている。

 無理もない、と思う。

 入部してからずっと、昔のことが原因でさらに本番に弱くなっている彼女だ。

 だがここでようやく、彼女が過去の記憶から解放されそうな機会がやってきた。

 『民衆を導く自由の女神』。

 そんなタイトルのこの曲は、なにかの巡り合わせのように、今ここで演奏されている。

 すると揺らめく灯火たちを前に、指揮者の城山匠しろやまたくみが言った。


「みんな、いつもと聞こえ方が違うと思うけど、気にしないでいつも通りに音を出してごらん。

 同じことをやっている人が、すごく遠くに感じるだろうけど――つまりはただ『遠いだけ』だ。舞台のどこかにはいるんだよ。だからよーく耳をすまして、出しながら合わせてみようか」


 すごく大変で、勇気もいるけど。

 その方が本当は、簡単だからね。


 そんな城山の言葉を聞いて、鍵太郎は心の中で苦笑した。

 自分がぼんやりと考えていた言いたいことは、全部先生に言われてしまった。

 けれどやっぱりその通りで――光莉にはそんな道を歩んでほしいのだ。

 それは鍵太郎の、正直な気持ちでもあった。

 選抜バンドで出会った、彼女と同じ中学だったアイツとの約束もあるけれど。

 やっぱり、自分の周りでつらそうな顔をして楽器を吹いているやつを見るのは、もう嫌なのだ。

 だから震えながらも音を出す光莉の隣で、こちらも強く、音を出す。

 彼女には昔のことではなく、拒絶される未来を恐れることでもなく。

 ただ純粋に、『今』を吹いてほしかった。



###



 様々な音がひしめく舞台の中で、演奏を安定させるため、同じ低音楽器の仲間を探す。

 先生の言うとおり遠くになっているだけで、この舞台上のどこかに仲間はいるのだ――そう思って鍵太郎が知覚を広げれば、その感覚の片隅にバリトンサックスの後輩の音が引っかかってきた。

 相変わらずガリガリ出していて、でもそれがどこか心地よい。

 いつもよりだいぶ遠いところにいるはずなのに、気づいてからはなぜか不思議と、音がはっきり聞こえてくる。

 これが先生の言っていた、『アンテナを高くする』ということなのだろうか。よくわからないが、彼女の音を掴みながらもうひとりの低音の先輩を探す。

 するとバスクラリネットのあのオヤジ女子高生は、意外にも近くにいることがわかった。

 見えない手を伸ばすように、彼女にも意識を向ける。すると先輩は、すぐにそれを接続してくれて――そして後輩からはそういった感はないが、それでもうっすらとつながっているような気配はあった。

 去年の自分がそうだったように、彼女もまた、見えないなにかに突き動かされているのかもしれない。

 そう考えて、脳内で二人の音をピックアップしながら吹き進めていく。

 他の楽器の部員たちもなんとなく感覚を捉えてきたようで、少しずつだが混乱が収まってきた。

 バラバラにさ迷っていた細い糸が少しずつ寄り集まって、いくつかの太い線になっていく。

 しかしその中にまだ光莉の音が入ってこなくて、鍵太郎は右隣にいる彼女に大きく呼びかけた。高音担当の光莉はこちらとは全く違う動きをしているが、それでも関係ないわけではない。

