第153話 民衆を導くぽっちゃり女神

 湊鍵太郎みなとけんたろうが音楽室に戻ると、先輩の今泉智恵いまいずみともえは普通に合奏の準備をしていた。


「あ、おかえり湊くん」

「……ただいまです」


 なんか予定と違うなあ――と思いつつ、鍵太郎は先輩にそう返した。

 今日の部活が始まったとき、智恵はソロの練習をすると言って、音楽室の小部屋に引きこもったのだ。

 そしてそんな彼女を呼び戻すために、鍵太郎たちは先ほどまで別室でそのソロの伴奏を練習していた。

 それがなかなか上手くいったので、出てきてください一緒にやりましょう――と言うつもりだったのだが。

 その前にあっさり智恵が出てきていたので、なんだかちょっと肩透かしを食らった気分になった。

 しかしまあそうだよね、合奏するって言われたら普通に出てくるよね、と鍵太郎はのほほんと準備をする、ユーフォニアムのちょっとぽっちゃりした先輩を見て思う。そう、別にいいのだ。陰の努力はひけらかすものではない。

 そう考えて気を取り直すことにする。それに今から合奏するのだから、智恵にも周りがよくなったことはわかってもらえるだろう。

 民衆を導く自由の女神。

 その女神のテーマを吹く智恵が、より輝くための伴奏なのだから。

 裏方は主張しなくてもいいのだ。まあ、さすがに「いやあ、実は先輩を助けたくて伴奏の練習をしたんですよ」くらいは言ってもいいんじゃないかと思ったりするのだが。

 それはこの合奏が終わった後だ。まずは智恵にも他の部員にも、先ほどの練習の成果を知らしめなければならない。



###



 先ほどのパート練習で、鍵太郎は今までとは違う視点での試みを行っていた。

 部員同士で曲のイメージをそろえる。

 それは当たり前のようで、実はこれまであまりやってこなかったことだった。

 どことなくぎこちない部員たちの動きを横目で見つつ、鍵太郎は譜面台を立てる。技術がどうのこうの言う前に、まずやっている人間の心をそろえようという話だ。

 そしてやり方も、部長のように無理やり統一するようなことはしなかった。話し合いでひとりひとり、曲への感じ方をすり合わせていったのだ。

 そのぶん時間がかかり、智恵のソロがある八小節しか練習はできなかったが――しかし、それは予想以上の効果を発揮した。

 それまでどうにもバラバラだった音が、ひとつにまとまって聞こえるようになったのだ。

 やれと言われてもできなかったのに、不思議なものである。

 しかし無論、それは長い曲の中でほんの一部だ。そこだけがよくなったところで、コンクールで金賞が取れるとは思えない。

 だがこのやり方ならば、今非常にピリピリしているこの部活の雰囲気を、変えることができるかもしれないと鍵太郎は思っていた。

 この方法が部内で認められれば、根本的に練習の仕方が変わる。

 先輩たちに言われて無理やり吹かされるのではなく、自分たちでこうしたいと思ったことがやれるようになる。

 そうなれば今までのように、息の詰まるような中で吹くことはなくなるはずだった。

 というかその方がいい音がする以上、その方向に動かしていきたい。

 そのためにも、この合奏でその効果を示すことは必須なのだ。

 大きく吸って、吐く。その肝心な部分は休みなのだが、それ以外の部分ではこちらもやりきりたい。


「では、中間部の早くなったところからいきます」


 するとそこで、部長の貝島優かいじまゆうが言った。

 その声音に、音楽室の中に胃が締め付けられるような緊張感が漂う。コンクールの予選が間近に迫っているにも関わらず、曲が思うように仕上がっていないのだ。

 優をはじめとした上級生たちの焦りや殺気が、部屋全体に満ちている。だがそれにむしろ、鍵太郎は怒りを覚えた。

 あの人たちは、後輩たちの蒼白な顔が見えないのだろうか。

 首を絞められながら吹くような苦しさを、あの部長は感じていないのだろうか。

 文句を言いたいところをぐっとこらえて、楽器を構える。

 これからやるのは曲の中間部――民衆の蜂起のシーンだ。

 そして、合奏が始まる。



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 ガツンッ! と叩きつけるようにして、鍵太郎は最初の音を吹いた。

