第156話 最後には笑え

『なあみなと。部活って今、どうなってるんだ?』

「えっ」


 卒業した先輩が開口一番にそう言ってきたので、湊鍵太郎みなとけんたろうは思わずぎくりとして身体をすくませた。

 しかし電話ごしなのでその打楽器の先輩、滝田聡司たきたさとしにその動作は伝わらない。

 なので先輩はそのまま、不思議そうに続けてくる。


『こないだ貝島にさ、コンクールの予選会の楽器運び手伝うかって訊いたんだ。そしたらなんか、「自分たちだけでやらないと意味がないから、いいですッ!」とかって断られてさ。なんなのあれ。スゲー剣幕だったんだけど』

「あ、あははは……」


 引きつった笑いを浮かべつつ、鍵太郎は内心ダラダラと冷や汗を垂らしていた。

 言えない――と、卒業した先輩に対して思う。

 まさかここで正直に、『今の部活は上級生と下級生の仲がすごく悪くて、本番直前にも関わらず雰囲気が最悪なんです』――とは、絶対に言えない。

 まして聡司には、今の部長をよろしく頼むと言われたのだ。

 それがこのような状況になって、鍵太郎はどうしたものかと頭を抱えていたところだった。このままではまずいのは自分自身が一番よくわかっている。

 それを聡司にどう言ったらいいものか――そう鍵太郎が言葉を詰まらせていると。

 その沈黙になにかを感じ取ったのか、先輩はゆっくりと言ってくる。


『なあ、湊。別に卒業したオレらは、現役のやつらにどうのこうの言わねえよ。今の部活は、今そこにいるおまえらのもんだからな』

「……はい」

『けど、それでも一個だけ言わせてくれ』


 なんですか――と。

 鍵太郎が知らず知らずうつむいていた顔を上げると、卒業した先輩は言った。


『どんなつらいことになってもいいけどよ、最後には笑え。むしろそれをやってくれれば、オレたちはそれだけでいいんだよ』



###



「最後には笑え、か……」


 コンクール予選会の朝、鍵太郎はトラックの荷台でそのセリフを繰り返していた。

 これから楽器を積み込んで、予選会の会場に向かう。

 どんなことになってもいいから、最後は笑え――

 そう先輩が言うのもわかるのだが、しかし荷台の上から見える部員たちの表情は、笑顔というには程遠いものだった。


「今日で、ようやく終わります……」


 楽器を運びながら、一年生の宮本朝実みやもとあさみがぐったりとした顔で言う。

 この一週間、朝実たち一年生は渋々ながらも部長のしごきに付き合ってきたのだ。

 誰だって本番で間違いたくはないし、できるだけいいものを作りたいという気持ちもある。

 後輩たちだってそうで、別にやる気がないわけではないのだが。

 それでも先輩たちから、『テンポはキープしろ、音程は外すな、ハーモニーを意識しろ、他の楽器とのバランスを考えろ、楽譜の記号どおり吹け』――などと言われ続けながら練習をするのは、あまり気分のいいものではなかった。

 朝実曰く、『お母さんから勉強しなさいってずっと言われてるみたい』ということだったが。

 言いえて妙なだけに、鍵太郎としても後輩の言葉を否定することはできなかった。人間、わかっていることを改めて強制されると、かえってやる気をなくすものである。

 それは二年生の鍵太郎にしても同じだ。

 しかしそれでも本番は本番でやらなければいけないので、なんとか後輩たちをなだめすかしてこの一週間を乗り切ってきた。

 だから鍵太郎は苦笑して、運んだ楽器を渡してくる朝実に、これまでのように言う。


「まあ、そう言わないで宮本さん。今日は最後までちゃんとやろうよ。ね?」

「わかってますよー」


 わかってはいるけど、なんか納得いかないんですよう――そう口を尖らせて、後輩はまた楽器を運ぶため三階の音楽室へ戻っていく。

 彼女の気持ちもわかるだけに、どうしたものかと鍵太郎はその背中を見送っていた。

 すると、今度は同じ二年生の片柳隣花かたやなぎりんかが話しかけてくる。


「なーんか、どこかで思いっきり吹けてないのよね。すごいストレスだわ」

「片柳、おまえもか……」

「わかるでしょ湊、同じ金管吹きとして、このフラストレーション」

「いや、そういう意味でなくてな」


 おまえも俺に愚痴を言いに来たのか、という意味でこちらは言ったのだが。

 とは言っても彼女の言うこともわかるので、鍵太郎は隣花から楽器を受け取った。彼女の言うとおり同じ金管吹きとして思い切り吹けないというのは、かなり鬱積していくことだ。

 これじゃない、これじゃない、と飢えばかりが際立っていく。

 それが原因なのか、元々切れ長である隣花の目つきは、さらに鋭く細まっているように見えた。


「形はできてるけど、肝心なものが抜けてる気がするというか。それで作り込もう作り込もうとすると、かえって作り物っぽくなるというか。なんか吹き足りないのよ。どうすればいいと思う、コレ」

