第159話 結果の意味

 コンクール会場の外に出ると、夏独特の湿った暑さに包まれる。

 人でごった返すロビーから一足先に抜け出して、湊鍵太郎みなとけんたろうは集合場所で他の部員を待っていた。

 吹奏楽コンクール、県の予選会。

 先ほどその閉会式が行われ、自分たちの学校は予選を通過し、本選への出場が確定している。

 にもかかわらずこちらに歩いてくる部員たちの、特に一年生の顔色がすぐれないのは――ひとえにこの予選前に交わした、ある約束が原因だった。


 『予選まで部員たちは全員、部長のやり方に従う。それでいい結果が出たのなら、引き続き本選まで部長の言うことに従う。そうでなければ、部長は部員たちの言うことを聞く』――


 予選前にそんな約束が交わされて以来、後輩を中心とした部員たちは、渋々ながらも部長の言うことを聞いてきたのだ。

 コンクールの本選で金賞を取るべく、厳しく、ときに怒鳴られながら練習してきたあの時間がまだ続くのか――そんな思いから、この場の雰囲気は非常に濁ったものになっている。

 『コンクールの金賞』というものに三年生ほどの価値や現実感を見出せない一年生の中には、これで部活を辞めようと決めた者もいるかもしれない。

 既に結果は出たのだ。

 もはや未来は確定していて、あとはそれにどう対処するかだけ。

 ただ――

 鍵太郎はそんな部員たちとは、また違う考えがあった。


「……その『道』になにを見出すのかは、人それぞれ」


 それは本番前に、鍵太郎が指揮者の先生に言われた言葉だ。

 自分たちが歩いてきた道を示して、開けた未来になにを思うか。

 それが人によって違うのなら――

 結果が出た今でも、あがく余地は残されている。



###



「結果が出ましたよ、みなさん!!」


 そして、沈んだ様子の部員たちの前で。

 予選通過の証である賞状を掲げたのは、部長の貝島優かいじまゆうだった。

 部長と副部長の二人は結果発表と表彰式のため、他の部員たちより遅れて集合場所にやってくる。優の後ろでは副部長の関掘まやかが、静かに部員全員を見つめていた。

 黙ったままの部員たちに向かって、部長はそのまま勝利宣言を続ける。


「これで勝負は私の勝ちです! みなさんにはこれからも本選まで、私の言うことに従ってもらいますからね! なにしろ『吹奏楽は結果が全て』ですから!」


 気まずい沈黙の中で、部長ひとりの勝ち誇った声が響いた。

 結果が全て。

 それはこの部活に入って、鍵太郎が何度となく聞いた言葉だった。

 確かに、コンクールは成績が出る場だ。

 採点式とはいえ、学校別に優劣が決まる。その結果によって、自分たちがそれまでしてきた努力が、正しかったか正しくなかったかを判断するのだ。

 どの学校も自分たちをよりよくしていこうと、その結果を参考にする。

 だから、それによって次の演奏会に入るお客さんの数が決まってくるんだよ――と言ったのは、選抜バンドで出会った、ひとりの強豪校の生徒だったが。

 そういう意味ではなるほど、その言葉は正しいのだろう。

 今よりよくなろうとすることは、むしろ歓迎されるべきことだ。

 それは間違ったことなんかじゃない。

 けれど――



「――先輩」



 あの選抜バンドのときを思い出しつつ、鍵太郎はそんな沈黙の中で、ひとり声をあげた。

 その場にいる全員の注目が、自分に集まる。

 滅多にないその機会に、基本的に伴奏楽器担当である、鍵太郎の心臓がきゅっと縮まった。普段から目立つ楽器じゃないのだ。スタンドプレーには慣れてない。

 それにこれから言うことには、なにかの保障があるわけでもない。

 初心者で人の言うことばかり気になる、女子だらけのこの部活で発言権なんてあってないようなものの男子部員――そんな自分に今、反論する権利など許されていないのかもしれなかった。

