第164話 思いを束ねた、その姿

 夏休みに入り、強い日差しと暑さに包まれる川連第二高校の校舎の中で――


「タイミング合わせて! 出だしから音を集中して出してください!」


 しかし吹奏楽部がいる三階の音楽室は、さらにそれ以上の熱気に包まれつつあった。

 部長の号令の元、ほつれかけていた音たちが再び束ねられていく。

 それを感じて、いい流れだな、湊鍵太郎みなとけんたろうは思った。これまではこういった練習をしても、いまいち揃っている感じはなかったのだ。

 だが今は、そのときとは比べ物にならないほど、音が合ってきている。

 演奏に息が吹き込まれていくのが、肌で感じられるのだ。

 ならばもっと――と思って。

 鍵太郎がさらに、その先の領域に踏み込もうとした、そのとき。



吹奏楽部おまえらふざけんな、うるせーぞッ!?」



 扉を怒りの力で蹴破って、社会科の先生が音楽室に殴り込んできた。



###



「ぐぬう……っ。せっかくここにきて、練習にも身が入ってきたというのに……!」

「部外の人にはなかなか、一生懸命やってても理解されないもんですねえ……」


 エキサイトする他教科の先生に、顧問の先生が平謝りしてひと段落した、その後。

 悔しげにうなる部長の貝島優かいじまゆうに、鍵太郎は遠い目をしてそう応えた。そういえば夏期講習中にも関わらず、窓を全開にして練習していたのをすっかり忘れていた。

 開けっ放しになっている窓の外の景色は、強烈な日差しで白んでいる。

 もちろん室内に入ってくる風も、熱風と言っても差し支えないものだ。しかし鍵太郎にとってはその風は、救いの涼風のように感じられた。

 なにせこの音楽室、クーラーがないのである。

 夏だし、暑いし。

 高校生三十人が全力で腹式呼吸しているのだから、ちょっとくらい窓が開いてて、音が漏れてしまうのもしょうがないじゃないかと思ったりもするのだが――しかし部外の人間からしてみれば、その考え方は甘いらしい。

 やるなら窓を閉めてやれ、と怒られてしまい、大会直前にも関わらず練習はいったん中断せざるを得なくなってしまった。

 凍らせた飲み物や冷却ジェルシートなどを持ち込んでいるとはいえ、長時間部屋を閉め切って練習すれば、このご時勢さすがに病人も出る。

 いかに熱い練習をしようとも、本番前に全員がリタイアしてしまっては元も子もないのである。なので部長は渋々といった調子で、「……仕方がありません」とため息をついた。


「小刻みに窓を開けて、休憩を取りながら練習をしましょう。音出しをするときは窓を閉めます。この状況を嘆いている時間も正直、惜しいくらいですから――短時間でも集中して、やっていくことにしましょうか」

「そうですね」


 非常に理不尽な環境だとは思うが、文句をつけていてもしょうがない。

 時間がないならないで、その時間を最大限使っていけばいいだけだ。そう言う部長に、鍵太郎はうなずく。

 それに音を出さないでできる練習方法だって、ないわけではない。

 ならばそれを積み重ねて、去年あのトランペットの同い年が言っていたようにコンクールで金賞を取り、こういった状況を変えていけばいいのだ。

 そう、今年こそ――と思ったところで。


「あ」


 ふいに思い出したことがあって、鍵太郎は声をあげた。


「……どうしました?」

「あ、いや」


 それに優が、首を傾げて訊いてくる。

 そういえば彼女は、この前『アレ』は作らないと言っていたらしいが――


「あ、えーと……その」


 今のこの状況なら、どうだろうか。

 そう思って、鍵太郎は部長にとりあえず、言うだけ言ってみることにした。


「そういえば今年は……千羽鶴は、作らないんでしょうか?」



###



 千羽鶴。

 吹奏楽部でそれは、金賞祈願の金色の千羽鶴である。

 去年の三年生たちと一緒に作ったそれは、実は未だに音楽室の壁に飾られている。

 そして今年は、それを背にしながら――


「しかし、去年作ったときの材料があんなに余ってるとは、正直思いませんでしたねえ……」

「あの人たち、限度というか部費の使いどころ、やっぱり間違ってたと思うんですよね……」


 鍵太郎は部長と話しながら、二人で鶴に糸を通していた。

 打楽器倉庫を探ったところ、なんとか今年も作る分の材料はありそうだったので、こうして突貫ながらも作業をすることになったのである。

 ちなみに鍵太郎は今年もマトモに鶴を折ることができず、一羽作った段階で「……あんたもう、別の仕事やりなさい」とトランペットの同い年に言われ、こうして糸通しをやることになっていた。

