第163話 軸にかけるスピード
「先輩先輩! ここってどうやって吹いたらいいんですか!?」
同じ低音楽器の一年生である
そういえば彼女は先日、『目標にできる先輩を見つけなさい』と言われ、その先輩、高久広美の名前を挙げていたのだ。
朝実の担当する楽器・バリトンサックスと、広美が吹いているバスクラリネットは、サックスとクラリネットの違いはあれど同じ木管低音という括りではある。
なので技術的な目標とするなら、広美は確かに申し分ない人物ではあると鍵太郎も思ってはいた。楽器の特性上目立ちにくいものの、近くで吹いているとやはり同じ低音として、彼女のすごさはよくわかるからだ。
たが、なぜさっきからこんな、奥歯に物が挟まったかのような言い方をしているかというと――
「ああ、アサミンそこはね、湊っちに喝を入れるつもりで吹けばいいんだよ」
――この先輩が、こういうことをニヤニヤしながら言う人間だからである。
演奏面だけならともかく、この先輩の性格まではちょっと真似しないでほしかった。
だがそんな鍵太郎の儚い願いをよそに、先輩と後輩のやり取りは続いていく。
「喝を入れるってどういうことですか!? 『もっとしっかりしろよ!』ってことですか!?」
「そうそう。あたしら木管低音は、チューバの音の芯を作る役割があるからね。スパゲッティのアルデンテみたいに、あの子の音に軸を作ってあげるといいんだよ」
「なるほど! じゃあこれからは、湊先輩に対してもっと遠慮しないで、ガンガンいっちゃっていいんですね! ガンガン!!」
「そうそう。アサミンはこれからもガンガン、あのなっさけないヘタレ弟子に、もっとしっかりしろって元気に言ってあげればいいんだよ!」
「違うでしょ」
さすがにこの散々な言われように、鍵太郎も広美に突っ込んだ。
言っていることは正しいし、理屈もわかるのだが。
この先輩に任せていると後輩の違う方面までもが伸ばされていきそうで、非常に怖いのである。
ただでさえ、この後輩は素直すぎるのだ。
だからこの前、副部長と一緒に技術はともかく、性格までは真似しちゃダメだと朝実には言って聞かせたというのに――やはりどうにも、隣にいるとその影響は受けてしまうらしい。
とはいえこんなのがこれ以上増えたら、こっちの身が持たない。
なので鍵太郎は後輩と自分の身を守るため、二人の間に割って入った。流れを変えるために手を叩きながら言う。
「はいはい! もうコンクールまで時間もないんですから。変なこと教えてないでパート練習始めましょうね! 練習練習!」
「なんだい、変なコトとはご挨拶じゃないか湊っち。でもまあ、続きは実際にやってみて覚えたほうがいいかな。じゃあアサミン、先輩を先輩と思わずに思いっきりいっちゃいなさいな」
「はーい!」
「なんか違う! なんか違うなあ!?」
まあやっぱりそんな風に、ちょっと自分の考えることと現実は違ったりするのだが――
しかしそれでも、こんなことをやっている今の方が必死にやっていたあの予選のときより、不思議と音が響くようになっている気がするのだ。
雰囲気が違うと、音の鳴りも違うのかもしれない。
その因果関係はよくわからないけれども、それならば――
「……ま、いいか」
元気のよすぎる後輩に、少しくらい罵倒されるのも我慢してやるかと、鍵太郎は思うのだ。
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そして、そう思っていたのは自分ひとりだけではなかったらしい。
「やー、だいぶ音が変わってきたねえ。よかったよかった」
部員たちの演奏を聞いてそう言ったのは、外部講師で指揮者の
普段は残念イケメン扱いの彼であるが、そこはさすがにプロの先生である。
さらに全員の演奏を前で聞いている存在とあって、その発言の信頼性の高さは折り紙つきだ。自分たちの音のなにかが変わったような気がするが、本当に変わったかどうかは確信が持てない――そう思っていた鍵太郎にとって、城山のセリフは非常に安心できるものだった。