 けれど――


「……」


 こちらを不安げに見つめる、重い前髪のクラリネットの一年生の姿が目に入る。

 そしてその彼女の隣にいる、ぶっとい三つ編みを下げた、バリトンサックスの後輩の姿も。その彼女にあだ名をつけた、バスクラリネットのオヤジ女子高生も。

 うっかりでぽっちゃりなユーフォニアムの先輩に、弱点を武器に変えたと言った、地味なトランペット吹き。きっとなにも考えてないだろうトロンボーンのアホの子に、一緒になって騒ぐと手のつけられない双子の姉妹。切れ長の目でこっちを見てくるホルンの同い年は、そういえばつい一ヶ月前まで冷戦状態だった。でもそんな彼女ともいつか仲良くなれると言ってくれたのは、こんな状況になっても救いを探し続けた、クラリネットの同い年だった。

 そして強豪中学出身で、けれども本番に弱いあのトランペットの同い年も――最近はそんな連中と付き合ってきたせいか、少し考え方が変わったらしい。

 だから、そんな彼女たちと、この一年を一緒に歩いてきた自分にしか――

 こんな小さな自分にしか言えないことが、あった。


「……見せてもらいたいものが、あるんです」

「見せてもらいたいもの……?」

「――はい」


 ひとつ大きく息を吸って、鍵太郎は怪訝な顔をする部長へとうなずく。

 数ヶ月前は絶望するほど断絶を感じた、この部長との距離。

 それを『信じて』『飛び越える』だけの力は。

 ここにいる、彼女たちからもらっていた。


「もし、先輩の言う通り『吹奏楽は結果が全て』なんだとしたら」


 もし、今日の結果が、それまでしてきた努力の成果なのだとしたら。


「それを――見せてもらいたいんです」


 そう言って、鍵太郎は小さな封筒を指差す。

 『それ』は。

 とてもとてもストイックなフルートの先輩が――



「今日の演奏の、講評用紙。そこになんて書いてあるのか――それを見てからでも、結論を出すのは遅くないと思います」



「……」


 鍵太郎の言葉で、全員の注目を浴びることになった副部長、関掘まやかは。

 やはり無言のまま――しかし迷いなく、その封筒を差し出してきた。



###



 本来ならば講評用紙は、真っ先に先生たちに見せるもの――らしい。

 しかし先生二人は、首を振ってこちらに先に見るように促してきた。この二人もどういうつもりなのか、ただ今はその厚意らしきものを、ありがたく受け取っておくことにする。


「……」


 講評用紙は全部で六枚。

 一枚は点数合計表で、残り五枚は審査員別につけられた点数に、文章で演奏についての講評が記されたものだ。

 その全てをひと通りチェックし、点数を計算して。

 鍵太郎は驚きに目を見開いたまま、顔を上げた。


「……点数が低すぎる」


 総合得点表には数字のみで、学校名は記されていない。

 だが審査員につけられた点数を合計すると、その点数は合計表のだいぶ下――おそらく予選通過ラインギリギリであろうところに、自分たちの学校の点数があった。

 去年は確か、予選はなんの心配もなく通過していたはずだ。

 そう言うと優は、「去年は去年、今年は今年です」とこちらをにらんできた。


「今年はまずメンバーからして違います。去年の先輩たちは、それは確かに上手い人がそろってました。けど今回は違います」

「でも、それにしても低いです」


 反論する部長に、鍵太郎は何枚目かの講評用紙を差し出し、そのうちの点数の部分を指差す。


「ほら、ここ。芸術点が六点です。俺、選抜バンドに行ったときに宮園高校のやつに聞いたんですよ。『審査員の誰かに六点をつけられたら、その時点でもう金賞はない』って」


 なんの因果か因縁か――あの場で一緒に吹くことになった、もうひとりの強豪校の生徒。

 彼のやり方をそのまま実行することはできなかったけれど、それでもアイツにかけられた言葉は、決して無駄などではなかったのだろう。

 流れは自分で作り出せ。

 そう言っていたアイツに心の中で小さく礼を言って、鍵太郎は続ける。


「貝島先輩は本選で金賞を取ることを目的にして、この一週間の練習をやってきたはずです。けどそれでこの点数だっていうんなら――今回はとても『いい結果』だったとは言えないんじゃないでしょうか」

「だ……黙りなさい。予選は突破してるんです。それはこれからの練習で、もっとちゃんとやればいいことです」

「それだけじゃないんです。ほら、これ」


 わずかに揺らいだ部長を逃さぬよう。

 鍵太郎は指を点数の部分から、その下の講評の部分へと動かした。そこには忌憚なく、プロの大人からの意見が記されている。



 『打楽器が分離して聞こえます』



「え……?」


 その、打楽器担当の部長が呆けたように声を出す。

 リズムとテンポは、メトロノームを使って徹底的に練習したはずだ。

 それさえ合えば全体がそろうはず――そう言っていた優は、その『結果』を呆然と見つめた。


「他の講評も見てください」


 鍵太郎は部長に、持っていた講評用紙を全て渡した。それぞれ木管、金管、打楽器、指揮者、作曲の先生ということだったが――書いてあることは、なんとなく共通しているように思えた。


