第152話 小さな女神

「後輩を味方につけるっていうのは、なかなかいい作戦だね。湊っち」


 湊鍵太郎みなとけんたろうが先輩の高久広美のところに行くと、彼女は相変わらずなにもかも見透かしたような口調でそう言ってきた。


「今年で最後の三年生あたしらと違って、きみら二年生には先がある。来年のことを考えるなら、一年生を守ることを考えるのは当然だよ。それでいいんじゃない」

「……そこまでわかっててあれだけできるんなら、先輩はなんで最初から本気出さなかったんですか……」


 広美の言葉に、鍵太郎は半眼でそう応えた。脳裏をよぎるのは、今さっきまで行われていたパート練習のことだ。

 そこで広美は、恐ろしいほどの手腕を発揮した。

 その甲斐あって今、鍵太郎たちの周りでは曲のイメージを統一するため、部員たちがそれぞれ話し合っている。

 練習が始まる前はギスギスしていて、そんなことができる雰囲気ではなかったにも関わらず、だ。

 それはとても歓迎すべき事態だった。確かにそうだ。

 だが、一方でそんなことができるなら、始めからそうしてくれればよかったのにと思ってしまうのも事実だった。


「先輩が最初からやる気を出して、さっきみたいに仕切ってくれればここまで状況は悪化せずに済んだのに……」


 それに自分だって、あんな苦労をせずに済んだのだ。

 こっちがどんだけ苦しんだと思っているんだ。そんな思いで鍵太郎が先輩を見ると、先輩はわざとらしくキャピっとした仕草をして言ってきた。


「いやあ、さっきのはまぐれだよ。ま・ぐ・れ。湊っちががんばってるからさー。それ見たら、あたしもがんばらなきゃって思って♪」

「うさんくせー……」


 心の底からの思いが口をついて出た。

 鍵太郎の知っている広美は、確かに表向きスーダラおっさん女子高生だ。だがその裏で彼女が、綿密に状況を計算しているのもなんとなくわかっていた。

 本気を出せば、さっきみたいなことができることも。

 そしてそんな先輩が、今になって動き出したのだ。

 もう少しでコンクールの予選会が行われるという、この時期にだ。

 いったいなにを企んでいるというのか。

 鍵太郎がうろんな目をしていると、広美は肩をすくめて言ってくる。


「ま、さっきの湊っちを見て、そろそろ出番かなって思ったのは本当だよ。あの様子なら『教科書にない答え』は見つけたんでしょ。ならそろそろ仕上げ時かなって思ってさ」

「うう。なんか手のひらで踊らされてる気がする……」

「まあまあ。それはもう置いておいて。おじさんと楽しいことしようよ。あったかくてやーらかい女神さまと仲良くネンゴロするための背景を、一緒に考えようじゃないかー」

「俺そこ吹いてないもん!?」


 結局なんにも教えてくれる気配もないまま、広美がいつものおっさんモードになってしまった。それに鍵太郎は悲鳴をあげる。こうなるともう絶対、なにも教えてくれないのだ。

 あきらめて練習に戻る。今のところ踊るしか道がないのなら、もうとことんまで踊ってやるまでだ。



###



「じゃ、イメージも出たところで。改めて吹いてみようか」


 パートごとの曲のイメージが出たところで、広美は再び進行を務めるためそう言った。

 話し合い前と同じく、鍵太郎はその演奏を客観的に聞く役となる。

 やわらかくて、あかるい。

 そんなイメージが奏者同士でそろうだけで、演奏は変わるのだろうか。

 スコア片手にみなの前に座って、この話し合いの成果を鍵太郎はドキドキしながら待つ。先生が言っていた方法なので間違いはないと思うが、それを自分たちができるのかという不安はあるのだ。

