第147話 旅路の果て

 湊鍵太郎みなとけんたろうたちが練習場に着くと、打楽器の越戸こえど姉妹が練習をしながら出迎えてくれた。


「おつかれー」

「おはよー」


 なにやら二人は分厚い週刊マンガ雑誌に、木の板を貼り付けたものをドラムのスティックで規則正しく叩いている。

 話を聞くと、どうやら基礎練習のために手作りしたものらしい。これまで打楽器だからということで、こういった学外の練習にこの二人を呼ぶのは敬遠していたのだが、こういうものがあるならもっと早い時期に呼べばよかったなと鍵太郎は思った。


「おっはよー!」


 部屋の中にトロンボーンを持った浅沼涼子が突進していく。

 スリッパくらい履けと言いたいところだったが、彼女のそういう行動力にはこれまで何度か助けられている。なので鍵太郎は苦笑して、涼子の足元にスリッパを放った。

 鍵太郎自身もスリッパを履いて部屋に入ろうとすると、ここに始めて来るホルンの片柳隣花かたやなぎりんかが呆然と室内を見回す。


「……あんたら、今までこんなとこで練習してたの」

「俺も最初にここに来たときはそんな感じだった」


 自宅とは別に作られた、防音完備の広い別宅。

 クローゼットの中には大きなオーディオセットがあるのを見て、去年初めてここに来たときは鍵太郎も唖然としたものだ。

 家主である宝木咲耶たからぎさくやは、隣花の反応にやはり苦笑をしているが。それでも去年のように、自分だって普通なのだと不自然に強調したりはしなかった。

 まるで秘密基地のような、学校外にあるこの練習場。

 ここでこれから――と思ったところで、部屋の奥から声をかけられる。


「ちょっと。なんで今日はこんなに人がいるのよ」


 いつものように不満そうに言うのは、トランペットの千渡光莉せんどひかりだ。

 それはそうだ。いつもならここは自分と光莉、そして涼子と咲耶の四人だけで使っていたのだ。

 けれど、これを四人だけの秘密にしておくことはもう、できなくなっていた。

 なるべく多くの信頼できる仲間が必要なのだ。

 だから鍵太郎は光莉に、笑って告げた。


「いやあ。ちょっとみんなで、話し合いたいことがあってさ」


 言いながら、背負っていた楽器を床に下ろす。

 学校からここまで徒歩圏内とはいえ、さすがに重さ十キロもある低音楽器・チューバを運ぶのはきつかった。


「秘密基地みたいなここは――作戦会議にはうってつけだろ」


 そう言うと、光莉はよくわからないといった顔をした。



###



 川連第二高校の吹奏楽部は、今現在分裂状態にあった。

 部長をはじめとした三年生が、吹奏楽コンクールで金賞を取るために部員に厳しい態度を取っており、それについていけない一年生がやる気を失い始めているのだ。

 このままでは吹奏楽コンクールで金賞をとることはおろか、予選を突破することすら難しい。

