第150話 正解の同居
テスト期間が終わって、吹奏楽部はコンクールに向けて、より神経を尖らせていくことになる。
その中で、
だが、計画は計画通りにいかないのが常である。
だからこそのこんな状況であって――
だからこそ、自分たちはこんなことをしているとも言えた。
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「ううん、ごめんねえ。今日はひとりで練習したいんだー」
鍵太郎が一緒に練習しようと言うと、ひとつ上の先輩の
智恵の担当楽器はユーフォニアム。
チューバを担当する鍵太郎とは、同じパートの先輩だ。部長のように言い方がきついわけでもない、むしろのんびりした感じの三年生である。
そんな人に、申し出を断られるとは思っていなかった。
鍵太郎が困っていると、相変わらずちょっとぽっちゃりした先輩は楽器を撫でながら、自分の思いを告げてくる。
「『民衆を導く自由の女神』にはさ、ユーフォのソロがあるじゃない。あれがいまいち、上手くできなくてさ。ちょっとひとりで練習したいんだ。ごめんね」
「あの、でも」
「あのソロはさ、女神さまのテーマなんだよね」
食い下がろうとする鍵太郎に、智恵は珍しくかぶせるようにして言ってきた。
それは最後のコンクールとなる三年生独特の、終わりを目前にした真っ直ぐな強さだ。
今年になって何度も目撃してきたそれに鍵太郎が言葉を引っ込めると、智恵は少しうつむいて、言う。
「たった八小節の、後半で採点も終わってそうなところのソロなんだけどさ。それでも、あれはすごく大事なものなんだ。わたしがやらなきゃいけないものなんだよね。だからちゃんとやりたいの」
「……そう、ですよね」
智恵が担当しているのは、曲中の唯一のソロの部分だ。
それを後悔のないように吹ききりたい気持ちは、二年生の鍵太郎にもわかった。去年の自分を考えると痛いほどと言ってもいいくらいだ。
まして最後のコンクールともなれば、智恵の思いもひとしおだろう。
密かに進行中の計画では、個人練習だけではなくパート練習の時間を増やそうというのが、第一段階の要ではあるのだが。
ここは、自分の考えを押し付けるべきではないのかもしれない。そうしなければ、やっていることは結局部長と変わらない。
けれど一応、この計画の発案者としてなにもしないわけにはいかない――という気持ちもあった。
鍵太郎が困っていると、智恵はニカリと笑って、おどけるように言ってくる。
「あーあ、まさか三年の最後の最後で、こんなことになるとは思ってなかったよねー」
「……先輩」
「前に、城山先生に『もっとはっきり吹きなさい』って言われたのがさ。今になってようやくわかったというか。やってみたくなったんだ。だからごめんね。湊くんもがんばって」
「あ、ちょっと――」
「じゃ、そういうことで」
そう言って、智恵は音楽室の後方にある小さな部屋に入っていってしまった。
中から、彼女が練習する音が聞こえてくる。その扉をこじ開けてまで先輩を引きずり出そうとは、やはり鍵太郎には思えなかった。
女神のテーマを持つ者、引きこもる。
「……どうしたもんかね、これは」
中途半端に上げた手を所在無げに動かして、鍵太郎はそう言った。
これではまるで日本神話で出てくる、洞窟に引きこもった女神である。
彼女の不在によって光は消え、この世は無明の闇に閉ざされた。
そんな風に今までこうやって、個人練習ばっかりやってきたのが部の分裂につながっていると思うのだが――彼女の言っていることも、それはそれで正しいとわかるのだ。
それは今年になって、ずっと思ってきたことだった。
誰もが正しくて、誰もがどこか間違っているように感じる。
そこには誰かにとっての『正解』があるだけ。
でもそれを放っておいて、バラバラままでは――どこにも道が見えなくて。
「……」
鍵太郎が無言で扉を眺めていると、その向こうからその女神のテーマを練習する、智恵の音が聞こえてきた。
何度も同じところを繰り返し、ひとつひとつを磨きあげているのがわかる。
伴奏の中に埋もれないように、その存在をはっきりと。
そんな彼女の音を聞いていたら、この先輩と二人で去年、先生に言われたことを思い出した。
『もっとはっきり吹きなさい』と――。
智恵はもう一度、それをやり遂げようとしているのだ。
「なら、俺は……」
自分がやるべきなのは、なんだろうか。
「……そうだ」
ふと思いついたことがあって、鍵太郎は扉とは反対方向に歩き出した。向かう先にあるのは指揮台だ。
その上にはこの曲の。
『民衆を導く自由の女神』の、全員の動きを記したスコアがあるはずだった。
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「ん。湊っち、なにしてるの」
「あ、先輩」
鍵太郎が指揮台の横でスコアを見ていると、三年生の高久広美が上から覗き込んできた。
彼女はなんだかんだ言って、相談すれば助言くらいはくれる先輩だ。
だから鍵太郎は、素直に広美にやっていたことを話すことにした。
「伴奏のパート練習できないかなと思って。今泉先輩のソロのとこ」
スコアをめくりながらそう言う。
なんとかならないかと思って、考え付いたものがこれだった。
女神のテーマを吹くその裏の、伴奏の部分を磨き上げる。
いくらソロだといっても、智恵ひとりで八小節全部を吹くわけではない。必ず誰かが一緒に吹いているはずだ。
そしてそれを練習することは、あれほど努力している智恵を陰ながら支えることになる、大きな力にもなるはずだった。
それは基本的にほぼ伴奏である、自分らしい発想かもしれない。
だが、引きこもっているあのぽっちゃり女神の顔を出させるには、結局それが一番じゃないかと思ったのだ。