 練習を始めたときは本当にバラバラだった演奏だが――さて。


「では――」


 鍵太郎が合図を出すと、みなが楽器を構える。

 スウッと息を吸う音と共に、その場の空気が変わるのがわかった。


「……!?」


 そして聞こえてきたそれに、鍵太郎は目をむいた。

 違う。

 全然違う。

 これまでとはまったく違う人間が吹いているような演奏だった。まるで響きが違う。

 明暗入り混じってカオスだった音色が同じ方向性を持ったことで、互いを支えあい。

 なんにも考えない棒吹きだった雑音がやわらかくなって、あたたかみが増していた。

 イメージがそろうだけでこんなに違うのか。

 自分で言い出したことだがその効果を目の当たりにして、鍵太郎は絶句していた。

 正直、ここまで早く変わるとは思わなかった。

 音を出すのは心なんだろうね――そうクラリネットの同い年が言ったことを思い出す。吹いている当人たちは、そこまでなにが変わったのはわからないかもしれないが。

 しかし確実に「なにか」が変わっているのだ。

 外側で聞いているとそれがよく分かる。呆然と鍵太郎がそう思っていると。

 クラリネットの中にひときわ背を丸めた、小さな後輩がいるのが見えた。


「……あ」


 その頼りなげな姿は、一年生の野中恵那のなかえなだ。

 彼女は最初に顔を合わせたときと同じように、この演奏の中でも誰かに隠れるようにして、おそるおそる吹いている。

 クラリネットは大体一パートを二人以上で吹くのでそれは可能だが――もったいない、とそれを見て鍵太郎は思った。先ほどの練習では、この後輩が「明るい」とつぶやいたことから状況が開けたのだ。

