第157話 この勝負の先にあるもの

「この勝負の先にあるのは、いったいなんなんだろうね」


 県大会の予選会場に着いて、指定された楽器置き場に荷物を運びつつ。

 宝木咲耶たからぎさくやは、湊鍵太郎みなとけんたろうにそう口にしてきた。


「内輪揉めしている場合じゃない。こんなときこそ私たちは争いを止めて協力しなくちゃならないのに、どうしてそうはならないんだろう? このままじゃ、どっちに転んだとしてもあまりいい結末になるとは思えないのに」

「……宝木さん」


 珍しく、いつもの柔和な表情を曇らせている咲耶に、鍵太郎は苦渋の眼差しを向けた。

 『コンクールの予選会まで後輩は部長の言う通りに練習し、それで結果が出たら本選までそのやり方を続ける。そうでなかったら部長は後輩の言うことを聞く』――

 それが、今この部活で行われている勝負の内容だった。

 咲耶の言うとおり、どちらが勝っても負けても、全体で見ればこれはあまり建設的ではない。

 ここで賭けられているのは、お互いの未来なのだから。

 そう思ってちらりと、鍵太郎は咲耶と同じ楽器の一年生を見る。

 重い前髪を垂らした彼女は、相変わらずうつむき気味で人に隠れるように歩いていた。

 一週間前に吹けないことで部長にひどく叱責された彼女は、それ以来、こちらが話しかけても逃げてしまうようになっている。

 それでも部活には来ているだけ大したものだと思うが、この後輩も今日の結果次第では、どうなってしまうかわからない。

 その周囲の、楽器を運ぶ他の一年生の顔色も似たようなものだ。

 それを見渡して、鍵太郎は改めて告げる。


「……一年生たちはこのまま予選を通過したら、今度こそ部活が嫌になって辞めるかもしれない」

「……そうだね」

「だからって、後輩を守るために本番で手を抜くなんてことはできない。そんなことをしても、もっと虚しくなるだけだ」

「……そう、なんだよね」


 成果を取るか、後輩を取るか。

 そんな二択を望まず突きつけられて、自分たちはこんなに苦しんでいるのだ。

 咲耶はひとつ、ため息をついて言う。


「……所詮この世は諸行無常、なのかもしれない。けれどこの争いは、あまりに救いがなさすぎるよ。

 私たちがやりたかったのは、こういうことじゃないはずなのに。ならこれから、どうすればいいんだろう……?」

「……宝木さん」


 家が寺であるこの同い年は、これまでどこか達観したところがあると思っていたが。

 しかし今は、それ以外の価値観が彼女を動かしているようだった。

 今回は直接の後輩がいるだけに、咲耶は特に心を痛めているらしい。なんとか違う方法を見つけられないか。この状況でもまだ、彼女はそう考えているようだ。

 そしてそれは、こちらも同じだ。

 なので鍵太郎は、咲耶の言葉を繰り返した。


「……俺たちのやりたかったこと、か」


 自分にとってそれは、一週間前のあの日に垣間見えた『女神』であったり、その前に同い年と話し合った『作戦』のことであったりした。

 あのときの気持ちが、今は限りなく小さく扱われているように思える。

 ならこれから、どうすればいいか。

 自分たちができることは、なんなのか――そう考えて。

 鍵太郎は、楽器置き場のある二階へと続く階段を見上げて、言った。


「……俺たちに、なにができるかはわからないけど」

「……」

「それでも結局は最後まで、やろうと思ったことをやるしかないんだろうな、と思う」

「……うん」


 同じく階段を見上げて、咲耶はうなずく。

 楽器置き場はこの階段を上ったところにある。

 ここを踏ん張れば、もうすぐだ。相変わらずバカでかい自分の楽器を持ち上げ、鍵太郎は階段を上り始めた。今回はトラックでの移動だったため、ソフトケースでなくハードケースだ。重いし運びにくいことこの上ない。

 ひいこら言いながら運んでいると、隣で咲耶が言ってきた。


「……湊くん。私も運ぶの、手伝おうか?」



###



 楽器置き場に荷物を置いて飲み物を買いに行ったら、同い年の千渡光莉せんどひかりもそこにいた。


「……なによ」

「なによって、俺もなんか買いに来たんだよ」


 エアコンが効いた会場内とはいえ、今は七月である。楽器運びで汗をかいた分を補給するため、鍵太郎は自動販売機でスポーツドリンクを買った。光莉も既にレモン味のスポーツドリンクを買っている。