『各楽器で若干、テンポ感が違うように聞こえました。要確認』

『強奏になったときに響きがイタい』

『各人でサウンド感がバラバラになる部分があったのが残念です』

『細かい部分がもごもごして聞こえます。もっとはっきりと!』


「な……なんですかこれ、なんですかこれ!?」

「……さすが、点数が低いだけあります」


 部長が全ての講評用紙を何度も必死に確認するのを、鍵太郎は静かな眼差しで見守った。

 中には肯定的な記述もあったが、大半は痛いところを突いてくるものだ。

 けど、なんとなく『そうだろうな』と納得する部分もあって――やはり自分たちのやってきたことは、全て演奏に出るんだなと改めて鍵太郎は思っていた。

 結論は、部長自身の手で出させるしかない。

 この勝負の提案をしたバスクラリネットの三年生、高久広美はそう言っていたが――やはりそれは予言者じみたあの先輩の言うとおり、真実となったのだ。

 講評用紙を握って震える部長に向かって、鍵太郎は声をかける。


「だから先輩、もう止めましょう。このままじゃ本選で金賞なんて、とても――」

「ま……まだです!」


 しかし彼女は、がばりと顔をあげてさらに食い下がった。


「打楽器の分離はセッティングで解決します、テンポ感はさらに本選に向けて追い込みをかけることで変わっていきます! コンクールで金賞を取るにはつらい練習でも耐えていかねばなりません、それが上達への道というものです!」

「……先輩」


 けわしい顔で自分に向かって怒鳴る優を、鍵太郎は見つめ返した。

 アイツはただ、真剣にクソ真面目なだけなんだよ――そう言っていた卒業した先輩の声が、脳裏をよぎる。

 誰よりも真剣で、それがゆえに部長になったのだろう彼女は。

 だからこそ後輩からの理解を得られないまま、自分の理想を抱え込んでいた。


「こんな結果になったのも、みんなちゃんと練習してないからです! もっと気合いを入れて取り掛かればまた違います、本選に行くにあたっては、今までよりもっと厳しい練習を――!」

「――優」


 そこで部長に声をかけたのは、今までずっとずっとこの状況を見ているだけだった――


「認めましょう。これは、わたしたちの負け」

「まやか……っ!?」


『静かなるタカ派』、関掘まやかだった。



###



「確かに、予選は通過したわ。けれどこれは『いい結果』じゃない。そこは認めるべき」

「だけど……!」


 大切なのは、今度の本番でいい演奏ができるかどうかだけ――そう言っていた彼女は、この結果になにを見たのか。

 しかしこの先輩がこう言ったということは、少なくともこちらの味方をしてくれるということで、間違いはなさそうだった。

 部内屈指の実力者にして、部長の最大の理解者。

 そのまやかがこちら側に回ったことで、事態は大きく動く。


「予選は通過したじゃないですか……! 勝負は勝負でルールが決まっているのです、だったら私の勝ちのはずです! 今更なにを言ったところで、それは負け惜しみにしかなりません!」