 むしろこちらが伸ばしているときに彼女が動き、彼女が伸ばしているときにこちらが動く、という対照的なものになっているのだ。

 違いすぎて、お互いがお互いを補完し合うかのように。

 それに気づけば、光莉もだいぶ違うはずだった。聞いてくれ千渡、と恐らく半分恐慌状態になっているだろう彼女に対して、それでも合図を送り続ける。

 予選の一件でこれまでとは少し、考え方を変えたと言っていたこの同い年だ。

 あのとき光莉は、自分たちと一緒にいることを選択してくれた。

 だったら彼女にだって、できるはずなのだ。

 本来この場所に座っている、一番トランペットの先輩のように――他の楽器の音に、自分の音を乗せることが。

 ひとりで立ち向かうのではなく、共に戦うことが。

 きっと、彼女にだって。

 そう思いながら、少し前まで散々やりあってきた打楽器の部長と共に、争いの渦へと飛び込んでいく。

 光莉は反対に、休息へと入ったが――

 彼女はそのときに、ぴくりと反応したように見えた。



###



 ブレーキドラムが一本の線を描くように、戦場の大地を駆け抜けていく。

 そのもう片方の車輪として、鍵太郎は部長の音と共に、同じ方向へと走っていった。

 『民衆を導く自由の女神』――その姿は見えないけれど、その方角になにかがあると信じて。

 すると横合いから小さな武器を持って、いつもうつむき気味のクラリネットの後輩が駆け出してくる。

 そしてそのすぐ傍で彼女に寄り添うように、澄んだ目をした自分と同い年も。

 なので彼女たちの手助けになるように、足場をしっかり作れば――背中を押すようにトン、と音がして、トロンボーンのアホの子が通り過ぎていった。

 ああ、おまえこんなことしてたんだな、と今更になって、ようやく彼女のやっていたことに気づく。

 どうも本番に近い環境、気持ちよく鳴ってくれるこのホールのせいか、限界以上に力が引き出されているようだった。

 他の人の音が妙にクリアに聞こえて、それによってさらに神経が研ぎ澄まされていく。

 その感覚の中で、色々な音が聞こえて――様々なことが巡る頭の中で、鍵太郎は先ほどのトロンボーンの同い年が、出会って間もない頃に光莉へかけた言葉を思い出していた。

 そういえば、あいつはずっと昔に言っていたのだ。『出せば官軍』と。

 中学のときになにがあったのかなんて、彼女は全然知らないだろうけど――でも、トランペットと同じようにひな壇の一番上で吹いているあいつは、初めて会ったときからずっと、光莉の味方だったのだ。