 だがそう言っても先輩たちは譲らず、既に後輩たちの心は離れ始めている。

 ならば自分たち二年生が、どう動くか。

 それ次第で、これからは大きく変わるのではないか――鍵太郎はそう思っていた。



###



 三年生に対して、反乱を起こす。

 そう言うと、案の定光莉は目をむいて反論してきた。


「ちょ、ちょっと……! あんたなに言ってんの!?」

「なんだもかんだもない。このままじゃ明らかに金賞は取れない。だからそこは変えなきゃならないんだ」


 音も人もバラバラなこの状況を、どうにかしないといけない。

 今の演奏はそれが顕著に出ている。その思いから鍵太郎は、自分でも意外なくらい冷静に光莉に言った。


「一年生の何人かが、もう部活を辞めたいって言ってる。そんな状態で大会に出たって、いい演奏ができるわけがない」

「だからって……!」


 吹奏楽の強豪中学出身である光莉にはそもそも、「先輩に楯突く」という発想すらなかったのだろう。

 戸惑いと怒りで言葉が出ないようだった。そしてそれは他のメンバーも似たようなものだ。

 よくわからないという調子できょとんとする者、困惑しながら鍵太郎と光莉の会話を見守る者、おもしろそうだと目を光らせる者――

 それぞれ反応は様々で、二年生は二年生で、間に挟まれたからこそ最も意見が雑多な学年だといえた。

 だからこそ、自分はこのメンバーを集めたのだ。

 自分とは全然違う人間と結びついて、居場所を変えられるなら――

 こんなに楽しい話はなかった。


「でも、俺ひとりじゃそれはできないんだ。俺はあくまで高校で楽器を始めた、金管最低音担当のチューバ吹きだから」


 そして、鍵太郎は集まった他のメンバーを見回す。


「俺には、木管楽器のことがわからないし」


 木管楽器――クラリネット担当の咲耶は、いつものように穏やかにこちらを見て微笑んでいた。


「俺には、中学からの経験者の気持ちがわからない」


 経験者である光莉と隣花は、当惑した様子でこちらを見つめている。

 さらに、自分とは正反対の気質を持つ涼子も。肝心なところはなにを考えているのか、よくわからないゆかりとみのりも。

 全員が、こちらをじっと見つめてきていた。

 そんな六人に対して、鍵太郎は自分の思いのたけをぶつけた。

 自分と全然違う人間だけど――

 それでも彼女たちと同じ仲間として、つながりあうために。


「けれど、俺は楽器を吹きたい。めちゃめちゃすごい演奏をしたい。でも曲はひとりじゃできない。だから協力してほしいんだ」

「……どうやってよ」

「教えてほしい」


 細い声で言う光莉に、鍵太郎は答えた。


「教えてほしいんだ。おまえらがどう思って練習してるのか。なにを考えて楽器を吹いてるのか。吹いててなにに悩んでて、なにが楽しくて、どんな気持ちでここにいるのか――おまえらに俺の知らない、なにが見えてるのか」