「……よく思い出して、優」


 どんな結果が出ようとも、受け止める覚悟はできている――今朝、鍵太郎にそう言った彼女は。

 部長に向かってただ事実を、淡々と述べる。


「あのとき広美は、『予選を通過したら』なんて一言も言ってないのよ。『いい結果が出たら』と言っただけで」

「な……っ」


 単なる日本語のレトリック、と言ってしまえばそうだが。

 あのときあのおっさん女子高生は、おそらくここまで読んで勝負の条件を出したのだ。

 そう思って鍵太郎が広美を見れば、彼女はいつも通りニヤリと笑って、肩をすくめてきた。なにが『部長を見捨てればいい』だ。あんた全然、見捨てる気なんてなかったろう。

 先読みが得意なこの先輩らしい、これは周りがどう動くかを計算して仕掛けた罠のようなものだった。

 思い込んでいたルール自体の改変。

 そしてそこを理解してあえて結果が出るまで待ったという――部長にしてみれば、明確な『裏切り』行為をした副部長の存在。

 今までだったら、こちらの言うことに優は耳を貸さなかったはずだ。

 だがこの状況が、周りの人々の言葉が――

 衝撃となって、部長の態度を崩していた。


「ひょっ……として、まやか、あのとき分かっててこの勝負に乗ったんですか……?」

「……ええ」


 関掘まやかは、演奏のことになると容赦しない。

 相手が後輩だろうが友人だろうが、そのひたすらな努力の姿勢で磨いてきたものを示し、圧倒する。

 かつてそれを味わったことがある鍵太郎だからこそ、彼女がここでうなずいたことの重さはよくわかった。


「点数にしても、『彼』が一年生をつなぎとめてくれていなかったら、どうなっていたかわからない。演奏自体がもっとバラバラになって、最悪予選を突破できなかった可能性すらある」

「で、でも、それは……」


 信じていたものを覆されて、部長の視線がさまよう。

 けど誰も、そんな彼女に手を差し伸べることはない。

 成果だけを見てきた部長は、それ以外はなにも持っていないから。

 このやり方で結果が出ないとなれば、それで部長についてきていた三年生は、他の方法を探すことになる。

 誰よりも一緒に吹いてくれる誰かを待っていたこの孤独な姫も、既に外の世界を歩き出していて。

 そしてそれは、この小さな部長も――


「そ、そんなのは、ズルいです、ルール違反です……! みんな私の言うことを聞くって言ったのに、聞いてなかったってことじゃないですか……!」

「――優」

「それは卑怯です、おかしいです……! そんなんじゃ後からいくらでも文句はつけられるのに。最初から騙すつもりで……!」

「優!」

「……う」


 そんな、副部長の叱咤に。

 部長はびくりと震え、助けを求めるかのように周囲を見回す。

 けれどもやはり、そこには誰もいない。


「う、うう……っ!?」


 今まで味方をしてくれていた友人も。同い年で協力し合うべきだった仲間も。

 指導していくべきだった後輩も。

 目指してきた目標も。

 そしてあるいは――去年まで自分を守ってくれていた先輩も。


「うぅううううー……っ!?」


 全部を切り捨てたが故に、全部を失って――

 ぼろぼろと大粒の涙をこぼし、貝島優はその場に崩れ落ちた。



###



「なんでですか……なんでみんな、私の言うこと聞いてくれないんですか……」

「……」


 泣き続ける部長を、鍵太郎は静かに見つめていた。

 その終わり方は自業自得で、一分の隙もなく因果応報。

 そう言った広美の言うとおり、結局、去年の自分と同じことになってしまった。


「……つらくったって、楽しくなくたって、金賞を取るためには我慢して練習するしかないんです。そうしないと上手くなんてならない。そうじゃなきゃ金賞なんて取れはしないんです……! なのに、なんで……」

「……」


 しゃくりあげながら自分の思いを語る優に、鍵太郎はこれまで、この先輩と一緒に過ごした時間のことを思い出していた。

 新しいチャイムを前にして、子どものようにはしゃいでいた優。

 あるいは楽器には見えないあの金属板を、どれが一番いい音がするかと目を輝かせて選んでいた、この人は――


「……ああ」


 そこで、鍵太郎は気づいた。

 他人の意見を認めない、息苦しい音がすると言われていた彼女ではあるが。

 ずっとずっと、我慢してきたのは――


「……一番『息を止めて』たのは、先輩だったんですね」


 自分が楽しいことは全部押し込めて、ただ金賞のために突き進んできた部長。

 真面目で責任感が強すぎて、どんなに苦しくても自分の音でさえ押し込めていた。

 だったらそんな彼女には――訊いておきたいことがある。



「じゃあ、先輩」



 教科書にはない答え。

 誰がための音楽。

 自分の弱点を裏返して、『道』を切り開くための『武器』。

 『手を取り合う覚悟』。

 どんなことになってもいいから、最後は笑うために――



「これから先輩は――どうしたいですか?」



 これまで歩んできた、その全てをひっくるめて。

 鍵太郎は、泣き続ける小さな部長に手を差し伸べた。


 そこは人でごった返していた、コンクール会場の外。

 気がつけばここはもう――夏独特の湿った暑さに包まれている。


第11幕 レジスタンス〜了

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