第165話 彼女にとって、一番大切なこと
いよいよ練習も、大詰めだ。
吹奏楽コンクール、その県大会を目前にした川連第二高校の吹奏楽部は、学校近くのホールで練習を行っていた。
本番と同じような環境で演奏できるのは、それだけで貴重な機会である。
さほど力を入れていないのに音が遠くまで飛んでいって、
音楽室とはまるで広さが違うので、響きがものすごく遠くまで広がっていく。
そういえば、去年もこのホールで妙な感覚に襲われたものだ。
あのときのように指が勝手に動くことはないけれど、それに近い感覚は今でもある。
今年は、それに呑まれてないだけで――そう思いつつ、曲の最後の音を伸ばしきると。
指揮を振っていた
「本番のホールも、最初はここと同じで隣の人との距離感が掴みにくいと思うけど。それでも今みたいに怖がらずに出していった方が、合いやすいからね。この感じを忘れないでいこうか」
はーい、と部員たちから返事があがる。
城山が言ったように、予選の後から『出しながら合わせていく』ことを心がけるようになってから、演奏はまるで別の団体のようなものになってきていた。
今の合奏も予選のときより、はるかにいいものだ。ホールという環境も、本番に似た高いテンションを生み出しているかもしれない。
息苦しい雰囲気も、最近はだいぶ薄れてきている。まあ部長が、おしゃべりを始める部員たちに「ほらほら、ちゃんと先生の話を聞くんですよ、あなたたち!」とビシバシ言うのは相変わらずだが――それでも以前のように、それによって重苦しいムードになることはない。
高揚した気持ちの中で、緊張感が一本の芯になっているような。
背筋がピンと伸びるような、そんな感覚だった。
この感触は、去年ともまた違うものだ。鍵太郎が首を傾げていると、今度は城山が「じゃあ、次はまたちょっと違うことをしてみようか」と言ってくる。
「みんな、楽譜はもう覚えてるね? じゃあこれから楽器だけ持って、いつもとは違う席に移動してみようか」
「は?」
そのあまりに予想外の提案に、思わずそんな声があがった。
それは、今までやったこともない練習方法だ。
演奏上の楽器の配置、というのは大体は決まっている。そのご多分に漏れず、今も部員たちは音楽室にいるときと同じように――そして鍵太郎もいつものように、舞台上手の一番端に座っているわけだが。
ここから動いてもいいのだろうか。
そう顔を見合わせる生徒たちに、城山は笑って言う。
「大丈夫、大丈夫。曲とか奏者の兼ね合いで、楽器のセッティングを変えるのは、プロだってあることだから。
いつもと場所が変わると聞こえ方が変わって、最初はちょっと戸惑うかもしれないけど。今みたいによーくアンテナを研ぎ澄ましていれば、連携は取れるものだよ。試しにやってみよう」
「へー」
この場所って別に、動いてもよかったんだ――
なんとなく思い込みで『自分の居場所はここ』と決めてしまっていたため、鍵太郎は目からウロコが落ちた気持ちでそんな声をあげていた。
つまりこの時間だけ、いつもと違う場所で吹いていいということになる。
せっかくだから、いつもなら絶対行かないようなところで吹いてみたい。そう思って鍵太郎が周囲を見回すと――まず目についたのは普段は確実に配置されない、最前列の席だった。
指揮者の目の前の席。なるほど、あそこもアリだなと考えたとき――
そこで本来そこに座っているフルートの先輩と目が合って、彼女はにこやかに手招きしてきた。
「……」
それが逆に恐ろしくて、ぶんぶんと首を振りつつ丁重にお断りする。
なんだろう、あの副部長の最近のご機嫌な様子には、まだどうにも慣れることができないのだが。
これまでのイメージがイメージだったからだろうか。ということで申し訳ないがその席はナシとして、他を探すことにする。
すると、また普段は絶対行かないような場所が目に入ってきた。
「うん、あそこがいいな」
とっておきというのなら、それ以上の場所もない。そう思って、鍵太郎は楽器を持って移動を始めた。
そこは本来、あの黒縁メガネの地味な先輩の座る席。
つまり、全てを見渡す頂点の位置――
ひな壇の、一番上である。
###
「……で、なんでおまえ動いてないの」
「うっさいわね。そんなの私の勝手でしょ」