 ここにいる全員が、楽器も経歴も性格もバラバラなのだ。

 だからこそ違うものが見えて――それを組み合わせれば予想も理想もはるかに超えた、すさまじい演奏ができるはずだった。

 選抜バンドを思い出す。

 すべては、もう一度あんな演奏をするために――。


「言ってくれ。自分ひとりで思ってるだけじゃなくて、言いたいことを言ってくれ。つまらない演奏なんてしたくない。聞く人全部が驚くような、そんなすげえ演奏がしたい」


 人と人の間にある断絶を、確かな意思で飛び越える。

 そうやって『信じる』ことが、自分の『武器』だと――

 鍵太郎はいろんな人から、そう教わった。



「色も光も重さも心も全部重ねて――みんなで一緒に、ここを変えよう」



 すべては旅路の果て。

 そこにある夢幻のような――『虹』をつかむために。



###



 千渡光莉は、そう真っ直ぐに言い切った鍵太郎を見つめていた。


「――それ、は」


 言いたいことを言える部活がいい。

 彼が今言ったのは、卒業した彼と同じ楽器の先輩と同じ言葉だった。

 これまで何度も何度も、彼がそう言うたびに自分は突っかかってきた。

 だってそれじゃあ、結局こいつは――

 そう思ったときにはもう、光莉は鍵太郎に対して叫んでいた。



###



「――それでダメだったから、今年は違うやり方にしてるんじゃない!」


 そう言う光莉を、鍵太郎は静かに見返した。

 これまでこのセリフを、何度言われただろう。

 経験してきた様々な場面が脳裏をよぎる。

 思い出すのは、去年のコンクールでの銀賞。それでとても悔しい思いをした。

 だから今年の部長は、方針を変えて厳しくしていると言った。

 それを元に戻したら、また今年も悔しい思いをするのではないか――光莉はそう訴えているのだ。

 彼女には彼女の思いがある。それはわかる。

 けれど、この部にいるのは彼女だけではない。

 だから鍵太郎は、光莉に言った。


「けど、今の一年生はなにも知らないんだよ」


 去年の銀賞の悔しさも。

 どうして部活がこんなことになっているのかも。

 ひょっとしたら、楽器をやる楽しさも――なにも知らなかった。

 わたしたちにもあんな演奏ができるんですか――と。

 選抜バンドから帰ってきたときに、自分と同じ低音楽器の後輩はそう言ったのだ。

 後輩は確か、先輩がいるから部活を辞めないと言った。

 そんな後輩のことを考えながら、鍵太郎は言った。


「……今の一年生は、人間関係だけでもってる部分がある。それが今みたいに部活の雰囲気が悪くて、ダメになったら――辞めるだろ。先輩たちにそこまでする義理が、後輩たちにはないんだから」


 楽しくないところに、いつまでもはいられない。

 今よりもっと楽しいものを見つけたら、そちらに行くのは当然だ。

 世の中には吹奏楽以外にも楽しいことはたくさんある。

 他の部活にいる友人の顔を思い浮かべながら、鍵太郎は言った。


「俺の友達は野球部にいるんだ。でもそれだって、悪いことなんかじゃない」


 野球、サッカー。バスケにバレー。

 囲碁に将棋に、演劇にマンガにカラオケ。ひょっとしたら携帯アプリのゲームでも。

 どこにでも、夢中になれるものは溢れている。

 心が移ればそちらに行く。

 それは止められない。止める権利などない。

 いろいろあるその中で、自分たちが好きなものを同じく好きになってもらうには――やはり自分たちがその楽しさを伝えるしかなかった。

 鍵太郎がそう言うと、隣花が言った。


「……ま、確かにディスニーの楽しそうな曲で勧誘して。いざ入ってみたらこれじゃあ、一年生にとっては詐欺みたいなものかもね」

「なにをやるにしても、楽しくなきゃ続かないよ!」

「去年の三年生は、楽しいのも教えてくれたよ!」


 打楽器のゆかりとみのりもそう言うのを聞いて、鍵太郎はうなずく。そうだ、あの男の先輩は、入部したその日にゲームセンターに連れて行ってくれた。

 あれは、楽しかったなあ。

 そのときの感覚を思い出して、鍵太郎は言った。


「だから、今のやり方は変えたい。貝島先輩の教え方は、いろいろ知ってる経験者なら向いてるかもしれない。けど、ほんとうに初心者で入ってきた人には向いてない」


 強豪校のやり方を参考にした、今の部長。

 彼女は金賞を取るために、厳しくして無理やりにでも音をまとめると言った。

 だがここは、あくまで普通の進学校だ。

 吹奏楽部に入るために入学するようなところでは、決してない。たくさん部員がいて、その中から選ばれた人間がコンクールに出るような、そんな部活ではない。

 誰がいなくなっても、代わりはいない。

 その状況でなにも知らないまま、上達の仕方もわからないまま手探りで練習して、できずに怒られて楽しさも知らずに辞めてしまうのは――いくらなんでも寂しすぎる。

 それは一年生だけではない。上を目指している三年生たちにとっても同様だ。

 だからまとまるならやはり、無理やりではなく――


「楽しくやれるように。楽器をやることが楽しくて、それで練習して上手くなれるように」


 それで上達するように教えていく。

 時には怒ることもあるかもしれないが――それでも、やっぱり『切り捨てる覚悟』なんていらなかったんですよ先輩、と。

 今度はフルートの副部長を思い出しつつ、鍵太郎は言った。


「俺たちは、精鋭揃いじゃない。経験も知識も考え方もバラバラだ。

 でも楽器をやりたいって気持ちだけは、どっかにあって――そんな俺たちが、全力でひとつのスゲエものを全員で作り上げたら。それは、選ばれた人間がコンクールで金賞を取るのと同じくらい、ひょっとしたらそれ以上の『スゲエこと』なんじゃないかな」


