第162話 はじまりの火
「炎、を」
出すには、どうすればいいのかしらね――と。
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「結局これから、どうすればいいんでしょうか?」
すったもんだの部活会議が終わって、鍵太郎が楽器を出していると。
同じ低音パートで一年生の
「貝島先輩があんまり怒らなくなって、よかったなーとは思いますけど。でもそれはそれで、なんだかどうすればいいか、よくわからないです」
「まあ宮本さんはとりあえず、思いっきり吹いてくれればそれでいいんじゃないかな」
なにかが腑に落ちない。そんな後輩の様子に、鍵太郎は苦笑してそう答えた。
コンクールで金賞を取るためには、厳しい練習だろうが我慢してやらなければいけない――
これまでこの部活は、そういう論理で動いてきたのだが。しかし初心者の朝実は、そもそもコンクールがどういうものかすらもよくわかっていなかったのだ。
彼女にとってこれまでの流れは、まるで未知の嵐がやってきたようなものであったろう。
加えてそれが、きのうになって突然過ぎ去っていったのである。あれは一体なんだったのだろうと、考えたくなるのも無理はない。
だが状況が変わった以上、それを分析していてもしょうがないわけで――
それになにより鍵太郎としては、これまで窮屈そうな吹き方をしていた後輩たちには、まずは伸び伸びとやってほしいという思いの方が強かったわけで、背中を押すつもりで、後輩にはそう言ったのだが。
しかし朝実は、「うーん、そういうことなんですかねえ」と、まだ納得いかなさそうに首を傾げたままだった。
「なんか……どうしたらいいかよくわからないんですよね。なにをどうなのか、自分でもよくわからないんですけど」
「宮本さんは、どうしたいの?」
「それがよくわからないから困っているのです」
そこだけはいつものようにやたらとはっきりと、頬をつねってやろうかというくらいずっぱりと、朝実は言ってくるのだが。
それがこの後輩のいいところでもあり、また悪いところでもある。
まあそれは、先輩の寛大な心で許すとして――しかし今回は、そんなはっきり物を言う彼女自身にも、うまく言葉にできない部分のようだった。
「……よくわからない、ねえ」
なにかが足りないのか。
それとも他のものが邪魔して、問題自体がはっきりと見えないのか。
どちらにしてもそれだと思い切り楽器を吹くのには不自由そうだったので、鍵太郎はそんな後輩の悩みを解きほぐすのを手伝うことにした。『それ』を放っておくとあまりよくない気がするというのは、ここ一年でなんとなくわかっていたことだからだ。
本選に向けて雰囲気が変わり始めたとはいえ、予断を許さないデリケートな時期だったからというのもある。
なのでもう少し後輩の話を聞くべく、鍵太郎はそこで口を開きかけたのだが――
「……ちょっと、いい?」
「――っ!?」
そこでありえない人物から声をかけられて、鍵太郎は驚きのあまり出しかけた言葉を引っ込めた。
まさかと思って恐る恐る、後ろを振り返ってみると――
「……折り入って、相談があるんだけど」
「……」
やはりそこには関掘まやかがいて、いつものようにじっと、こちらを覗き込んできていた。
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これからなにを言われるのかと、戦々恐々としながら付いていった先で。
「……炎、ですか」
相談というにはあまりに抽象的な単語を持ち出されて、鍵太郎は思わずその言葉を繰り返していた。
しかし彼女が、なにを言わんとしているかはわかる。
――『火のように』。
それはこの冷厳な先輩が、少し前に指揮者の先生に「もっとそう吹きなさい」と言われていたことだった。
吹けているのに、表現できていない。
そう指摘されたのはなぜなのか。本人もそのときは理由がわからず、答えを探っていたようだ。
しかし、それはもう――
「なんとなく、ですけど……俺はもうそういうの、先輩はわかってるんだと思ってました」
だからこそ、きのうは部長ではなくこちらの味方をしてくれたのではなかったのか。
そう思っていただけに、鍵太郎は予想外の展開に戸惑いつつまやかに言った。あのとき部長が折れたのは、間違いなく副部長である彼女がこちらについてくれたおかげである。
この人は自分たちのやり方に、その『炎』の可能性を見出してくれたのだ――先日のこの先輩の言動から、てっきりそう思っていたのだが。