 部長も部長でこれを作るなら、もっと違う練習をしたいとあまりいい顔をしなかったのだが――

 結局多数決で押し切られ、文句を言いながらも手早く針を動かすことになっている。

 そういった経緯で、この折り紙はある意味、去年の先輩たちの遺産と言うべきものでもあった。

 それにざっくざっくと針を突きたてながら、今年の部長は言う。


「……こんなのに部費をかけるんだったら、もっと楽器方面を充実させることにお金を使ってほしかったです。まったくあの人たちは自分たちが楽しいばっかりで、残された私たちのことなんて考えてなかったんだから。

 どうせ材料が余ってたのだって、誰かと誰かが被って買ってきちゃったけどまあいいか、みたいなノリだったはずです。なんなんですかあの人たち。本当、馬鹿なんじゃないですか」

「いやあ……ははは」


 彼女も現部長として、去年の三年生たちには対しては、なにかしら思うところがあるらしい。

 おそらく限りなく真実に近いであろう推測を、彼女は針を鶴にぶち刺しながらブツブツとつぶやいている。その先輩たちに多大なる恩を感じている鍵太郎としては、なにかフォローを入れたいところではあったのだが――こうして必要な材料の倍を買い込んでいるのを目の当たりにすると、苦笑いで流さざるを得ない。

 同じく去年やった野球応援も、練習時間を取りたいからということで、断ろうとしていた優だ。

 まあ今年は断る前に、野球部が早々に二回戦で負けてしまったのだが――そのことからしても、この部長は練習に関して、非常にシビアな考えを持っていることがわかる。

 そんな彼女にしてみれば、あの先輩たちは確かに馬鹿みたいで、自分勝手で無茶苦茶に見えたのだろう。

 だからこそ、この先輩は去年とは違う路線を取ろうとしたのかもしれない。

 鍵太郎がそう思っていると、優は唇を尖らせて続けてきた。


「私はこうしたジンクス頼みになるのは、あまり好きではないのです。……まあ、今回はみなさんが作りたいと言うので、やることにしましたけど。早く終わらせて、ちゃんと練習をしたいのです。

 心を込めるのなら、それに見合う器も作るべきで――去年の先輩たちは、やればできるとかなんとか、そんな精神論ばっかりで、そこがちゃんとしてませんでした。まあ、それでも上手かったのが納得できないところなんですけど……」