「とりあえず、怒りのまま俺の手を握りこむのは止めてくれるかな。まじ怖いから」

「ちっ」


 相変わらず取って食われそうな気がして、彼女に対しては謎の恐怖を覚える。

 しかし厳しい練習の甲斐あって曲自体はできているにも関わらず、どこかでブレーキがかかっている感じがあるのは鍵太郎もわかっていた。

 それはおそらく、守りに入った吹き方をする部員が多いせいだろうと思う。

 後輩たちのように乗り切れない気持ちや、いい結果を出そうとして間違いを恐れている部分があるせいで、音の着地点がひどく後ろに設定されてしまっているのだ。

 結果的にできているのにできていないような、微妙な演奏になり――それがさらに焦りを生むという、悪循環に陥っていた。

 こちらとしてもそんなものは早く断ち切りたいところだったが、あいにくと今回はそうもいかない理由がある。


「なーんか変だよねー。思いっきり楽器吹いて、それで予選突破! やったね! っていうのが普通のはずなのにさ。なんでこんな難しい話になってるの?」

「うん。まあおまえのは愚痴っていうより、普段どおりだな」


 相変わらずアホの子のわりに、きっちり本質をついてくる浅沼涼子だった。

 苦笑して、彼女が差し出してくる楽器を受け取る。そう、本来ならば彼女の言うとおりやるのが一番いいのだ。

 しかし今の部活は少し、ややこしいことになっていた。

 『予選会まで部員たちは部長のやり方に従い、いい結果が出たら本選まで引き続きそうする。そうでなかったら、部長は後輩の言うことを聞く』――

 それが、一週間前の事件で提示された部員同士の勝負の条件なのだ。

 今考えれば味方同士でなにやってんだという話だが、あのときはあまりに上級生と下級生の対立が激化しすぎて、全員がこれを了承するしかなかった。

 こうしたことがあって現在、後輩たちは思うことがあっても表立って逆らうことはできない状況になっている。

 決まってしまった以上は、嫌でもやるしかない。

 だがやはり、それでも文句のひとつも言いたくなるわけで――みなこうして、せっせと鍵太郎の元に楽器と愚痴を運んできているのだ。


「おーい、湊ー」

「おつかれー」

「今度はなんだあ!」


 そんなときに双子の越戸姉妹が声をかけてきて、鍵太郎は思わずうんざりとした声をあげた。

 部長と同じ打楽器パートである彼女たちには、それこそ言いたいことが山ほどありそうだが。

 トラックの荷台はもうそろそろいっぱいで、これ以上の余裕はない。

 しかし意外にも、彼女たちは不思議そうに顔を見合わせて言ってくる。


「いや、もう積む楽器ないから、今ここにあるやつ全部積んだらトラック閉めてって言いに来たんだけど」

「そしたら、荷物持ってバスに乗れって貝島先輩が」

「え、あ……そうか」


 打ち止めだと聞いて、鍵太郎は変に肩透かしを食らった気分になった。なんだかもう我慢のし通しで、感覚が麻痺してきているようだ。

 そう、いくらなんでも無限にこの状況が続くわけではない。

 それを思い出して、鍵太郎は残りの荷物を手早く積み込もうとした。不安と不満はとりあえず押し込んで、あとは会場に向かうしかない。

 どっちが勝っても負けても、今日で終わる。

 そう思って作業を続けていると――後ろから、きれいな滑舌で声をかけられた。



###



「……準備はできた?」

「……関掘先輩」


 トラックの外に副部長の関堀まやかが立っていて、鍵太郎は表情を硬くして彼女を見返した。

 まやかはその視線には応えず、黙ってこちらを見ている。

 『静かなるタカ派』――

 そんな異名を取るまやかへ、鍵太郎は顔をしかめて言った。


「……先輩は、これでいいんですか」

「……」

「なんであなたは、そうやってずっと見てるだけなんですか」


 一週間前のあの事件でもそうだったが、基本的にこの人は黙っているだけでなにもしない。

 誰よりも演奏にこだわってきたこの先輩は、やはりそのためなら部員を切り捨てる気なのだ。

 ここ一週間のありさまは、こんなにもみなの心を縛っているというのに――と、トラックの荷台で楽器と愚痴に囲まれながら、鍵太郎はまやかをにらんだ。

 せめてこの人が変わってくれれば、状況も変わるというのに。

 そんな思いから出た言葉だったが、やがて彼女は、小さくため息をついて言ってきた。


「……文句を言っている暇があったら、今日の演奏をどうよくするか考えなさい」

「……っ」

「わたしはどんな結果が出ようとも、受け止める覚悟はできている。それが望むものだろうが、望まないものだろうが、今日の演奏に全力を尽くすだけ」

「……先輩」

「……終わったらすぐに準備しなさい」

「……わかりましたよ」


 その返事を聞いて、副部長はそのままトラックの前を立ち去った。

 しばらくその姿を見送って、積み込みを再開する。

 悔しいが、彼女の言葉は正論だ。

 それだけに、いっそうやり場のない気持ちが増す。

 ぎりぎりとその感情と楽器を押し込んで、鍵太郎はトラックの扉を閉めた。

 予選を通過できるかどうかもわからない。

 その先に、どんな未来があるかもわからない。

 しかしどんなつらいことになっても最後は笑えというのなら――今はそうするより、他になかった。

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