 なあ千渡、聞こえてるか。

 そう思うと同時に、今度はホルンの咆える声が聞こえてくる。

 それは光莉と同じく中学からの経験者である、ホルンの同い年の音だった。

 あの切れ長の目のホルン吹きは、その経歴もあって未だに光莉とプライドをぶつけ合うことも多い。

 けど大丈夫。話せば案外わかるやつなのだ。

 自分はそれを知っている。いや――正確には最初はわからなかったけれど、最近段々わかってきた。

 今だってホルンは、トランペットの動きに呼応するように音を出し続けているのだ。

 それが光莉には、聞こえているだろうか。

 あの日みなで集まって、一緒に戦おうと作戦を立てたときのことを、彼女は覚えているだろうか。

 かつての過ちのことではなく、今につながるその景色たちや、同い年たちのことを――彼女は今、思い出せるだろうか。

 この一年、とても色々あったけれど、自分のやることは変わらない。

 ずっと同じように、思いを刻み続けるだけ。

 ただ、それはどんどん強さを増していく。

 そしてトランペットのあの地味な先輩が、突撃を告げるように高らかに音を鳴らせば――


「……っ!?」


 光莉の楽器が、それまでにない動きで――クン、と跳ね上がったのが見えた。



###



 意識してというより、気がついたらそうしていたという感じで。

 客席に向かって、ただ目の前に向けて。

 光莉は叫ぶように謳うように、大きく音を伸ばしていた。


「――!?」


 彼女自身が、まずそれに驚いている様子だったが。

 それに呼応して、先輩の放つ矢のような音が、さらに強力な威力を発揮していく。

 さらには光莉の音がこれまでよりも、他の音にはっきりと『馴染んだ』のを見て。

 鍵太郎は笑い出したい気分で、さらにそこからの音を踏み込んでいった。

 一回こっち側に来たのなら、もう離してやる気はない。

 下手をすれば雪崩れていってしまいそうな全員の動きを、ほんの数ミリ先んじて先導していく。

 それは選抜バンドで出会った、あの他校の生徒と似たようなやり方だったが――違う。

 むしろ全員の音を聞きとって、そこから曲のイメージがある方向へ、自分から動いていくような感覚だった。

 望む道を切り開き、ただ『正解』を――

 『自由の女神』を求めて、彼女を連れて行く。

 大変で、勇気もいるけど。

 その方が実は、簡単だから。

 それは鋭敏になった今の感覚だからこそ、できたことなのかもしれない。

 けれど、それならそれでいい。

 今はただ、心の赴くままに走りきるだけ。

 生き物のようにうねる音は客席まで飛んでいき、ホールの壁に当たって弾けた。

 花火のように響きを撒き散らすそれは、いつものものとは違う。

 メロディーが、リズムが、ハーモニーが。

 それぞれ別の軌道を描き、空を走っていく。

 飛び散る火の粉が、弾けて煌く残像が、輪郭を縁取っておぼろげな姿を炙り出す。

 自分は去年ここで、ホールの精霊に導かれたような気がしたが――それもまた、彼女の成せる技だったのかもしれない。

 この響きのどこまでがそのホールの見せる幻で、どこまでが自分の音なのかもわからなかったが。

 鍵太郎はただ夢中で、その姿を追いかけ続けていた。



###



「……あんたは、上手くなったね」


 合奏が終わって、楽器を膝の上に置き――

 光莉は鍵太郎の隣で、ぽつりと言ってきた。


「ちょっと前まで、なんか、頼りないなーって感じの音だったのに……。なんだろう。すごく前に進んでるのがわかる」

「まあ今年は、俺も色々あったからなあ」


 彼女の言葉に、鍵太郎は苦笑してそう応えた。

 光莉の態度が珍しくしおらしいのが気になったが――少なくともそう答えられるだけの大変なことは、今年になって経験してきたはずだと思ったからだ。

 ここに来るまでに、様々な人に会ってきたけれども。

 その中でも特に印象的なのは、選抜バンドで出会った、あの他校の生徒の吹き方だった。

 あれはあれで、違うなと思ってそこまで積極的には使ってこなかったけど。

 ここまで歩いてくる中で、色々な人たちの話を聞くうちに――それは気づけば、自分のオリジナルのものになっていたらしい。

 不完全な支配の術式は形を変え、共に未来を切り開くためのものになったのだ。

 アイツみたいに上手くはできなかったけど、それはそれで、いいことだったのだろう。

 そう言うと、光莉は「……そう」と応えてきた。


「私の知らないところで……あんたは結構、がんばってたんだね」

「まあ、そうかもしれないけど。でも、おまえだってそうじゃないのか、千渡」


 先ほどの合奏を思い出して、鍵太郎は光莉にそう言った。

 彼女だって意識していないだけで、ここまで来るのに様々な景色を見てきたはずなのだ。

 そうでなければ、ああして一緒に吹くことはできなかったはずだった。

 千渡光莉は全力を尽くさなかった――と、アイツは言っていたけれど。


「今はもう、一人じゃないのがわかるだろ」

「……」


 ずっと一人でがんばっていた彼女は、言われて改めて考えたように――客席を見て沈黙した。

 選抜バンドで出会ったアイツに、文句を言いたい気持ちで光莉のその横顔を見る。なにが全力を尽くさなかった、だ。

 そんなの言われなきゃ、わかるわけねーじゃねえか。

 もっとも彼も、それがわかったときには、全部が終わった後だったのだろうが――と、そんなアイツの無念を晴らすわけではないけれど、鍵太郎は続けた。


「俺だって、ここまで来るのに自分ひとりだけじゃ、どうにもならなかったよ。辛かったことも、嫌だったことも、いっぱいあったけど――でも今は、こうしてここで吹いてる」

「……」

「だから千渡、もう上手く吹けなきゃ意味がないとか価値がないとか、そういう考え方をするのはやめてくれ。そう思ってやってると、たぶんおまえの歩いてる道は、その先がなくなる。