そのひな壇の最上段の中央、目的の一番トランペットの席まで来たとき。
その隣に座っていたのは、同い年のトランペット吹き、
二年生の彼女はもちろん、二番トランペット担当だ。
つまりこの同い年は、まったくもって、全然動いてないことになる。
せっかくの機会なのに、こいつなにやってんだ? と疑問に思うのだが。しかし各々の勝手と言われてしまえば、確かにそうなのだろう。
そう考え、光莉の隣に腰を下ろす。
そして改めて、そこからの景色を見渡せば――
「うわあ……すごいな。この感じ」
いつもだったら視界の端に見えていたはずの赤い布張りの客席が、ここにいると真正面から目に飛び込んできて。
鍵太郎はその光景に、ただ圧倒されてそう口走っていた。
いつもより高さがある分、見慣れてきたはずのものがまるで、違うもののように思える。
さらにはその赤い色はほとんど、視界いっぱいに広がっていて――見晴らしのよさを感じると同時に、ここにいるとそれ以外なにも考えられなくなるような、初めて舞台に上がったときに近い、軽いパニックに陥りそうでもあった。
練習なのでそこには誰もいないはずなのに、『見られている』感がすごい。
いつの間にか早くなっていた鼓動を、深呼吸して落ち着けて。
そして気を取り直し、鍵太郎は隣に座る光莉に言った。
「なあ千渡。おまえっていつも、こんなの見て吹いてたんだな」
「……」
この景色を目の当たりにすると、彼女が中学のときに、本番のソロで失敗したという話もわかる気がする。
実際にここに立ってみて、初めてそのプレッシャーがわかった。
こんなところでホール中の注目を集めながら、それでも平常心を保ってやれというのはかなり難しい話だ。
そのときのミスのせいで、光莉は本番にとても弱くなってしまったわけだが。
今はもう、その当時とは雰囲気もメンバーも、全く違うのだ。
こいつにはもっと、伸び伸びと吹いてもらいたい。
そう思っていると――
「……音程に気をつける。息のスピードは練習通りに。出だしと処理に気を遣って。高い音は出ると思えば出る。ダイナミクスは大げさに。音を外しちゃダメ。間違えちゃダメ。だって――」
「千渡、おい千渡!?」
光莉が虚ろな目でブツブツつぶやいているのが聞こえてきて、鍵太郎はギョッとして彼女を見た。
伸び伸びどころか、今の言葉のひとつひとつが、彼女自身を縛り付けているように感じられる。
なので鍵太郎は、慌ててそれをやめさせた。声をかけられた光莉ははっとした様子だったが――しかしそこから蒼白な表情で、こちらを睨んでくる。
「……なによ。人がせっかく、本番と同じ状況に慣れようとしてたのに」
「おまえがここから動かなかった理由は、それかよ……」
彼女が本番前に異様に緊張するのは知っていたが、まさかこんな手段で、それを乗り越えようとしていたとは思わなかった。
トラウマに立ち向かおうとする姿勢は立派だと思うけれども、しかしその方法はあまり、うまいやり方には見えない。
そう言うと光莉は、「……だって」とうつむく。
「みんな、本番に向けて調子を上げてきてるじゃない。だったら私だって……昔のことでいつまでも、みんなの足を引っ張るわけにはいかないもの」
「……千渡」
「……ちゃんと吹けなきゃ。うまく吹かなきゃ。そうじゃなきゃ私は
だから、邪魔しないで。
そう言って再び客席を睨む光莉を、鍵太郎は痛々しく思った。
思い返せば、選抜バンドを辞退したときもそうだったのだ。
彼女は昔の話を引きずって、自分で自分の可能性を潰しているように見える。
あいつを、支えててやってくれないか――そこで鍵太郎の脳裏に、その選抜バンドで出会った他校の生徒の声がよみがえるが。
こんなの、どうすればいいんだよ、と記憶の中のその人物に掴み掛かりたくもなった。
周りの人間はもう、部長も副部長もみんな、あんなに楽しそうに演奏しているのに。
これからやろうとしている曲は『民衆を導く自由の女神』のはずなのに。
光莉だけがずっとこの場所に、過去に囚われたままなのだ。
この高くて、客席以外はなにも見えなくなりそうな場所で、彼女は――
「……あ」
と、思ったところで。
ふと、目の前に広がる光景と、これまで自分が出会ってきた、たくさんの人たちのことが重なって。
