第154話 孤独なるパワーハラスメント

 最悪の組み合わせだ、と湊鍵太郎みなとけんたろうはその二人を見て改めて思った。


 吹奏楽部の厳しい部長、貝島優かいじまゆう

 引っ込み思案の一年生、野中恵那のなかえな


 この二人が話して、仲良く笑いあうなんて未来なんて全く想像できなかった。

 むしろ、その逆だ。これから展開されるであろう光景に、鍵太郎は総毛立った。

 合奏が終わって、恵那は座って休んでいたところだったらしい。

 そんな彼女を見下ろして、部長は言う。


「なにを休んでいるんですか。あなたにそんな時間はないはずですよ」

「……っ」


 冷たい目で見下ろされて、恵那がガタガタと震えながら声にならない悲鳴を発した。

 ただでさえ臆病な後輩なのだ。優に真正面から怒鳴られたら、どうなってしまうかわからない。

 だが鍵太郎は、その場から動けずにいた。

 ここで優を説得できるだけの材料が、まだそろっていないのだ。

 『きたかぜとたいよう作戦』は始まったばかりで、効果を確認して広めようとしたばかりだ。いま二人の間に割って入っても、勝ち目がないのは明らかだった。

 まだ状況が整っていない。

 けれど、そこでは後輩が――


「さっきの合奏であなたの音が聞こえました。まだ全然できてないじゃないですか。もうすぐコンクールの予選だというのに、やる気がないんですか」

「ち、ちがい、ます……」

「違うと言うのなら、なぜできるように努力しないんですか。そんなことで金賞が取れると思っているのですか」

「う、うぅ……っ」


 淡々と責められて、口を震わせて顔面を蒼白にしている。立場的にも性格的にも、恵那が優に強く出られるはずがない。

 しかも音楽室のど真ん中でやり取りが行われていて、それを部員全員が注視している。

 その状況が、後輩を余計パニックに陥らせているようだった。どこにも隠れる場所などない。

 まして、逃がしてくれる相手でもない。このままじゃだめだ、と鍵太郎は思った。

 放っておいたら彼女が潰される。

 勝算などと言う前に、まずあれを止めないといけない。

 そう考えて鍵太郎が飛び出そうとしたとき、横から意外な人物に制止された。


「まだダメだよ、湊っち」

「先輩……っ!」


 優と同じ三年生の、高久広美だ。

 この先輩に止められるとは思わなかった。どんな深慮遠謀があるかは知らないが、この人はこの状況を見過ごすような人ではないはずだった。

 説明を求めて鍵太郎が広美をにらみつけると、先輩はそれを肩をすくめて受け流しつつ、冷静に言ってくる。


「落ち着きなさい。今きみがあそこに行って、なにができるの? 勢いだけで止められるほど、優は甘い子じゃないよ」

「だからって、だからって……っ!」

「『低音楽器は、常に楽団バンドの中で一番クールじゃなくちゃいけない』。去年そう言ったでしょ。今はまだ動く時じゃないよ」

「だって……!」


 広美の言いたいこともわかるのだ。

 確かに今あそこに割って入って優に挑んだとしても、どうにかなるとは思えない。

 そしてそれをこの場の部員全員に見られたら、今度こそ再起は望めない。みなが部長におびえて、誰も逆らおうとはしなくなる。

 それはわかっているのだ。

 去年、広美にコンクールの会場で言われたことは、正しいと思い知っていた。もはや懐かしさすら感じるこの先輩のセリフは、鍵太郎の動きを止めるには十分だった。

 あの場で冷静さをなくしたから、後になって死ぬほど後悔したのだ。

 連座してそのことも思い出して、それ以上進めなくなる。ぎりぎりと歯を鳴らして悔しさに目を見開くと、その次の光景が飛び込んできた。


「じゃあ、吹いてみなさい。やる気があるんだったら、この場でそれを見せてください」

「う……」


 優の指示に、恵那が震えながら自分の楽器を持った。

 彼女が吹くのは女神のテーマ――コンクールでやる曲の、彼女が担当しているフレーズだ。

 だが、うまく吹けない。


「……っ。……っ!」


 あごが震えて楽器を噛めない。

 身体がこわばって指がうまく回らない。