 考えてることは正しいんだから、もっとやってしまっていいのにな、と思う。

 しかしまあ、そうもいかないのだろう。

 今年の自分を振り返るに、それだけでは踏み出せないのもわかる。

 ましてや、あの性格ならなおさらだ。

 そんな彼女にもっと吹いてもらうには――

 鍵太郎がそう思ったところで、演奏が終わった。


「……っと。どうだった、湊っち」

「あ、はい。全然違いました。すごかったです」


 広美に訊かれて、鍵太郎は素直にそう答えた。それを聞いて、部員たちが少しほっとした顔を見せる。


「びっくりしました。感じ方をそろえるとこんなに変わるんですね。これは他の部分でもやった方がいいと思います」

「そーね。縦をそろえるとか、そういうこと言い出すのはそれからかな」


 わざとらしい誘導に感じられるかなとも思ったが、しかしそれよりも鍵太郎としては、純粋な驚きを伝えたいという気持ちの方が大きかった。

 広美のフォローもあって、うまく印象付けることができたようだ。

 これで曲の他の部分でも、どういう吹き方をしようかという話が出てくるはずだった。

 あとはこの流れを、部活全体に広めていけばいい。

 たった八小節が変わっただけだがこの結果は、単なる数秒以上の価値がある。

 ならこのメンバーでもっと、他の部分も練習したらどうだろうか。鍵太郎はスコアを見たが、もう時間が来てしまったらしい。

 音楽室から「合奏やるってよー」と、違うパートの部員が呼びに来る。残念ながら今回はここで終了だ。

 名残惜しく鍵太郎がスコアをパラパラと見ていると、今吹いていた部分の、すぐ後の譜面が目に入ってきた。


「――あ」


 それに、ふと思うことがあり。

 移動を始める部員たちの中に、恵那を探す。

 これは彼女に言わなければ――そう思った。



###



「……えーと、野中さん」

「……っ!?!?!?」


 話しかけた瞬間ビクッとされて、わかってはいたが鍵太郎はなんだか悲しい気持ちになった。

 やはりまだ、そこまで気を許されてはいないらしい。ここは彼女と同い年の宮本朝実みやもとあさみと一緒に話しかけるべきだったかなと思う。

 おびえる恵那は隠れ場所を探そうと辺りを見回したが、あいにくここはみなが移動中の学校の廊下だ。

 隠れるところはどこにもない。それを悟って、恵那は生まれたての小鹿のようにプルプルして、涙をにじませてこちらを見た。

 そんな彼女にどうしようかと迷いつつも――やはり言うことは変わらない。

 鍵太郎は言葉を選んで、彼女へ話しかけ続けることにした。


「えーと。あのさ。さっき野中さんの音聞いてて思ったんだ。聞いてくれる?」

「……っ」

「そんなに怖がらなくて大丈夫だよ、ほら」

「……?」


 震えていた恵那が、不思議そうに首を傾げた。

 そんな後輩に、鍵太郎は目的のページを開いたスコアを指差して見せる。


「さっきみんなで練習したのは、ユーフォのソロの伴奏だけどさ。ほら、その次」

「……」


 おそるおそる、恵那が鍵太郎が指さした部分を覗き込んだ。

 どちらかというより、それは気になって見るというより、先輩が見ろというからそうしたという動きだったが――

 まあ、言いたいだけなので、鍵太郎としてはそれでもよかった。


「ユーフォがやってたソロの動きは、今度はそっくりそのままクラリネットが同じことをするんだよね。

 女神のテーマ、だっけ」

「……」

「この曲の一番の主旋律は、ひとつの楽器だけじゃなくて、他の楽器もやるんだなって。それで、えーと、なんていうか、その……」


 戸惑ったように自分の持つクラリネットを見下ろす恵那に、どう言おうか迷いつつも――

 鍵太郎は結局、思ったことをそのまま言うことにした。



「きみは、もっと自信を持っていいんじゃないかな」



「……!」

「野中さんが考えてることは、あってるよ。『あかるい』って言ったの、野中さんだよね? だからそんなにおびえなくていいと思うんだ」

「……っ。……っ」

「きみが正しいって思うことは案外合ってて、それを口に出すことでなにかが変わることもあるんじゃないかな、って……」


 なにも口に出さないまでも、恵那はこちらを見たり、握り締めた楽器を見たり、色々思うところはあるようだった。

 彼女は別に、なにも考えずに楽器を吹いているわけではない。

 思ったことを口に出すのが苦手なだけなのだろう。

 そんな彼女に今の部活の状況は、ちょっときついかもしれないが――辞めずに居続けてほしかった。あのとき「あかるい」と答えた彼女には、その資格があるはずなのだ。

 女神のテーマを受け持つ、資格が。

 挙動不審にきょろきょろする恵那に、自分でもよくわからなくなりつつも鍵太郎は続ける。


「なんかこう、逆にその方がいいというか。もっと自分を大切にしたほうがいいというか、ええと、なんて言えばいいんだろうな、その――」

「おや、湊っちがさらに女の子を口説こうとしている」

「違いますよっ!!」


 広美がまったく的外れな野次を送ってきたので、思わず怒鳴り返してしまった。

 しかし恵那は少し驚いたような、困ったような顔をしたものの――特に逃げ出しはしない。

 それが少し意外だったものの、広美がさらに続けてくるので鍵太郎はそちらに対応せざるを得なかった。


「後輩を味方につけるのがいいっていうのは、確かにあたし言ったけどさあ。いくらなんでも、ちょっと見境なさすぎじゃない?」

「だから違うって言ってるでしょうが!? ていうか先輩、顔ニヤけてるんですけど!? 明らかにからかってるだけでしょう!?」

「さーてねえ。さあ、この練習の成果は合奏で出るかなー? にゃははははー」

「ちょ、言い逃げすんな!?」


 軽やかに逃げていく広美と、それを追いかけていく鍵太郎を呆然と見送って――


「……」


 野中恵那は、楽器を持ったままそこに立ち尽くしていた。


「変な先輩ですよねー」

「……朝実ちゃん」


 同じ一年生の朝実が笑いながら言ってきて、恵那は戸惑いつつもそう返した。

 彼女には裏表がない。嘘をつかない。

 だから信用できた。別段隠れずとも、普通に会話できる。

 なら、あの人は――


「変な人で、牙なし野郎で、たまにすっごい気持ち悪いのですが。ね、言ったでしょ。大丈夫だって」

「……」


 相変わらず歯に衣着せぬ友人の言葉に、走り去っていった先輩のことを思い浮かべる。

 もう姿は見えないけど、あの人は。


 ――『きみは、もっと自信を持っていいんじゃないかな』


「……うん」


 そう言っていたことを思い出し、恵那は小さく微笑んだ。

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