 それから優の叩く音が走っていく。メロディーが始まるまでの前奏部分だ。鍵太郎は優を追いかけて、刻みの音を強く出した。

 テンポとリズムの節を安定させるため、低音のここは大きくださなければならない。

 主導権を奪い合うように激しくぶつかって、ビートが激しく火花を散らす。

 しかしどちらも譲らないまま、曲は次の場面へと移った。

 クラリネットのメロディーが争いの隙間に入ってくる。なのでそれを潰さないよう、鍵太郎は後ろに引いた。

 ここは彼女たちの戦場だ。自分はその後ろで、地を踏みしめて強く足跡を刻んでいく。

 優も既に最前線からは引いている。とりあえずこの場では、勝負つかずのようだった。

 クラリネットの全員がメロディーを吹いている。どれが後輩の野中恵那のなかえなの音なのだろう。

 微妙にそろっていない主旋律は毛羽立った縄のようにザラザラで、どれが彼女の音かは判別がつかない。

 けれど先ほどのように、隠れるように吹かないでくれたらな、と思う。

 今日初めて話した、そんな引っ込み思案な後輩であるが、彼女だって楽器を吹きたくてここにいるのだ。

 そんな後輩がおびえながら演奏するのは、鍵太郎にはいいことだとは思えなかった。

 いくら結果が全てといっても。

 それが『吹奏楽部の常識』でも。

 曲に吹き込む魂を殺してまで、結果がほしいとは思わなかった。別に金賞を取りたくないというわけじゃないけれど、そうしてしまったらどこにも、楽器を吹く意味なんかない気がした。

 真っ直ぐに飛んでくるアホの子のトロンボーンが聞こえる。

 重なって響くホルンが聞こえる。

 その上にいるトランペットの地味な先輩がすべての先頭に立って、突撃の命令を下した。

 それに従って続く者、咆える者、息を潜めて機会を伺う者――それら全員が入り交じってわけがわからなくなり、滝のように流れて通り過ぎる。

 そこからまた部長と一緒に飛び出して、鍵太郎は走り出した。

 周りは乱暴で激しい音たちばかりで、一面瓦礫だらけだ。統率もなく撒き散らされた怒りと諦念が、自分たち自身を傷つけている。

 けれど、この先は。

 あかるくて、やわらかい、この先は。

 女神様が迎えてくれるはずだった。



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 争いの音がぴたりと止んで、手を止めた民衆は空を見上げる。

 火の手にけぶる視界と、曇天の中――光が射し込んできた。

 来た、と鍵太郎は思った。今までの演奏とは全然違う。伴奏の練習の成果が出ている。

 この柔らかく、あたたかい光は今まで合奏してきた中では出てこなかった。やはり先ほどの練習は無駄ではなかったのだ。

 祈るような気持ちで鍵太郎は楽器を口から離した。この部分は曲中の数少ない休みなのだ。

 肝心の部分を聞いていることしかできないというのは、こちらとしてももどかしい限りだが――ここに今日ひたすら自分の音を磨いてきた智恵が入れば、描こうとした景色が完成するはずだった。

 女神のテーマの、ソロ。

 智恵が大きく息を吸い込む。

 他の誰とも混じらない、けれど共に在るこの光の中で――彼女は自分の旋律を奏で始める。


 そこで、鍵太郎は見た。


 荒野のようになった街に差し込む、天の救いのような光の中で。


 そこからひとりの――ちょっとぽっちゃりした女神が、舞い降りてくるのを。


「…………」


 あれ、なんか。

 想像してたのとちょっと違う……ような。

 そう思いながら鍵太郎は、呆然とその光臨してくる『女神さま』を聞いていた。

 自分たちが練習している間に、このちょっとぽっちゃりした先輩は一生懸命がんばって、練習をしていたはずなのだ。

 うん、それはわかる。

 わかるけど――なんだろう、この、笑ってしまいそうな感じは。

 本人は至って真面目にやっているだけに、余計おかしくて鍵太郎はぷるぷると震えた。笑いをこらえるのが大変で、口元が変な形に引きつった。

 そうか、と思う。

 どうしても音にその人の個性がにじみ出るっていうのは、こういうことなのかもしれないな――と、内心大爆笑しながら、鍵太郎は『彼女』を受け入れた。あまりのこの先輩らしさに、愉快な気持ちが止まらなかった。