一応全員の音は聞いているものの、さすがに奏者側にいると音の渦のただ中にいることになるので、客観的にどのように聞こえるのかまではよくわからない。
しかしどうやら、進む方向はこちらで間違っていないらしい。
そう再確認をして鍵太郎がほっとしていると、先生は続けて言ってくる。
「これまでは個人個人の音が、デコボコして聞こえる感じだったけど。少しずつ全体で鳴るようになってきたね。これならいい感じになりそうだ」
「……先生、ひょっとして講評で『音がバラバラ』って書かれたのは、それが原因なんですか?」
「そうだね。それもあると思う」
打楽器の部長、
先日の会議では後輩から『息を揃えればいいのではないか』と言われていた優である。
音を出すのに呼吸を必要としない打楽器の人間だけに、その方法は普段あまり意識していなかった部分なのだろう。
だが、今は彼女もその部分に興味を持っている。
なのでそんな部長と、そして部員たちに向けて先生は言った。
「音っていうのは不思議なもので、ただタイミングが揃っただけでは『揃って聞こえない』んだ。楽器に息を吹き込むスピードや、そのための身体の使い方も関係してくるんだよ。それを揃えることが、本当に音を揃えることに繋がるんだ」
「……ふむふむ。なるほど」
「これは身体の深部の筋肉を使わないといけなくなるから、すごく体調や精神的なことが影響しやすくなる。ちょっとしたことで合ったり、合わなくなったり――緊張するなって他人から言われても、しなくなるわけじゃないのと一緒で、いい音を出せと言われても出ないときもある」
「……ああ。そうですね」
これまであんなに必死になっても、大して音が響かなかったのはそのせいか――予選前までの雰囲気を思い出して、鍵太郎は心の中でボソリとそうつぶやいた。
一部の先輩が全てを決め、後輩たちはそれに渋々従わざるを得なかった。そんなこれまでの流れの中では、身体が無意識にこわばって、結果的に自分たちで自分たちの響きを殺すことになっていたのだろう。
そういった経験が、自身にもあるのかどうなのか――城山は続ける。
「そういうのはある程度、技術的なことでカバーできるけど。でも音大生でも精神的なことが原因で、音が出なくなることはあるからね。普段から体調とかメンタルには気を配っておいたほうがいい。
音が出ないときの言い訳じゃなくて、そういうのも事実として認めて『じゃあ、どうしようか』って考えられるように。それが、個人やバンドとしての、よりよい音作りにつながっていくと思う」
「……じゃあ私たちはこれから、どうすればいいのでしょう?」
「もうそれは、きみたちには薄々わかってると思うよ」
色々言われて難しい顔で考え込む部長に、先生は笑ってそう言った。
言われてみれば、確かにそうだ。
最近は優が後輩の意見を聞いたり、朝実が声を出すようになったりして少しずつ、場の流れが変わってきている。
個人個人の音が。
『どうしたい』かが、少しずつ出るようになってきているのだ。
それは、誰かが強制してやったことではない。ここにいる全員が、自分で作り出した『空気』だった。
それを城山は、演奏から感じ取っている。
指揮棒を改めて握って、先生は言った。
「これまであんまり、手を出してこられなかったけど――それが出てきたら、今度は僕の出番だ。音を伸ばして交通整理していくのは指揮者の役目。ここまで遅くなってしまったのは大人として、僕の責任もあるだろうし――
そうだね、本番も近いことだし、じゃあさっそくやってみようか。ちょっと突貫になるかもしれないけど、僕もできるだけのことをしよう」
「――!」
城山の顔つきからのスイッチが入ったのを感じ、鍵太郎は気を引き締めた。そう、ここでようやくスタートラインに立ったのだ。
自分と同じように、他の部員もなんとなく、向かう方向が分かりかけている。
でも、その道にはまだもやもやと、ぼんやりした不安が付きまとっていて――それを振り払うためには、まだまだ力が必要だった。
その力を伸ばすため、先生は告げる。
「まずは自分が一番いいと思う音で。チューニングの音でいいから、合図をしたら鳴らしてみよう。じゃ、いくよ――」