しかし本人にしてみれば、そう単純な話ではなかったらしい。
まやかはゆるゆると首を振って、続けてくる。
「違う。あのときは優のやり方じゃもうダメだってわかったから、ああ言っただけ。
じゃあ他にどうするんだと訊かれたら――まだ、わたしの中に答えはないの」
「あ、そうだったんですか……」
自分たちのことを認めてくれたのでは、なかったのか。少し残念に思って、鍵太郎は肩を落とした。
性格的にはちょっと合わないであろうこの先輩だが、ただ演奏のことに関しては、やはり非常にレベルが高いということは鍵太郎も事実として受け止めているのだ。
そんな彼女だからこそ、これまでとは違う場所に行くべきなのだ、というこちらの主張には賛成してくれたのだろうが――
しかしそれならばこの先、どこに向かえばいいのか。
それがわからずに途方にくれて、彼女はその場に立ちすくんてしまっているようだった。
「……どう考えてもわからない。吹いても吹いても吹いても吹いても、結局、なにも見えなかった。わたしには、『それ』がないんだと思う。どうすればいいのか、わからない――」
「……先輩」
「……優は変わった。けれどわたしは結局――取り残されたまま」
また、ひとりなのね。
そう言って、先輩は小さくうつむいた。
誰よりも努力するが故に、誰よりも孤独である――そんな彼女ができてしまったのは、かつて当時一年生だったまやかを残して、フルートの先輩が全員いなくなってしまったからだと聞いている。
去年その話を聞いたとき鍵太郎は、まやかはとても強い人間なのだと思った。
そこからひとりで立ち上がるなんて、とても自分にはできないと思ったからだ。
けど――
「……どうしたらいいのか、わからないって」
そのときの彼女は――ひょっとして、今と同じことを言っていたのではないか。
目の前でうなだれているこの先輩を見て、鍵太郎はふと、そんなことを思っていた。
今の状況は人づてに聞いていた当時の様子に、ある意味似ている。
知らない嵐に巻き込まれて、気がつけばどこに踏み出していいかもわからなくなってしまった。
そしてそれは奇しくも――楽器を始めて間もないあの後輩と、同じ悩みだった。
ならば――
「……先輩は結局、どうしたかったんですか?」
そのときたぶん、誰も彼女に言わなかったであろう、その質問を。
鍵太郎は、まやかにぶつけてみることにした。
『それ』を放っておくとよくないということは――ついさっき、あの後輩に対しても思ったことだからだ。
「前々から疑問に思ってたんです。先輩はなにを考えて、そこまで上手くなったんだろうって。貝島先輩ともまた先輩の練習する姿勢は、違うように見えたから」
「……なにを、考えて?」
「はい」
上手くなろう、というベクトルは部長と同じにも関わらず。
これまでまやかの考えは、ほとんど読めなかった。
それはひょっとしたら、彼女自身もよくわかっていなかったからかもしれない。
でも――そこにこの人の望む、『それ』があるのだとしたら。
「先輩は、なにを望んで練習してたんですか? 吹いて、吹いて、吹いた、その先には――いったい、なにを見てたんですか?」
「……それは」
それを解明することが、『火のように』吹くことへの鍵になるのではないか。
部長や、なにより自身の経験から、鍵太郎はそう思っていた。
たくさん練習して、上手くなったけれど。
結局自分は、なにをしたかったんだっけ。
いつの間にか上手くなること自体が目的になって、すっかりそれを忘れていて――部長と同じで、彼女もすぐにはそれが出てこないようだった。
しばらくまやかは、考えていたが――
「……ああ」
それは、『炎』に至る可能性。
後輩のように、わからないと言われるかもしれなかったけれど――やはり彼女はこの部で、一、二を争うほどの優秀な吹き手だった。
誰よりも孤独だったからこそ、誰よりも肩を並べて一緒に吹ける存在を探していた、この先輩は。
「思い、出した」
顔を上げて、大きく見開いた目にそれを、映し出していた。
「なんだ……『そこ』にいたんですね――先輩」
そこにいたのは彼女が求めていた、かつて一緒にいた人たち。
はじまりと共に封じていたその火を、記憶の底から見つけ出して。
関掘まやかはそこで――ただ一筋の涙を、こぼしていた。
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「もう、だいぶ前の話だけど。昔はわたしも先輩たちと一緒にやってたのよ、パート練習」