「まあ、これも練習の一環だと思えばそれでいいんじゃないですか」


 愚痴が止まらない部長が段々おもしろくなってきて、鍵太郎は苦笑しながらも優にそう言った。

 なんだかんだ言って、彼女の中で去年の先輩たちの存在が非常に大きいことは、変わらないようだったからだ。

 というかなんとなくわざと意地の悪いことを言って、注意を引こうとしているような印象さえある。

 そんなところは、彼女も去年と変わらなくて――

 去年の自分と、同じように見えた。

 なのでそんなちっちゃい部長へと、鍵太郎は言う。


「これは先輩のあんまり好きじゃない、その精神論かもしれませんけど……みんなでひとつのものを作り上げるって、ある意味合奏にも通じるものがあると、俺は思いますよ」


 そう言って、鍵太郎は折りあがっている金色の鶴たちに手を伸ばした。

 それらはよく見ると、細かい仕上がりが微妙に違っていて――誰がどれを折ったのか、なんとなくわかる。

 楽器から出る音だって、同じだ。

 そう思い、手に取ったひとつに糸を通す。


「これをひとつに束ねることは、音を束ねることにもつながるんじゃないかって――そう思ったりもするんです」

「……なんだか本当に、最近は知った風な口を利くようになりましたね、湊くん」

「いや、まあ……俺も今年はここまで来るまで、色々あったもので」


 うろんげな目を向けてくる部長に、鍵太郎はたじろぎながらそう答えた。

 優と言い争ってから半年ほど、今年は本当にこれまで、色々なことがあったのだ。

 楽しかったことも、つらかったことも、色々。

 そう思っていると――正面から、いつもの元気な声が聞こえてくる。


「はい、できましたよ先輩!」


 そう言って、折りあがった鶴をこちらに差し出してくるのは、同じ低音楽器の一年生である宮本朝実みやもとあさみだ。

 彼女が渡してきたのは女の子にしては妙に雑で、折り目にも勢いがついてるんじゃないかという鶴だったが――まあそれも、この後輩らしいと思えば納得してしまう。

 元気なのはいいことだ。

 鍵太郎がそう言うと、朝実はいつものように、歯に衣着せず言ってくる。


「先輩の丸めたアルミホイルみたいな鶴よりはマシですよ! なんですかこれ! シワッシワじゃないですか!」

「ええい、傷だらけの方が光り輝くのだ!」


 それは鍵太郎が敬愛する、去年の三年生にかけられた言葉だったのだが――そんなことは知らない朝実はまるで意に介さず、「そうですか! じゃあ、もっとガシガシ折り目をつけないとですね!」などと、恐ろしいことを言って去っていった。

 まったく、先輩をなんだと思ってるのか。

 やれやれと苦笑して受け取った鶴に糸を通していると、今度は頭上から、呆れた声が降ってくる。


「なんていうか。低音の人たちって、いろんなものが大雑把よね」


 鍵太郎と朝実の鶴を見て言ってきたのは、二年生のホルン吹き、片柳隣花かたやなぎりんかだ。

 そういえば今年は彼女とも、仲がこじれていた時期があったのだ。あのときの隣花はピリピリしていて、話しかけるのためらわれるくらいだった。

 しかし今は、お互いが持っているものを認めて、こうして話せるくらいにはなっている。

 違いを認め合えるのはいいことだ――そう、彼女の鶴を受け取りつつ、鍵太郎が考えていると。

 しかし隣花は冷静な口調で、こちらのことを分析してきた。


「どんなときでもどんぶり勘定というか。どんな料理でもおたまで食べるというか。楽譜が大雑把だからなの? それでもさすがにもうちょっと、繊細な指先を持ったほうがいいと思う」

「どんなときでも銀のスプーンで食べるようなおまえに言われたくないなあ、なんか!?」


 まあ確かに、言うだけあって彼女の鶴はスラッとしていて、美しいラインがあるものなのだが。

 それの良さはわかるので渋い顔をしつつも、鍵太郎は隣花の鶴にも糸を通した。この繊細な形は自分や朝実では、作ろうとしても作れないだろう。

 こんな風に彼女とは今でも指摘のし合いにはなるのだが、それでもこう言い合えるだけ、マシになった方だ。

 しかし今度は部長が、「……なんなんですかあなたたち。分かり合えているのかいないのか、どっちなんですか?」と、呆然とした調子で訊いてくる。


「話だけを聞いていると、すごく仲がいいように思えるのですが……今のやり取りを見ていると、なにやらそうでもないような」

「まあお互い、言いたいことが言い合えるようになっただけ、よくなったんだと思いますよ」


 優の言葉に、鍵太郎は苦笑いを浮かべつつそう答えた。

 言いたい放題されているような感はあるが、しかし朝実にしても隣花にしても、この半年でだいぶ話せるようになったのは確かだからだ。

 それは仲良しこよしとかそういうことではなくて――同じものを作るために一緒に戦っている仲間というか、そんな感じだった。

 隣花などは同い年なので、特にそう思う。そう言うと優は「……なるほど」と、ぽつりとつぶやいた。


「あのとき私は、『大切なものを分解して、よりよい形に並べ直す覚悟はないのか』と湊くんに問いましたけども――そうですか。あなたもあなたで、ここまでに色々考えてきたんですね」