 それは『レベルの低いこと』なんかじゃない。

 好きなことに全員が全力を注いで、ひとつのものを作り上げることが馬鹿にされるなんてありえない。

 胸を張って誇ればいい。

 自分たちのやっていることは、誰にも負けない、真似のできない『すごいこと』なんだと。

 思い切り、叩きつければいい。


「それは金賞を目指してガツガツやるような、『勝つための音楽』じゃないかもしれねえよ」


 けれどあのとき他校の生徒が示した第三の選択肢は、きっとこういうことなんじゃないかと、鍵太郎は思っていた。


「それでも人がいなけりゃ曲はできない。自分ひとりの正義を振りかざしても、誰もついてこなかったら意味がない。だから俺はそれぞれの楽器でやりたいことを、やればいいと思ってる。

 これは好き勝手やろうって話じゃない。金賞を取るために、無理やり押し込めるような今のやり方を俺は変えたいだけだ。『好き』を知らないまま義務でやらされるより、本当に心から吹いたほうが、いい演奏ができるに決まってるからな」


 義務、という言葉に脳裏をよぎるのは、ここにいる何人かでイルカを見に行く前に立ち寄った、アイスクリーム屋の店員のことだった。

 彼女は『仕事だから』義務で歌っていた。

 だが歌に心が乗った途端、大きく声を響かせたのだ。

 プロの大人だってそうだった。

 アマチュアの学生である自分たちの演奏に心がこもっていなかったら、そんなものにどれほどの価値があるというのか。

 その歌はそのとき一緒にいた光莉も聞いているはずだ。そう思って彼女を見れば――光莉はまだどこか引っかかった様子で、苦しげに眉を寄せている。


「で、でも、だからって……!」

「光莉ちゃん」


 そんな光莉に、声をかけたのは咲耶だった。

 彼女もあのとき、その場にいた。だからこういった話には、共感してくれると思っていた。

 それになにより、選抜バンドから帰る間際。

 私は湊くんと一緒にいるよと――と、彼女は言ってくれたのだから。


「選抜でね、すっごいきれいな音を出す他の学校の人がいたんだ」


 クラリネットという自分とは違う楽器を担当している彼女は、だからこそあそこで、自分の知らない景色を見ているはずだった。


「だから私、訊いたんだよ。『どうやったらそんな音出せるんですか?』って」


 彼女は彼女で、選抜で色々なものを見たはずだ。

 そこにはいいものも悪いものもあったろうけど――咲耶はそこで、あのときと同じように微笑んでくれた。


「そしたら言われたんだ、『フィーリングだよ!』って」

「……!」


 過去のトラウマから選抜に行けなかった光莉に、咲耶のその言葉は突き刺さったようだ。

 光莉はカタカタと手を震わせて、視線をさまよわせる。

 そんな彼女に、咲耶はいつものように穏やかに言った。


「難しい指使いができるのはいいことなんだと思う。間違えずに吹ければその方がいいよ。

 でもやっぱり、音を出すのは心なんだろうね。けど今は、その心が死にかけてるんだと思うんだ」

「それはそうかもしれないけど、けど……」