 二人で並んでがぶがぶとそれを飲み、ひと息ついて――

 鍵太郎は、光莉に訊いた。


「……なあ、千渡。おまえは正直どう思う?」

「……どうって」

「この勝負の先に、なにがあるかって話だよ」

「……そのこと」


 光莉はそう言って、考えるように少しうつむいた。

 彼女は咲耶ともまた、違う感性を持っているはずだった。

 強豪中学出身という、触れてきた考え方の違いもある。だからこそこれまでも、部長に近い立場を取っていて――光莉の言葉は、これから結果が出た後に部長と話し合うための、いい材料になるはずなのだ。

 なので忌憚なく、思ったことを言ってほしい。

 鍵太郎がそう思っていると、彼女はふと顔を上げ「……ここ一週間のことからして、正直に、この先のことを言うなら」と言ってくる。


「来年は、少数精鋭でやるっていう考え方もあるわ。十人前後の演奏で、東関東大会に行った例もないではない。一年生には悪いけど、これで辞めるようならそれまで、っていう考え方もある」

「……そうか」

「話を聞いたら、川連二高の吹奏楽部は創部以来これまで一回も金賞を取ったことがないっていうじゃない。いっつも銀賞の上の方止まりで――だから、そういうのを変えていきたいっていう貝島先輩の気持ちも、わかるのよ」

「……まあな」


 もし知らない誰かに「川連二高? ああ、あの万年銀賞の学校ね」などと言われたら、鍵太郎だって腹が立つ。

 なので、光莉の言うこともわからないではなかった。志が中途半端な人間が多くいたところで、成果を出すのは難しい。

 結果的に残ったメンバーでやればいい。

 それも、ひとつの選択肢ではあった。

 自分たちの今の演奏を考えるに、予選を突破できるかどうかは五分五分といったところだが――もし本選に行けることになって、そこで話し合っても部長の意思が曲がらないのであれば、この勝負はおそらくそこに決着するのだろう。

 光莉の言うとおり部員は減って、でも部活自体は続いていく。

 それはそれで、お先真っ暗ということでもないのかもしれなかった。

 今日は最後まで自分たちがやろうと思ったことをやるつもりだが、こうなったらこうなったで、それは誰かにとっていい未来なのだろう。

 けれど――それは。


「――でも、その『少数精鋭』の中にあんたはいるの?」

「……」


 光莉がそう訊いてきて、鍵太郎はその問いに答えなかった。

 『結果的に残ったメンバー』の中に自分がいるかと言われたら――そんな未来は、あまり想像できなかった。


「……今の雰囲気は、私の中学の時に似てる。だからこれを越えられれば、私は自分のトラウマも乗り越えられるんじゃないかって、そう思ってた。

 けどそうなったときに、もしその場にあんたがいなかったら――それはすご……少し、寂しいなって思った」

「……千渡」

「むう」


 鍵太郎が驚いて光莉を見ると、彼女は顔を赤くして、気まずそうに目を逸らした。

 持っていた飲み物を一口飲んで、こちらの顔を見ないまま光莉は続ける。


「……前はこんなこと考えなかったのよ。私たちはつらいとかつらくないとか、そういうのは関係なしにまず結果を出さなきゃいけないんだと思ってた。けど――ひょっとしたら、それだけじゃないのかなって思った」

