第158話 きみの歩いてきた道を
一年前のこの日は、こうなるなんて予想もしていなかった。
譜面台の上に楽譜を広げながら、
吹奏楽コンクール、県予選会の本番。
その舞台では今、演奏に向けての準備が進められている。イスと譜面台を各部員がセッティングし、静かながらも慌しい雰囲気に包まれていた。
去年はこの譜面台がなかなか届かなくて、散々な目にあったものだ。
そのときのことを思い出して、鍵太郎は苦笑した。
今年はちゃんと、手元にそれは届いている。
全員の準備が大まかに整って、舞台の照明が一気に明るくなった。学校名と曲名がアナウンスされ、指揮者の先生が客席に向かって礼をする。
そこで鍵太郎は、誰にも聞かれないくらいの声でつぶやいた。
「……俺の歩いてきた『道』」
そこには本当に、色々あった。
笑ったことも泣いたことも、成功したことも失敗したことも、たくさんあった。
その道を示せばいい、そう教えてくれた先生は。
その場の全員を見渡して。
構えた指揮棒を――振り下ろした。
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最初は、薄暗い闇に包まれていた。
それはぼんやりとした不安のようなもので、自分はその中で、かすかに見えるキラキラしたものを頼りに進んでいた。
なにかが間違っていることはわかっていて、けれどそれがわからなくて、こっちに行けばいいんじゃないかと思ってそのまま追いかけ続けていた。
周囲がざわつき始める。さざめくようなそれは、段々と大きくなる。
その流れは焦るように少しだけ速くて、こちらを急き立てようとしているようだった。それから逃げたくて、でも逃げられなくて、自分の中のテンポが少しずつ狂い始める。
上滑りしていく演奏の中で、上空にひとつ、真っ直ぐ伸びていく光を見つけた。
それを必死になって追いかけ始めたとき、もう既に戦いは始まっていたのかもしれない。
強く、響く、音を出す。
全員に聞こえるように、確かな声で。
祈りと願いを込め、光のはるか下の大地を揺るがす。この一瞬でいい、耳を傾けてほしい。天高く飛んでいくあの光を、ほんの少しだけ見てほしい。
湧き上がるようにホルンが鳴き、応えるように煌きが増した。
ありがとう――そう心の中であの切れ長の目のホルン吹きに言って、鍵太郎はさらに深く踏み込んだ。
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徐々に遠ざかっていくその煌きと入れ替わるように、再び不安がやってくる。
二拍三連。後輩になんですかと訊かれ、先輩に教えてもらったそれ。
音楽は感覚だけでは駄目だと言われて、他になにかを探して来いと言われた。違う先輩にとってそれは『テンポ通りに吹くこと』だったり、『厳しく練習すること』だったりした。
それもまあ、わからないではなかった。
けれど、それだけではない気もした。
安定しない不協和音の中、緊張と不満が積み重なっていく。
それをなんとかしないとと思って、足りないなにかを探しに出かけた。自分が知らなかった世界には、自分の知らないものがたくさんあった。
強豪校の連中と話した。彼らから言われたものはどれも新鮮で、驚くようなことばかりだった。
気弱なチューバ吹きと出会った。彼の言うことは、麻痺しかけていた心から大切なものを思い出させてくれた。
その他にも自分に、色んなことを言っていく人たちがいた。そんなこと気にしないで楽しくやればいいという人や、怒られないために練習すればいいと言った人。逆に結果のためには、犠牲が出るのもしょうがないという人もいた。
でもやはり、そのどれもがどこか違うように思えた。
自分がやりたいことはその全部と重なっていて、そのどれとも一緒ではないような気がした。じゃあどうすればいいのだろうと思って、そのうちわからなくなってきて、隙間を全部自分で作ったもので埋めてしまおうとした。
そうしたらそれも違うのだと、卒業した先輩から殴られた。
いや別に実際に殴られたわけじゃないけど、気持ちとしてはそんな感じで、でもそうなのだろうと思えた。
だからそこから先は開き直って、人に助けを求めることにした。自分のやろうとしていることは自分だけでは手が足りず、同い年たちの力を借りなければ到底できそうもないことだと、身に染みてわかったからだ。
バラバラだった音たちが重なって、ひとつの
『民衆を導く自由の女神』を呼び出すための、自分たちが作り上げるハーモニー。
状況が状況だったためそれは部長に対する反感を含んでいて、とても神様なんて呼べたものではなかったけれど――それでもこれはいくらきつくても荒くても、自分たちにとって必要なものだった。
それを抱えて突き進む。
その先になにがあるかは、わからなかった。