話し合いを終え、音楽室に帰るまで歩きながら。
まやかは鍵太郎に、昔話を語って聞かせていた。
「あのときわたしは初心者で、ロクに音も出なかった。けど二人とも、笑いながら教えてくれたの。楽しかった。音が出るだけで、楽しかった――なんだか久しぶりに、それを、思い出したの」
ずっとずっと、忘れてた。
もうあの人たちはいないけど――それだけは、ずっと、変わらないの。
「なんのために上手くなったのかと訊かれたら――きっと、またそれをやりたかったからなんだと思う」
「……そうですか」
そんな風に、かつてなく上機嫌で語る先輩へ――鍵太郎はただ、それだけを返していた。
この人のこんな姿を見るのは正直、ちょっと違和感があるのだが……まあ、これでいいんだろうとも思ったりする。
かつて彼女が先輩から与えられたという、『はじまりの火』。
もうここにはいないけれど、その人が与えてくれたそのぬくもりはずっと、彼女とともにあったのだ。
それを取り戻した以上――まやかはもうこれまでのように、人を威圧したりはしないのだろう。
だったらそれで構わないのだ。いや、ちょっとまだある意味逆に怖いのだけど、じきに慣れる――はず、だろう。たぶん。
そして――
「あ、宮本さん。ちょっとちょっと」
だからこそ、今の彼女にはひとつ頼みがあった。
音楽室への扉を開け、朝実を手招きして呼び寄せる。今度はこの先輩に事情を説明し、二人で後輩の悩みを聞こうということになったのだ。
先ほど鍵太郎は全力でがんばればいいと、朝実に言った。
しかし後輩は微妙な反応をした。その理由はまやか曰く――これからどう全力でがんばっていいのか、彼女は具体的にわからなかったからではないか、ということだった。
ならば、その解決法は。
「あなたは――どんな音を出したいと思う?」
同じように道に迷っている後輩に、目指すべき灯火を指し示すこと。
そしてそれは同時に――この先輩が見つけ出した、『炎』を出すための方法でもあった。
急に問いかけられてきょとんとする朝実に、先輩はさらに呼びかける。
「大きい音を出したかった? きれいな音を出したかった? どこか――やっている曲で、好きなメロディーはなかった?」
それは初心者で入った彼女が、かつて先輩にかけられた言葉だったのかもしれない。
音もなにも出なかったころに、与えられた最初の火。
それを今度は、彼女が――後輩に与えようとしている。
「その音を出すにはどんな練習をしたらいいと思う? そのためだったら――誰を、目標にしたらいいと思う?」
その火の形は、人によって違うのだろうけど。
この先輩には、それを見つける手助けはできるはずだろう。
鍵太郎がそう思って、二人を見守っていると――
「誰を目標に、ですか……あ!」
まやかの言葉に、誰かが思い浮かんだのか。
朝実が、ぱっと表情を明るくした。
この後輩は、いったいどこにそれを見出したのだろうか。
そう思って、二人で後輩の言葉に耳を傾けると。
彼女はそこでいつものように、元気にはっきりずっぱりと――その人物の名を口にしてくる。
「私、高久先輩みたいになりたいです!」
『それはやめなさい』
その返答に鍵太郎とまやかは、即座に後輩に対してそう突っ込んでいた。
これまで長い間対立してきたこの二人の意見が、完全に一致した記念すべき瞬間だった。
「えー」と不満げな声をあげる後輩に対して、先輩二人はさらに息の合った調子で続ける。
「いや確かに同じ木管低音として、あの人は目標にしてもいいと思うけどさ!? でもあの逆セクハラと腹黒思考だけは、絶対に真似しちゃ駄目だからね宮本さん!?」
「確かに、技術的に目標になるような人物がいるのはいいことよ。けど、あの性格は絶対真似したらダメだと思うの」
「あれー? なんか今日はすごく珍しく、二人は仲良し! ですね。気持ち悪いです」
『誰のせいだ、誰の!?』
どちらかというと、これはこの後輩ではなく、あのおっさん女子高生が悪い気もしたのだが――
だからこそ、あんなのの増殖は必ず食い止めるため。鍵太郎とまやかはそこで、後輩の進路の矯正を烈火のごとく激しく、断行することにした。
それは思い描いていた『炎』の出し方と、ちょっと違っていたはずなのだが。
先輩はいつの間にかとても楽しそうに――気づけばあの頃と同じように、笑っていたという。
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