指揮棒が振られるとともに、全員が音を鳴らす。
大きな音、精一杯の音、つんざくような高音――
何度か同じことを繰り返しているうちに、それらはタイミングを掴んで合ってきたように思えた。
そうなると整えようとして、何人かが周りの音を聞くため、音量を落とす。
そこで――
「周りを探らない!!」
『――!?』
城山が突然大音声を発してきて、全員がぎょっとして元の勢いを取り戻した。
三十人の全力の音の中でもはっきりと聞こえたそれに、鍵太郎はびっくりして改めて先生を見る。
この人、こんな声も出せたのか――そう思う部員たちに向けて、城山は叫んだ。
「自分の音は保ちながら、音にかける勢いと圧力を隣同士で寄せ合っていって! けれども音はぶつけない! 出したときに自然とタイミングが合うように!!」
はい――という返事は吹いていてできないので、代わりに鍵太郎は言われた通り全力で音を出しつつ、周りの音を聞き始めた。
予選までの雰囲気だったら萎縮する部員もいたかもしれないが、今はもうそこまでの心配もない。
まあ、目の前にいたクラリネットの後輩が、最初の大声のときにビクンと跳ね上がったのが見えたのだが――音は出ている。大丈夫大丈夫。心配いらない。
そうやって普段より大きな渦の中、臆することなく自分の音を出していく。
むしろ今は、それが求められているのがわかる。
ビリビリビリビリ、と周りの床が、窓が、空気が震えていく。
それでもまだ足りなくて――もっといける、と鍵太郎がさらに音を出したとき。
先生から指示が飛んできた。
「チューバ! 慣れてきたら他の低音と連携!
「――!」
あたしらは、湊っちの音の軸を出してあげればいいんだよ――先ほどの先輩の声が、脳裏をよぎる。
他の楽器にも指示が飛んで、音の渦はさらに膨れ上がった。震える音楽室の中で、鍵太郎は前にいる二人を意識する。広美と朝実。この二人が出す地面の響きを探していく。
先輩はすぐに見つかった。
後輩は――やっぱりそこにいた。
木管低音独自の、ビン、と張った音。先輩のその響きの横で、朝実もそれ似た感じの、でもちょっとえぐみ混じりの音を出している。
パート練習の甲斐はあったのだろうか。
それともあまり認めたくないが、隣にいる『目標にしたい人物』の教え方がいいのか。
後輩の音は、これまでよりも地面を震わせ、大きく響いてきている。
音を寄せる、という言葉の意味はわからない。
けどなんとなく、一歩近づくつもりで朝実と一緒に音を出した。するとわずかに、自分の身体にかかる負荷が軽くなる。
ただでさえ負担の大きいこの楽器だ。しかし今は、それが楽になりつつあった。
それに伴って、違うところに余った力を回せるようになってくる。力のかけ方を変えていくと同じエネルギーなのに響きが増して、あ、すごい、と反射的に思った。
今のところ朝実から、こちらに寄ってくるような気配はない。
けれどその分、彼女は全方向に向かって音を伸ばしていて――今はそれでいいんじゃないかと思うのだ。
この後輩は後輩で、自分の目の前にあることを懸命にやってもらえればいい。
だからその一部を掴まえて、鍵太郎は後ろから自分の音を乗せて飛ばす。
そうすると無意識なのかなんなのか、朝実の音もよく伸びるようになって――その相乗効果でさらに全体の輝きが増していった。
「打楽器! 叩く前に管楽器と一緒に
「――! はい!」
そこに優の打音が加わって、今度は背中を押されるような、力強い風が吹き付けてくるような感じになった。なんだかんだ厳しいことは言いつつ、この人の実力は本物なのだ。
一緒にやってくれるなら、これほど心強い味方もいない。
これまで合っていなかった部分が噛み合って、さらに身体が軽くなる。
タイミングが合って、見通しがよくなった。そこかしこで、そんな化学反応のようなスパークが起きているのが分かる。
音にかける勢いが揃っていく。
それを聞いて城山が、「いいぞいいぞ、全然違うバンドになってきた――!」と笑った。