けれど何人かは、自分の味方をしてくれた。トランペットのあの地味な先輩と、一緒に動く。
バリトンサックスはいつも、自分とともに。
トロンボーンの力を借りて前に行ける。その隙間でちらりと光ってすぐ消えたフルートは、あの先輩の音だろうか。あの人はこの演奏の先に、なにを見てくれるのだろう。
それぞれがそれぞれの音を出し、最後は全員が同じ動きをして、また弾けた。
この争いの先になにがあるのか、まだ答えは出ていない。
あるのは自分が今、なにをしたいかだけ。
それは願わくば――最後には笑っていられるように、という。
部長も後輩も、みながこの舞台にいられるようにという――どこまでも、自分の考えることはそれだけだった。
子どもじみた理想であることは重々承知している。
それがどれほど大変なことか、ここ最近で嫌と言うほど思い知っている。
けれどそれは――次のたった八小節だけに込められた、希望だった。
そしてユーフォニアムのソロが。
その伴奏が。
辺りを明るく、やわらかく照らし出した。
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女神のテーマ――
そのふくよかな旋律に少しだけのおかしさと、そして安心と、幸せを感じつつ。
鍵太郎はそれを聞いていた。本番では、あっという間のそのフレーズだ。
しかしその後はそれをクラリネットが引き継いで、さらにその動きは広がっていく。吹く楽器が増えて、色を変え形を変え、繰り返していく。
おそらくもう、演奏の採点自体は終わっているのだろう。
ただこの瓦礫の中に、確かに一輪の花が咲いていることだけは知ってほしかった。
どんなことになろうともここにはそれがあり、決して枯れることなどないということは覚えていてほしかった。
ボロボロの自分が見つけたそれを背に、最後の盛り上がりを再び強く、はっきりと出す。
こんな演奏ができればいいな、と思っていた。
上からこだましてくる流れに応えて、楽器に息を吹き込む。そして自分が伸ばしているときにはまた、誰かがなにかをやっている。
自分でやりたかったけれど、でもひとりではできなくて。
それでも精一杯吹いたときに、気づけばそれは出来上がっていた。
全員の一番下から、分厚く支える音を出し。
鍵太郎は、その響きの中に全部をぶち込んだ。
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「これで予選を通ったら、どうなるんですか?」
演奏が終わって、結果発表を待つ客席で。
鍵太郎の隣で一年生の
部長と副部長は講評用紙を受け取るため、既に舞台に向かっている。
客席にいるのはそれ以外の面子だ。
朝実をはじめ、一年生たちは複雑な表情をしていた。とりあえず予選が終わった開放感と、この後の結末に対する不安が混じって、ほとんどの部員が客席にぐったり沈み込んでいる。
そしてそんな後輩に向かって、打楽器担当で二年生の越戸ゆかりが言った。
「なんかあの鬼軍曹、予選通ったら金賞を取るのに邪魔だから野球応援も行かないし、千羽鶴も折らないって言ってたけど」
「遊び心がなさすぎるよねー。どんだけ切り捨てれば気が済むんだろ」
「いや貝島先輩だって別に、遊び心がないわけじゃないだろ……」
ゆかりの双子の妹であるみのりもそう言ってきたので、鍵太郎は苦い顔で二人に突っ込んだ。
あの部長だってあまり知られてないだけで、そうでない面もある。
嬉しそうにチャイムを叩いたり、どの楽器が一番いい音が出るか目を輝かせて試していたこともあるのだ。
だがそれを知らない朝実は、頬を膨らませて唇を尖らせる。
「貝島先輩は上手いから、できない人の気持ちがわからないのです」
「宮本さん、それは……」
「むー! あーもう、早く結果が知りたーい!」
鍵太郎の言葉をさえぎって、朝実がバタバタと暴れだした。
そんな彼女の叫びに答えるように、閉会式と結果発表を始める旨のアナウンスが流れる。
それから閉会式が始まったのだが――どの学校も閉会のあいさつや審査員の講評を聞き流し、結果を今か今かと待っている様子だった。
「……」
それは去年と同じ光景で、鍵太郎はじっと、そのホールの中の雰囲気を見つめていた。
やがて、学校ごとの結果が読み上げられ始める。
演奏が早い学校から先に、歓声や落胆の声があがっていった。自分たちはどうなるんだろう――段々と早くなってくる鼓動とともに、鍵太郎は静かに『その時』を待つ。
そして。
『川連第二高校吹奏楽部――予選通過』
『……っ!?』
自分たちの学校の名前が呼ばれて、周りから喚声のような、悲鳴のような声があがった。
そこで、鍵太郎は覚悟を決めた。
これで、この先の『道』は開かれた。
あとはこの結果に――誰が、なにを見出すかだ。
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