 ちょっとふくよかな気もするけど、それがこの部のれっきとした『女神さま』なのだ。

 それでよかった。

 文句のつけようもなかった。

 そんなこの先輩が、大好きだ。変な意味でなく、でも大好きだと思った。

 だから笑いながら鍵太郎は、再び楽器を構えた。降りてくる彼女を抱きとめるために、大きく息を吸って音を広げていく。



###



「いやあ、さっきの合奏はよかったねえ。なんか、初めて自分の思った通りに吹けたよ」

「はっはっはー。先輩輝いてましたよー」


 智恵が満足そうな顔で言ったので、鍵太郎は今度こそ、笑いながらそう応えた。もう我慢しなくてもいい。思う存分腹を抱えて笑いたい気分だった。

 そんな鍵太郎の心中など知らない智恵は、「そう? 輝いてた?」と嬉しそうに目をキラキラさせる。ああもうだめだ。笑いすぎて涙が出てきそうだった。


「あーもう先輩。先輩はほんと、いいキャラしてますねえ」

「そ、そう? よかったあ」

「はい。先輩は先輩ですよ。他の誰とも混じりません」


 去年、先生に二人で言われたことを思い出して、鍵太郎はそう言った。

 他の誰とも混じらない、でも重なり合って一緒に吹くのがいいんだよ、と――そう教わって、彼女はそれを成し遂げたのだ。

 うっかりでぽっちゃりだが、この人は本当にすごい人だ。

 そう思って鍵太郎は、智恵と一緒に笑った。ユーフォニアムとチューバの役割は曲中ではかなり違うのだが、それでもこの先輩を見習いたいと思う。

 あ、でも伴奏もがんばったんだよということは言っておきたい。

 合奏もうまくいったので、鍵太郎は智恵に、ソロが今回なぜ吹きやすかったのかの種明かしをすることにした。伴奏がうまくいけばメロディーだってうまくいく。それだけは伝えておきたかった。


「あ、実はですね先輩。さっきの先輩のソロのとこ、さっきパー練で……」

「いやー、うまくいってよかったよかった! これもわたしのソロの練習の成果だね! やったね!」

「ええええええええ!?」


 なんか予定と違うなあ!? と、なぜか合奏前と同じことを思って、鍵太郎は叫んだ。

 前言撤回。やっぱりこの人のこういうところは見習いたくない。

 鍵太郎がそう思っていると、智恵は続ける。


「いやー、やっぱりね。ユーフォがメロディー吹くっていいよね。トランペットともまた違う、まろやかで優しい音色! みんなもっと、ユーフォのことを崇めていいと思うんだよねー」

「ちくしょう、メロディー楽器どもめ……!? 伴奏があるからこそ輝けるという事実を、忘れてもらっては困るのですよ……!?」

「そういえば今度アニメで、ユーフォ吹きの女の子が主役の話やるんだってさ! 来たよ! 来たよコレ! ユーフォの時代来るよ!」


 わたしの目の黒いうちに、こんなことになるとは思わなかったよ! と吹奏楽いちマイナーであろう楽器を担当する先輩は狂喜乱舞していた。まあ確かに、ユーフォニアムが主役というのは珍しい。

 知名度が低いのがネタになるくらいの楽器なのだ。

 なので同じくマイナー楽器である、チューバを吹く鍵太郎は言う。


「……ユーフォの時代が来るなら、チューバの時代も……」

「来ない来ない! 来るわけないじゃん! あんな誰も見てくれない楽器!」

「ぐううううっ!? あるもん!? ごくごくまれにソロでメロディーを吹くときだって、あるもん!?」


 ばっさりと切り捨てられて、鍵太郎は先輩に泣きながら叫び返した。確かにメロディーは少ないが、この楽器の本領はそこではないのである。

 だがそのメロディー楽器であるユーフォニアムの智恵にその魅力は伝わらない。鍵太郎の心の叫びなどどこ吹く風で、先輩は自分の楽器の話を続けてきた。


「いやー、これで『やってる楽器なに?』って訊かれて答えたときに、『UFO?』とか言われなくて済むよ。『チューバの小さいやつです』って言って『チューバってなに?』って訊かれると、そっから説明するのが大変だったんだから!」

「あの先輩、やめません? その『鳥取の隣は島根』的な、お互いが傷つくトークは……」


 などと、鍵太郎と智恵がじゃれあいながらしゃべっていると。


 部長のぞっとするような声音が、音楽室に響いた。



「――なに休んでるんですか」



「――!?」


 鍵太郎は、それに息を呑んだ。

 今のは自分に言われたのではない。

 もっと離れたところで、誰かが言われている。

 それに慌てて振り返れば――そこには、貝島優と。


 野中恵那が。


 現時点で最悪と言っていい組み合わせの二人が、対峙してしまっていた。

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