指揮棒を振るその姿は目を輝かせていて子どものようで、ほんとこの人、いい大人のはずなんだけどなあと苦笑したくなる。
けどきっと自分も、似たような顔をしてるんだろうなと思った。これまで開いていなかった回路が開いて、新しいなにかが作り出されていく感覚。それはあの選抜バンド以来、鍵太郎も久しぶりに味わうものだった。
しばらくそんな練習をして、先生が指揮棒を下ろす。
いつもより疲れているのに、疲れていない――そんな不思議な気分の生徒たちに向かって、城山は言う。
「じゃあ、この調子で曲をもう一度やってみようか。これでさっきとは、また違う演奏になるはずだ。どんな感じで吹きたいのか、それを各楽器で合わせていこう。
『どうしたい』が各々で違っていたら、『この曲ではなにを優先する』かを話し合う。そんな風に、曲として『きみたち』は『どうしたい』か――今度はそれを作っていこう」
『はい!』
「よし――じゃあ、第二ラウンド」
そう言って指揮棒を構える先生に反応して、部員たちが即座に楽器を構えた。
その空気を感じて、思考の隅でああ、いいなあと鍵太郎は思う。
残された時間は少ないが、なんとかなるような気がしてくる。不安定だった道のりに、はっきりと光が射した気分だった。
###
「すごいですねー! わたしたちにも本当に、こんな演奏ができたんですね!」
そしてそんな練習が終わって、朝実が興奮気味に言ってきた。
あれから時間いっぱいまで、合奏は続いた。あの調子でずっとやっていたのでかなり吹いたはずなのだが、高揚感がそれを上回っている。
今まで散々やってきた曲のはずなのだが、まるで違うもののように感じられた。
自分たちにもこんな音が出せるのか――目の前にいる後輩と同じように、鍵太郎もそんな気分だった。
朝実はぱたぱたと手を振りながら、言ってくる。
「前に湊先輩は、わたしたちにもすごい演奏ができるんだって言ってました。でもそんなの、本当は絶対無理なんじゃないかって、わたしこの間まで疑ってたんです」
「ああ。言ったね、そういえば」
選抜バンドから帰ってきたとき、朝実にそう言われた覚えがある。
あれからかなり紆余曲折あったが――なんとか、ここまでこぎつけた。
そう思うとなんだか、ずいぶん長いこと戦ってきたような気がする。
その中でこの後輩も、色々思うことはあって――ひょっとしたら、辞めようかなと思ったこともあったのだろう。
だから――
「……宮本さん」
鍵太郎は改めて、後輩に訊いてみた。
おそらくもう、あんなことにはならないだろうけど。
それでもこれから歩いていく道の、軸を作るために。
「……今、部活楽しい?」
「なに言ってるんですか!? 楽しいに決まってるじゃないですか!」
「……そっか」
ありがとう――
声には出さずに、鍵太郎はそれだけを後輩に言った。
選抜から帰ってきたときも、彼女には礼を言ったけれども。意外と確かにこの後輩、自分の芯になっているのかもしれない。
「相変わらずなにをおかしなこと言ってるんですか!? 変な人ですね!」
「これさえなければ、本当にいい後輩だなって胸を張って言えるんだけどなあ……」
やっぱり元気すぎる後輩に、思わず額を押さえるのだが。
まあ、これがあるからこそあの音が出せるのだろう。そう思って、ちょっとくらい罵倒されるのは我慢することにする。
うん、ちょっとくらいなら――
「でもよかった、これで湊先輩を、嘘つき野郎呼ばわりせずに済みそうですね!」
「なんかねえ、ちょっとこの頃は先輩も、もう少し自分の意見を言っていいのかなと思ってきたよー?」
「ほっぺをつねるのはパワハラでふー」
――とまあそんな風に、今回はちょっと我慢しきれなかったのだが。
でも、きっとこの方向でいいんだろうなと思った。
お互いが主張しながら、あんな風にできていくものがあるのなら――
「ああ――なんか、ほんと楽しくなってきたな」
こうして言いたいことを言い合って、笑い合う道も悪くない。そう思ったからだ。
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