「まあ、散々みんなに言われてなんとなく、自分のやりたい方に歩いてきたっていうのはありますね……」


 さっきの二人に限らず、この半年は自分と違うものに触れることの連続だったのだ。

 それと自分のものを見比べて、この方がいいんじゃないか、こうした方がいいんじゃないか――そんな風に思いながら、ここまでやってきた。

 それもまた、この先輩の嫌いな精神論じみた言い方かもしれないが。

 それは、自分の音を作ることでもあったのかもしれないと思う。

 そう言うと、しかし優は意外なことに首を振ってきた。


「いや、別に私はそういう考え方が、嫌いなわけではないのですよ」

「……そうなんですか?」

「さっき言ったでしょう、私はやるんだったら、ちゃんと技術も磨かねばと思ってると」


 きょとんとする鍵太郎に向かって、優は自分が持っている束に鶴を通しながら続けてくる。


「ただ漠然とやっているだけでは、上達はしません。ある程度の目標というか、確固たる目的がないと、どんな志だって霧散して薄れていってしまうものです。

 打楽器は、太鼓の皮の張り具合や、どんな素材で叩くとかといった、そういう『物理』の積み重ねの楽器ですから。こんな風にちゃんと形あるものを作れるなら、それはいいことなのだと思いますよ、っと」


 そうしてるうちにまた一つ、完成です――と。

 そう言って、先輩は出来上がったものの仕上がりを確かめるように、高く伸ばした。

 小さな金色の鶴たちは一本の糸に連なって流れ、きらめく長い帯を作っている。


「もちろん、練習は練習で、ちゃんとやりたいから早く作り終えたいとは思うのですが――まあ、みなさんが作りたいというのなら、それはちゃんとした『器』になり得るのでしょうから。といってもまだ、その辺は私にもよくわかりませんけど」


 そう言って、鍵太郎が作った束に、自分の作った束を括りつけて――

 完成間近になってきたそれに部長は満足げに微笑み、こちらに言う。


「よし。じゃあこの調子でちゃちゃっと作って、練習を再開しましょうか。願いに見合う演奏をしなければ、これを作る意味もありませんからね」

「……はい」


 そして、そんな優の様子を見て。

 鍵太郎は、ひょっとしたら――今年は去年とはまるで違うものができるかもしれない、とふと思った。

 いい演奏をしたいと願う心と。

 それに見合った技術。

 それらが束ねられたとき、いったいなにができるのか――

 そう考えたとき。


「……っ!」

「……え」


 目の前に急に小さな手が差し出されてきたので、鍵太郎は驚いてその手の主を見返した。

 そこにいるのはクラリネットの一年生、野中恵那のなかえなだ。

 予選の件以来、彼女はこちらから話しかけても、逃げてしまうようになっていた。

 だが恵那は――今は小刻みに身体を震わせつつも、懸命にこちらに向かって鶴を差し出している。


「……ありがとう」


 彼女もようやく、この部に慣れてきたのだろうか。

 そう思うと嬉しくて、鍵太郎は笑顔で後輩の鶴を受け取ったのだが――



「――っ!?!?」



 震える手にこちらの指先が触れた瞬間、恵那は顔を真っ赤にして、ダッシュで逃げていってしまった。


「……うーん。やっぱりまだ、先輩っていう存在は怖いんですかねえ……」

「……湊くんのその鈍感っぷりは、目に余るものがあると、私は思いますよ」

「……? なんですかそれ」


 そう言うと、優はなぜか更にじっとりした眼差しで、こちらを見つめてくるのだが。

 なぜなのだろう。そう思って、鍵太郎が首をひねっていると――


「……ええ、あの人もそうでした。こっちがいくら言っても行動しても、暖簾に腕押し、糠に釘といった調子でまるで気づかないで、自分が楽しいことばっかりに熱中して……なんなんですかあの人。馬鹿なんじゃないですか。死ぬんじゃないですか……っ!?」

「ちょ、ちょ、先輩、先輩!? 鶴が! 鶴が!?」


 自分の言動が部長の、触れてはいけない部分に触れてしまったらしくて。

 持っている針を、鶴にざすざすざすざすっ――! と突き刺し始めた優を、慌てて止めに入る。

 よくわからないが自分も部長も、まだまだ全部を束ねきれているわけではないらしい。

 だが――


「……まあ、今年はずっと、これでやってきたんだからな」


 それでも着実に、今年のそれが完成が近づいているのはわかっていたので。

 思いが形を取った、その姿を――鍵太郎はまたひとつ手に取って、糸を通していった。

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