 部員全員の監視の下で恵那が吹いたメロディーは、誰がどう聞いてもできているとは言えないものだった。

 痛々しくて聞いていられない。

 でも鍵太郎は耳を塞げなかった。それは自分が、かつて似たようなことをされたからだ。

 あのときはこんなに大勢の前ではなく、ただひとりの先輩に覗き込まれてだったが――

 その関堀まやかを見ると、彼女はあのときと同じように優と恵那のやり取りを、じっと眺めているだけだった。

 これを正面きって止められるのは、副部長であり、優の最大の理解者でもある彼女ぐらいなのだが。

 しかしまやかに、後輩を助ける様子はない。

 突き放すだけ突き放して、這い上がってくるのを黙って見てるだけ。

 『切り捨てる覚悟』だ――。『静かなるタカ派』のあのときと同じ眼差しに、鍵太郎は当時の自分のことを思い出していた。

 優と恵那のやりとりは、あのときのまやかと自分を彷彿とさせるものだった。

 できないということだけ見れば、確かに恵那にも落ち度はあるのだ。

 吹けないのは彼女の責任でもある。

 こうなる前に自分で気づいて、修正する時間はいくらでもあったはずだ。

 なのに、やろうとしなかった。

 正しいことを思っていてもいつも人に隠れてばかりで、本番になると恐怖ばかりが先に立つ。

 それで結局、なにもできない。

 今の恵那は鍵太郎にとってまるで、去年の自分を見ているようだった。

 あのときの自分は、思い返すと自分で自分を殴りたくなるくらい甘ったれだった。だから今の彼女は自業自得で、救う価値などありはしないのだ。

 それはわかっていた。

 むしろあれを越えてきた鍵太郎だからこそ、あれがあって今の自分があるのがわかっていた。

 だけど――


「だからって、これはないだろう……!?」


 自分のときとは違うこの状況を見渡して、鍵太郎はうなり声をあげた。

 部員全員から見られているこれは、ほとんどつるし上げだ。

 一年生も二年生も三年生も、固唾を呑んで行く末を見つめている。

 恵那が吹けていないことによってどうなるのか、部長の反応を待っている。

 そんな中で――


「吹けてないではないですか」

「……」


 優は口を開いた。恵那はなにも言わない。


「吹けてないならやはり、休んでる暇などないはずですが」

「……」


 部長の言葉に、後輩は黙り続けるだけだった。というより、おそらくなにも言えないのだ。

 なにを言っても、怒鳴られる気しかしなくなっている。

 「ごめんなさい」も「ちゃんとやります」も。

 口にした途端否定される気がして、どこにも動けなくなっている。

 そんな恵那を見て、優はため息をついた。


「……わかりました。もういいです」

「……!」

「先輩……」


 なんとか、これでいったん収まるのか。

 鍵太郎はそう思ったが、そうではなかった。

 部長は恵那に向かって、刃を振り下ろした。



「本番ではあなたはそこを、吹くふりをしなさい」



「――!」


 鍵太郎には、後輩が目をいっぱいに見開くのが見えた。

 しかし優はそこで止めなかった。そのまま続けてくる。


「できてない人に吹かせるわけにはいきません。コンクールで金賞を取るのに、あなたのような人に足を引っ張られるわけにはいきません」

「――ぅ、う」


 恵那の押し殺した悲鳴が聞こえる。


「あなたはもう、そこの練習はしなくていいです。もう結構です。あなたのひとりのために危険は冒せませんから」

「――っく。う、うぅ……っ!?」


 切り捨てる覚悟。

 関掘まやかは、それを部長が持っていると言った。


「泣いたところでどうにもなりませんよ。コンクールは点数勝負です。それを取るために、リスクは削らなくては」


 後輩が『リスク』。

 できないなら確かに、それは仕方ないのかもしれなかった。


「できないならできないで、せめて自分なりに頭を働かせて吹きなさい。やる気がないなら吹かなくて結構。私たちは金賞を取るために一生懸命やってるんです、それをあなたみたいな人に邪魔されたくないんですよ!」