無理やり引きずり出すのではなく、自分からやってくるように。
そう言うと、同じく低音楽器――バスクラリネットを吹く先輩は、ニヤリと笑った。
「なるほどなるほど。いいと思うよ。だからスコア見てたんだ」
「はい、その部分は実は俺、吹いてないんですけど――だったらそれはそれで、俺は聞いてるんでみんなで吹いてもらえば」
「お、なんかよゆーじゃん。どうした湊っち。なんかあったん?」
「えーと、まあ、なんかあったと言えばそうなんですけど」
言動がぐでんぐでんのクセして、実は鋭いこの先輩にはつい誤魔化し笑いを浮かべてしまうのだが。
あまりここで長く話していられないのも事実だった。下手をして部長に目をつけられれば、水面下で進めている計画がおかしくなってしまう。
だから鍵太郎はスコアをこっそり持って――楽しそうな、それでいて鋭い笑みを浮かべる先輩に、耳打ちした。
「まあ、ここではおおっぴらにできないので――その前にちょっと別の教室で、みんなで楽しいことしませんか?」
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かの神話では、女神を洞窟から出すため、どんちゃん騒ぎの宴会を開いたという。
だからというわけでもないが――今回は音楽室ではなく、誰もいなくなった放課後の教室で、できる限り楽しくできればと鍵太郎は思っていた。
「ううん、いいねえ。こういう爛れた感じ、おじさんは大好きだよ」
「久しぶりに出たなあ、この逆セクハラセリフ……」
最近つらい出来事ばかりが続いたので、もはや逆にありがたくなってきている広美の絡みではあるが。
とりあえずそれは置いておいて、鍵太郎は教室に集めたメンバーを見渡した。
曲に対した楽器の召集のため、今回のパート練習のメンバーは少し異色である。
クラリネット、サックス。
木管楽器ばかりだ。
普段、金管楽器としてやっている鍵太郎にとっては、ちょっと気後れする面子だったが――クラリネットには同じくこの計画の仲間である
それにバスクラリネットの広美、バリトンサックスの一年生、
大丈夫だ、今からやろうとしていることは、木管でも金管でも関係ないことだろうし――と、鍵太郎が思っていると。
「ひゃ……」
「え?」
目の合ったクラリネットの一年生が、おびえるように咲耶の後ろに身を隠した。
「あの……え? 俺、なんかした?」
「大丈夫だよ、湊くん」
身に覚えのない反応に鍵太郎が戸惑っていると、咲耶が苦笑いしながら言ってきた。
その後ろからその一年生が、背後霊みたいな感じでこっそり見てきているのだが――咲耶の実家のことを考えると、なんだか笑うに笑えない。
重めの黒髪を肩まで伸ばした、こちらを伺うように自信なさげな表情をした彼女。
今まで話したことのない後輩だ。
名前は――なんだったろうか。
楽器が違うと確かに、あまり話す機会もなかったりする。
だから名前も覚えていないのだろうが、楽器の違い以前にこうまで隠れられていては、しゃべりかけることすらままならない。
あ、ひょっとしてこの子が――と鍵太郎が思っていると。
その思考を読んだときに、咲耶はうなずいてきた。
「そう。この子が
「あ、そうなんだ……」
先日咲耶は、同じ楽器の後輩に心配な子がいると言っていた。
それがこの子なのだ。
そう思って改めて恵那を見ると、彼女はまたぴゅっと咲耶の後ろに隠れてしまった。
「……」
「……悪気はないから、あんまりショック受けなくて大丈夫だよ」
なんだか自分が、とても悪いことをしたような気がして鍵太郎が落ち込んでいると、咲耶がそう言って慰めてくれた。
それでなんとか立ち直る。
これは確かにあの部長とは、相性が最悪かもしれない。
今までよくもっていたものだと思う。というか、これでパート練習ができるのだろうか。
再び咲耶の後ろから恵那がこちらを見てきているのを感じながら、鍵太郎はどうしたものかと顔を引きつらせた。
するとそこで、朝実が言う。
「恵那ちゃん恵那ちゃん。湊先輩は、大丈夫な人ですよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
一年生同士ということで、恵那も朝実とは話せるらしい。
咲耶の陰に隠れていることからしても、心を許した人となら会話は可能なようだった。
なのでその橋渡しをしてくれている朝実を、鍵太郎は見守ることにした。
「怒鳴ったり殴ったり、そういうことは絶対しない優しい人です。牙なし野郎です」
「うん、そう言うきみのことを、先輩は今本気でぶん殴ろうかなと思ったけどやめておこう」
「こういう変な人ですけど、私が保証します。大丈夫です」
「……うん」
大いに不満のある説得ではあったが、それで恵那は納得したようだ。
まだオドオドしながらも、姿を見せてくれる。
そして一瞬チラリとこちらを見たが、しかしすぐにさっと目を伏せてしまった。
「うーん、ほんとに世の中、いろんな人間がいるよなあ……」
そんな恵那を見て、鍵太郎は苦笑してそう思う。
彼女のような人間もいるし、部長のような人間もいる。
ただ、それでも――音はいつも平等に、そこにあるはずなのだ。
「さーて、じゃあいっちょ、いってみますか」
そう言って鍵太郎はスコアをめくった。
そこにはクラリネットも打楽器もなにもかも、全ての動きが記されている。
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いろんな人間がいて、いろんな『正解』がある。
そんなんだからいつだって、計画は思い通りにいかないけれど――
でもだからこそ、自分たちはこんなことをしているのだと。そう思った。
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