 昔のことは辛くて、忘れられないかもしれないけど――でも俺たちは、今のおまえと一緒に吹くことはできるから」


 それはもう、彼女だってわかっているはずだった。

 いや、わかってはいないかもしれないけど、さっきの合奏で、なにか感じたものはあるはずだ。

 そう思っていると、光莉は少しうつむいて――


「……あんたの隣は、吹きやすい」


 言葉を選んだ末に少し困ったように、照れたように言ってきた。

 その言葉に、鍵太郎は目を見開く。なんとなく大丈夫だと思ってはいたが、さすがに言葉にして言われると、はっきりと心に来るものだ。

 そして、それと同時に――


「おい、マジか」


 正直上手くなったと言われるより、そっちの方が嬉しかった。

 単純な言葉としての『上手い』より、それ以外の複合的ななにかを含んだ言い方のほうが、圧倒的に良いものだからだ。

 それはベースとして全体を把握し、曲を牽引できているなによりの証明でもある。

 なので思わず鍵太郎は、そう言ったわけだが――

 すると途端に、光莉は半眼になった。


「……そういう意味じゃないんだけど」

「なんだよ、どういう意味だよ」

「ああもう、肝心なところでこいつは……っ!」


 頭を抱える光莉に対して、鍵太郎は首を傾げる。それ以外にいったい、なんの意味があるというのか。

 そう思って続けようとすると――ふいに、「ぷおー」というホルンの音が聞こえてくる。

 その音は同い年のホルン吹き、片柳隣花かたやなぎりんかが出したものだ。


「はいはい。話はわかったから。だったら、できるもんなら私の音に乗ってみなさいよ。あんたにそれができるならね」


 彼女は案外近くで、こちらの話を聞いていたらしい。

 ……の、わりにこちらに対して妙に攻撃的なのが気になったが、それも光莉とのプライドのぶつかり合いなのだろうか。

 いやでもこれは、元気のない光莉を奮い立たせるための、彼女なりの気遣いで――と鍵太郎が思っていると。

 隣花はさらに、同じ調子で音を飛ばしてくる。


 ぷおー。


「ホラホラ。こいつと一緒に吹くんでしょ? だったら遠慮せずに私の音に乗ればいいのよホラホラ」

「あ、あんたねえ……!?」

「や、ちょ、千渡、おまえさっき、みんなと一緒に吹くって言ったじゃん!?」


 気遣いとかそういうんじゃなかった。あからさまに挑発だった。

 いったいなにが、彼女たちをそこまで激突させるのか。

 それはわからないが――騒ぎを聞きつけた部長が、ものすごい目でこちらを睨みつけてくるのを察して。

 鍵太郎は必死で、いがみ合う二人の仲裁に入ることにした。



###



 そして、それから数時間後。

 生徒たちが全員帰って、急に静かになった音楽準備室の片隅で――


「たく……いや、城山先生よ。今年のウチのガキめらは、どうかね?」


 吹奏楽部の顧問である本町瑞枝ほんまちみずえは、指揮者の城山匠にそう訊いていた。

 本町と城山は、大学の先輩後輩の仲だ。

 長い付き合いなので、お互い言いたいことはなんとなくわかっている。

 だからこれは、確認のための儀式のようなものだった。

 ホールでの演奏は、本町も聞いていたのだ。

 なので城山は、先輩に笑って答えた。


「いやあ、すごいですね。たった三週間で、よくあそこまでできたと思います。精神的なものって、プロでもアマでも大事だと思いますけど――やっぱり学生さんて、すごいですね。なにかひとつ変わるだけで、こっちがびっくりするほど音が変わるんですから」


 実際、今日のホール練習では瞬間瞬間ではあるが、プロかと思うほどの音を出していたのだ。

 それを続けてほしいと思うけど、でも掴もうとすると消えてしまって。

 けれどだからこそ愛おしい、その音たちを思い出して――心の底から楽しそうに、城山は言う。


「僕も今までは、思ってても手が出せない部分がわりとあったんですけど――負けてられないなと思いました。僕もこれからもっと勉強して、あの子たちに恥じない指揮者になりませんとね」

「……おまえも、そろそろ大丈夫か」

「昔は昔、今は今ですから」


 あの子たちを見ていると、そう思えますよ――そう言って城山は、表情にほんの少し苦いものをにじませた。


「本番は、もうすぐそこなんです。だったらもう、目の前に全部を集中しましょうよ」

「……ま、そうだな」

「楽しみです」


 そう言って城山は、今日の演奏を再び、自分に刻むように繰り返した。

 知識も経験も技術も、そんなものは全部信じて飛び越えて――とんでもない奇跡を生み出した、彼ら彼女らの演奏を。

 そして――


「願わくば――本番も『彼女』の姿が見えるといいんですけどね」


 静かな空間の、小さな輝きたちが描き出した、その姿を。

 しっかりと心に焼き付けて――城山はもう一度、愛しげに微笑んだ。

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