 うつむく光莉は、老人ホームで泣きそうになっていたときと同じ顔をしている気がした。

 だから鍵太郎は、もう一度光莉に呼びかける。


「なあ千渡。俺はあのとき、今度はどうすればいいいか一緒に考えようって言った。ずいぶん遠回りしてきたけど――結局、俺の『答え』はこうだった」


 今年の老人ホームで彼女と話したことを、鍵太郎は思い出していた。

 なにかが違った。だからどうしようかと二人で話した。

 その答えがこれだった。

 だから鍵太郎は、そのときの相手であった光莉に訊く。


「千渡、おまえはどうだ?」

「私、は……」


 彼女はうつむいたまま、顔を上げようとしなかった。

 これまでにも何度かそういうことがあった。

 その度に手を差し伸べてきたけど――今回は、光莉の方がその手を取ろうとしなかった。


「私は……!」

「……千渡。でもおまえが嫌なら、いいんだ」


 いつまでも震えている彼女に、少しの寂しさを感じつつ鍵太郎は言った。

 こういうことを言ってる以上、無理強いはしたくない。

 だから悲しかったけれど、言わざるを得なかった。


「おまえがどうしても納得できないっていうなら、今日のこの話し合いには参加しなくてもいい。経験者の意見は片柳から聞く」

「……!」

「……なるほど。だからあんたは私を呼んだのね」


 ふぅん――と、切れ長の目を細める隣花にはなにか引っかかる感じはあったものの、それでも話し合いを拒否する様子はなかった。なので協力はしてくれるはずだ。

 はっと顔を上げた光莉以外には。咲耶も、越戸姉妹も涼子も、反対する様子はない。

 残すは、彼女だけなのだ。

 今まで光莉とは、ずっと近くで同じものを見てきた。

 そんな彼女の意見はぜひ聞きたいところだったが――どうしてもと言うなら、今回のこの場からは外してもらうしかない。


「……いいよ、無理して付き合わなくても。でも、参加したほうがおまえにとってもいいと思う。だって――」

「――ねえ、ひとつ聞かせて」


 こちらのセリフをさえぎって、光莉はひとつ、訊いてきた。


「あんたはなんで、楽器を吹いてるの。それは、それは結局――」


 これまで、何度も何度も繰り返し聞いてきたそれを。

 彼女は改めて、問いてきた。


「――春日先輩のためなの?」

「……」


 あの人の名前を聞いて、鍵太郎は沈黙した。

 その様子を、光莉はじっと見つめていた。



###



 彼からかけられた言葉で光莉の脳裏をよぎったのは、野球部にいる彼の友人の言葉だった。

 『このままツンツンしてたら、そのうちあいつ自身が千渡さんの手の届かないところに行っちまうんじゃないかって、おれはそう思うんだけどなあ』――という、そのときは一笑に付した言葉を。

 だが今日ここにきて、その読みは当たっていたのだと気づく。彼は今日、これまでとは比べ物にならないくらい、はっきりと物を言ったのだ。

 挙げ句「嫌なら無理に付き合わなくてもいい」とまで言ってきた。代わりはいないとか言っておきながら、自分の代わりにあのホルンのちょっと澄ました感じの女を充てると言うのだ。