「なあ千渡。ひょっとしておまえってさ」
鍵太郎はある考えをひとつ、ひらめかせていた。
「そうやって――今までずっと、ひとりでがんばってきたんじゃないのか」
###
「――」
ぴた、と動きを止める光莉に。
鍵太郎はそのまま、思ったことを口にする。
彼女自身も自覚していない、無意識の弱点。
それがわかったら言ってやりたいと、前々から思っていたのだ。
なので目の前に広がる景色を見つめつつ、同い年へ言う。
「ここってさ、なにも見えねえのな。ソロとかで立ったら余計だろうけど……ひとりで、舞台に立ってる気分になる」
そういえば、前々からおかしな話だとは思っていたのだ。
光莉はいつも、懸命に本番に挑もうとしていた。
それなのになぜ、いつもうまくいかなかったのか。
「おまえさ、他の人の音ちゃんと聞こえてるか?」
それはひょっとしたら、彼女が――観客の視線を、全部一人で受け止めようとしていたからではないだろうか。
ここに立ってみて初めて、鍵太郎はその可能性に思い至っていた。
光莉は黙って、こちらの言葉に耳を傾けている。
「俺もそうだったし、貝島先輩も関掘先輩もそうだったけど……全部ひとりで決めてひとりでやろうとすると、大抵ロクなことにならないから」
同い年のホルン吹きは、「千渡とは妙に壁を感じる」と言っていた。
それはひょっとしたら、間違いを恐れて他人の目を気にするあまり――彼女がいつの間にか自分で他人に、線を引いていたからではないのか。
そして「千渡光莉は全力を尽くさなかった」という、アイツの言葉も。
「おまえはもっと、周りを見てみろよ。ここにいる誰もおまえが失敗したらここにいる価値がないなんて、思ってないんだよ」
それは結局、彼女が『周囲と一緒に吹く努力を怠った』――と。
そう言いたかったのではないかと。
鍵太郎はこれまでのこの同い年の言動を振り返って、そう考えていた。
それらは全て、単なる憶測に過ぎないけれども――
それでも、そこまで外しているわけではないはずだ。
そう思っていると――
「……どうすればいいの」
光莉は顔を上げて、真剣な眼差しで訊いてきた。
「……あんたの言うことは、そうかもしれない。でも正直、今までそういうの意識してこなかったから……どうすればいいかわからない」
「
それは本来この場所に座っているはずの、一番トランペットの先輩の言葉だ。
しかしそれもまた、今まで歩いてきた『道』の中にあった――
『自由』のひとつの形だった。
「ぶっちゃけ、それがどういう感覚なのかは、音域的に一番下の俺にはわからない。けど、同じトランペットの人が言ってたことだ。おまえには少し、それがわかるんじゃないのか」
「……どう、だろう」
自信がない――そう戸惑い気味に、光莉はつぶやく。
無理もない。未知のやり方に、過去には周囲に責められた記憶。
それらは簡単に、乗り越えられるものでもない。
けれど――
「みんな、準備できた? 始めるよー」
それでも本番はやって来る。
なので城山の声にまずい、時間がない――と鍵太郎は焦った。ともかく彼女には、他の人の音をよく聞いて恐慌状態にならないよう、最低限言わなければならない。
そう思って、口を開きかけると――
「――ねえ」
その前に光莉が、こちらに声をかけてきた。
「私はこれから、あんたの言うそのよくわからないやり方を鵜呑みにして、さらによくわからないまま、やろうとしているわけだけど」
城山はもう指揮台にあがって、準備を始めている。
ざっと見れば本当にみんな、いつもとはまるで違う位置に移動していて――バラバラで。
けれども同じ、舞台の上だった。
「だからこれから、私がどんな音を出しても」
その舞台の一角で。
光莉は震えながら楽器を持ち、前を見据えて。
「もしかしたら――失敗しても」
彼女は自分にとって、一番大切なことを訊いてくる。
「あんたは私を、笑わない?」
それに対して、鍵太郎は即答した。
「笑うわけねーじゃねーか、バーカ!」
「……ありがとう」
その言葉に、光莉は少しだけ微笑んで。
下ろしていた楽器を、真っ直ぐに構えた。
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