 『邪魔』――

 その言葉に一年生たちが、殺気めいた怒気を膨れ上がらせるのが鍵太郎にはわかった。

 これ以上後輩たちが反感を抱けば、学年間の亀裂は決定的となる。

 そうなれば、なにをどうしたとしても修復は不可能だ。まずい、と鍵太郎は思った。もう行かないと、この先どころの話ではない。

 なにを言っても切り返される気しかしないが、それでも――

 そう思って鍵太郎が震える足を踏み出しかけたとき。



「――恵那ちゃん!」



 恵那と同じ、一年生の宮本朝実みやもとあさみが。

 鍵太郎の脇を通り抜け、部長と恵那の元に駆けていった。


「……!?」


 それに鍵太郎は絶句した。

 彼女に勝算なんてあるはずがない。そんなこと考えているとも思えない。

 それを、愚かだという人間もいるかもしれないが――



「――ちくしょおっ!!」



 ただ、それでも友達を助けるために走ったその『自由の女神』を。


 絶対に追いかけるべきだと感じて、鍵太郎はただ一直線に走り出した。

 朝実のぶっとい三つ編みは、申し訳ないが掴みやすかった。


###


 文句は後でいくらでも聞く――そう覚悟して、飛び出した後輩を勢いよく後ろに放り投げる。

 彼女と入れ替わるようにしてその場に躍り出れば、恵那は驚いたように自分を見つめてきた。

 だがもう、話しかけている時間もない。

 部長との間に割って入り、彼女をかばうようにして立つ。

 そして――

 鍵太郎はあのとき以来再び、優と真正面から対峙することになった。


###


 大きく息を吸って、鍵太郎は部長に言う。


「先輩……もう、やめましょう」

「――なにをやめろと言うんですか。湊くん」


 少し驚いた顔をしたものの、優はすぐに表面上の平静を取り戻した。

 四月に二人で話したときより、表情が荒んでいるように見える。

 あのとき彼女が言っていた計画が、思ったようには進んでいないからだ。

 その苛立ちをなんとか内に押さえ込んで、口調までもが冷えている――そんな印象だった。

 こちらも、いつ爆発してもおかしくない。

 そんな部長に胃を締め付けられるような圧迫感を覚えつつも、鍵太郎は口を開いた。


「先輩、こんな風に後輩を追い詰めるのは、もうやめましょう。これ以上はもう無理です。金賞どころの話じゃない。みんな楽器を吹けなくなる」

「こんな程度でなにを言っているのですか。あなただって越えてきた道でしょう」

「あれは結果論です。それで俺が去年どうなったか、あんた知ってるでしょう……!?」


 あのときの光景が強烈にフラッシュバックしてきて、鍵太郎は優をにらみつけた。

 自分はあのときそのまま、楽器を投げ捨ててもおかしくなかったのだ。

 今自分がここにいるのは単なる偶然にすぎなくて、あのときはいろいろな人に声をかけてもらって、ようやく踏みとどまることができたようなものだった。

 今回もそうなるとは限らない。

 ましてやこの衆人環視の中で切り捨てられたら、その後に声をかけられたとしても誰が信用できるかという話だ。

 朝実や自分は違うかもしれないが、それだけでは到底足りない。

 みな、自分のことを守るので精一杯だ。

 なら絶対ここで、優を止めなければならないのだ。そのために部長に気持ちで負けないくらい、もっと強い怒りを――鍵太郎が思ったところで。



「はーい、そこまで」



 この緊迫した空気の中、手を叩きながら飄々と高久広美が入ってきた。

 いったい今までのどこに、彼女の言う『動く時』があったというのか。

 鍵太郎がそう思って広美を見れば、先輩はこの状況でもいつものように、ニヤリと笑ってみせてきた。

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