「……うん」

「きっとこうなったのは、あんたの影響ね。なんかもう、調子狂うわ」


 責任取りなさいよね――そう言って、光莉は口を尖らせ、やはり一発殴ってきた。


「この勝負の先に、なにがあるかはわからない。けど、私がこう思うようになったっていうのが、今まであんたがやってきたことの、その証明なんだと思う」



###



 リハーサル室で音出しを終え、鍵太郎は大ホールへと向かう。

 しかし打楽器担当の部長は、この中にはいない。

 楽器のサイズ上、打楽器は別口からの搬入になるため、本番のステージ上でようやく顔を合わせることになっているのだ。

 あの先輩は、自分がやろうとしていることを認めてくれるだろうか。

 演奏の不安とこれからの不安がいっぺんに襲ってきて、手が汗で湿ってくるのを鍵太郎は感じていた。

 彼女たちが味方になってくれるとはいえ、心配がないわけではない。

 すべる金属の楽器を持ち直す。何度かそうしているうちに、入場口の前の控え通路に着いた。

 これから時間まで、ここで待機だ。

 上手の楽器ほど先に入場するので、鍵太郎は列の先頭で楽器を下ろした。すぐそこに、外部講師で指揮者ある城山匠しろやまたくみがいる。


「……」


 すべての『正解』を知っているであろう、プロの奏者。

 そんな先生の存在を見て――鍵太郎の脳裏に、ひとつの考えが浮かんだ。


「……先生」


 最後まで、やろうと思ったことを通すつもりでいたが。


「なんだい?」

「相談したいことが、あります」


 それは、予防策と言うべきものだった。

 軽く首を傾げる城山に、鍵太郎は言う。


「もし、貝島先輩が俺たちの言葉で止められなかったら――そのときは先生に、止めてもらってもいいですか」


 そこで鍵太郎は、すべてを話した。

 部活のこと。

 先輩と後輩のこと。

 そして、勝負のこと。

 先生はそれを黙って聞いていた。本番前になにを言っているのかと自分でも思ったが、言わないわけにもいかなかった。

 城山の言葉なら、部長はきっと耳を傾けてくれる。

 この救われない勝負から、全部を救ってくれる――そう思って話し終えたとき、先生は悲しげな顔で言った。


「……残念だけど、それはできない」

「……え」


 どうして。

 期待が大きかっただけに、ショックも大きかった。

 鍵太郎が呆然としていると、城山は続ける。


「演奏からして、なにかがあったんだろうなとは思ってたよ。けど違うんだ。僕がそこに入ってしまうのは違うんだ。

 それをやったら、ここはきみたちのバンドではなくて、僕のバンドになってしまうから」

「……あ」


 去年のことを思い出し、鍵太郎は声をあげた。

 自分たちの学校の誘導係をした、あの強豪校の生徒。

 先生に全部を預けてしまったあの子は――去年の自分の写し鏡だった。

 危うく、また同じ間違いをすることろだった。

 ここで先生に頼ってしまったら、元の木阿弥だ。「……すみません」と鍵太郎が謝ると、城山は静かに首を振った。


「いいんだ。ごめんね、僕も昔、色々あって――みんなの『神様』になってしまうのは、やっぱり遠慮したいんだよね」

「……はい」


 そういえば城山は前に言っていた。「失敗なんてたくさんしてるよ」。そしてそれを超えてきたからこそ、今の自分があるのだとも。

 それは、鍵太郎だって同じだ。


「……きみたちには、きみたちの歩いてきた『道』がある」


『答えは教えてあげられないけれど、そこに至るヒントならいくらでも教えてあげられる』――そう言っていた先生は、ゆっくりとそれを語り出した。


「どんな結果が出ても、僕らはそこで『終わり』じゃない。本番では勝ちも負けも全部飲み込んで、きみが今まで歩いてきた道を、胸を張って示せばいい。そうすればその先に、開ける道だってあるから」


 その『道』になにを見出すかは人それぞれだけど――と、そう言う先生の言葉に、鍵太郎はおそらく一番遠くにいるであろう、あの先輩の姿を思い浮かべていた。

 どんな結果が出ようとも、受け止める覚悟はできている。

 そう言ったあの『静かなるタカ派』は、もしかしたら――

 鍵太郎がそう思ったとき、城山は言った。


「僕は直接そこには関与できないけど、小さな道しるべになることはできる。その上で訊くよ」


 先生はそこで息をひとつ吸って、こちらを見て言ってくる。



「きみは、どうしたい?」



「――!」


 瞬間、声にならない感情があふれてきて、鍵太郎は息を詰まらせた。

 咲耶の、光莉の、それ以外のたくさんの人の――言葉や表情、一緒に過ごした時間がよぎる。

 勝ち負けも利害も関係なく、それは大切なものだった。いくら言葉にしても表しきれないほど、それは悲しくて楽しくて、ずっと続けていきたいものだった。

 それに城山は笑って、うなずいた。


「今きみが思ったことが『答え』だ。だったらそれでいこう」

「はい……っ」


 先生の言葉に、やっとのことで鍵太郎はうなずいた。下手をすると泣きそうで、こらえるのに必死だった。

 前の団体の演奏が終わって、舞台への扉が開く。

 その先にあるのは救われない勝負でも、望まない未来でもない。


「俺は――」


 勝負の先に、自分の道を切り開くため――鍵太郎はその中へ足を踏み入れた。

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