 そんなのは許せない。ありえない。

 だってこいつは、自分と約束したはずだった。

 なのになんで――と思うが、確かに考えてみれば、役割的にはそれで適ってしまっているのだ。

 ホルンはトランペットの目の前で吹いている。音はよく聞こえる。

 だからこそわかる。隣花はそれなりに経験を積んで知識もある。

 みなとは違った意見も言えるだろう。自分がいなくてもここは回るのだ――そう悟って、光莉はさらに震えた。

 彼はこれから、自分の手の届かないところで、ここにいるみなと一緒にうまくやっていく。

 ひょっとしたら本当に、部活を変えてしまうのかもしれない。

 でも、そこに自分がいないのは嫌だった。

 それだけは絶対に嫌だった。自分がいるはずだったところに、誰かがいるのが嫌だった。それを遠くで眺めて悔しい思いをするであろう、自分も嫌だった。

 そんなのは絶対に許しておけなかった。

 だから光莉は、彼に対して言った。


「――ねえ、ひとつ聞かせて」


 金賞を取るために部活を変えたい。

 そう言う彼の理屈はわかった。

 けれどそれでも、どうしても、どうしても、どうしても――納得いかないものがある。


「あんたはなんで、楽器を吹いてるの。それは、それは結局――」


 彼がこうまでする理由は。

 結局、それは――


「――春日先輩のためなの?」


 彼の隣にはいつも、その人がいる。

 ずっと近くにいたから知っていた。むしろ思い知っているからこそ――そう訊かざるを得なかった。



###



 さっきまで、いろんな人のことが頭をよぎっていったけど。

 最後の最後で出てきたのは、やはりあの人のことだった。


「先輩……」


 卒業式の日に見た、あの人の笑顔を思い出す。

 優しい人だった。温かい人だった。

 だからこそ、大好きな人だった。

 そんな人の笑顔を見つめて――


「……ああ、そうか」


 自分の心の中に、いつしか違う気持ちが生まれていたことに鍵太郎は気付いていた。

 ここに来る前に隣花に訊かれた、こうまで自分が入れ込む理由。

 それが、ようやくわかった。

 それはすぐ、そばにあったのだ。

 学校から持ってきた楽器を一瞥して――鍵太郎は光莉に言った。


「違うんだ。俺がこう言ってるのは、先輩と約束したからじゃないんだ」

「……?」


 意外そうに、不思議そうに首を傾げる光莉の向こうに――

 どこかの社会人バンドで今も楽器を吹いているだろう、あの人の姿が見えた気がした。


「金賞を取りたい。すごい演奏をしたい。それは、あの人に捧げるためじゃない」


 先輩、ごめんなさい。

 さよなら――。

 今も楽しそうに楽器を吹いているだろう、あの人の笑顔に別れを告げて――

 鍵太郎は光莉に、自分の思いを伝えた。



「俺は自分がそうしたいから、楽器を吹いてるだけなんだ」



 驚いたように目を見開く光莉の向こうで――

 今までより楽しそうに、あの人は笑ってくれたような気がした。



###



 床に置かれた楽器たちのひとつに、涼子が手を伸ばす。


「えーと。結局はもっと楽しく楽器をやろうってことでいいんだよね?」

「おまえはいつも単純でいいなあ……」


 この状況でも相変わらずの彼女に、なんだか妙に安心感を覚えて鍵太郎はそう言った。

 なんの秩序も法則もなくごちゃごちゃと置かれたケースたちの中から、涼子は自分の楽器を拾い上げる。

 そして彼女は、自分で勝手に『ミミちゃん』と名前をつけた学校の楽器を出した。


「難しいことはよくわからないんだもん。でもやるかやらないかで言ったら、やるしかないじゃん。そうでしょ?」

「だな」


 ことはそう単純ではないが、突き詰めていけばそこにたどり着く。

 やれやれ、まったくコイツには敵わないな――といつものように苦笑しつつ。

 鍵太郎はその場にいる全員を見渡して、声をかけた。


「――じゃあ、ちょっと楽器吹いて頭に酸素まわしたら。作戦会議といきますか」

「あ、打楽器のことを考えてない発言だー」

「これだから管楽器の人はー!」

「ちょ、二人で叩くな痛い痛い痛い! ごめんなさい!」


 打楽器ということでやたら腕の力がついてしまった双子に殴られる鍵太郎を尻目に、「……ま、ここまで来たら吹かないとね」と隣花がホルンを出し。

 咲耶も苦笑して、自分のクラリネットを組み立て始めた。そして音出しが始まる。

 それでよかった。

 だから双子たちから解放されて、鍵太郎は光莉に言う。


「な、千渡。おまえもそんな端っこにいないで、こっちに来いよ」

「う、うん……でも」


 なにやら顔を赤くして、挙動不審な様子であたふたしている彼女がなにを考えてるかは、やっぱり、さっぱりわからないが――それはこれから、おいおい訊いていけばいいだろう。

 なのでとりあえず、鍵太郎は彼女に向かって自分が思ったことを言うことにした。

 本人は忘れていたが――

 それは彼女をこの部に入れるとき、鍵太郎自身が言った言葉だった。



「なあ千渡、こっち来て一緒にやろうぜ。だってそのほうが――楽しいだろ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る