第146話 圧政には反乱を
学校が休みのはずの日曜日、
「……来たか」
他に生徒もいない、静かなそこに近づいてくる気配を感じて――鍵太郎は顔を上げた。
すると扉を開けて、同じ吹奏楽部の部員が入ってくる。
「――おはよう」
あいさつしてくるのは、鍵太郎と同い年のホルン吹き、
先日まで鍵太郎との仲はあまりよくなかったが、ある出来事を経て以来、こうして一緒に練習するくらいにはなっている。
そしてテスト期間に入り部活が休みになっている今日は、学校の音楽室ではなく特別に違う場所を借りて練習することになっていた。
何人かの例外はいるが、基本的に部員が使うのは学校の楽器だ。
そのため今日は三人ほどここに楽器を借りに来ることになっている。
なのであともう一名、トロンボーンの浅沼涼子が来ることになっているが――彼女はまだ来ない。
鍵太郎は軽く手を挙げ、「おはよう」と隣花に返した。
「浅沼が来るまでもうしばらくかな。とりあえず楽器準備して待ってよう」
「他には誰が来るの?」
「俺、浅沼、宝木さん、越戸姉妹、あと
「千渡?」
日曜日に、私服で学校にいる違和感のせいか隣花は落ち着きなさそうにしていたが、その名前を聞いてぴくりと反応した。
不思議そうに首を傾げて、言う。
「あいつ、こういうとこ来るんだ」
「なんだ。今度は千渡と仲が悪いとか、そういうこと言い出すんじゃないだろうな」
「いや、仲が悪いとかじゃないけど。というより、あんまりしゃべったことないのよね」
「そうなのか」
彼女の言うことが少し意外で、今度は鍵太郎のほうがきょとんとした。
その様子に、隣花は続ける。
「あんたらは気付いてないかもしれないけど。千渡はあんたら仲良しグループ以外には、あんまりしゃべらないよ」
「仲良しグループって……まあ、いいけど。そいうとこあるのか? 千渡って」
自分にはあんなに言いたい放題言うくせに、どうしてそんなことになっているのか。
いつも顔を真っ赤にして怒鳴り、ときには殴ってくるトランペットの女子部員の姿を思い浮かべ、鍵太郎は首をひねった。
しかしそう言われてみれば、出会った当初は少し遠慮があったような気もする。
その頃はそのときの本番限りのお手伝いとして来ていたので、あまり不自然には思わなかったが。そのうち自分に対する態度も変わっていったため、特に気にすることなく過ごしていた。
だが実は、未だに他の部員とはあまり打ち解けていないのだろうか。尋ねる鍵太郎に隣花は答えた。
「うーん。なんか一線引かれてるというか。人見知りなのかなあって最初は思ってたけど、それともなにか違うというか。なんなのかしらね。ちょっと壁を感じることがある」
「……そうなんだ」
同い年の自分の知らない面を話されて、鍵太郎は不思議な気分になった。
一年半近く同じクラスで同じ部活にいるが、まだまだ彼女のことはよくわかってないのだなと実感する。
だが、それが普通なのだ。
知っているつもりでも、他人のことは意外とよくわかっていない。
それはここ最近で、とてもよく思うことだった。
自分と他人は違う。
でもだからこそ、誰かと自分は違うものが見えていて――それが、なにかの手がかりになることだってある。
「……ひょっとしたら、その辺にあるのかな。千渡が本番に弱い原因」
そんな気がして、鍵太郎はつぶやいた。
彼女自身も自覚していない、無意識の弱点。
それがわかったら言ってやりたいなと前から思っていたのだ。
なので隣花に言われたことは、頭の片隅に置いておくことにする。その上で、改めて彼女の言動に引っかかるものがあれば――
そう考える鍵太郎のすぐ近くで、隣花が言った。
「ま、本気を出したときに誰かが本気で応えてくれるなら。千渡もそのうち、それがわかるんじゃないの」
私と同じように、ね。
なにかを吹っ切った顔で、隣花は自分の楽器を出している。
「この間、あんたが声をかけてくれなければ、私は今でも音が出ないことにイライラしてただろうし。初心者のくせにどういうわけか、経験者より積極的に動いてるあんたが近くにいたら。なんとなく、なにかに気付くかもしれない」
「……その初心者のくせにっていうの、そろそろやめてくれないかなあ」
隣花と対立する原因になったその経験の差について、鍵太郎は渋面でそう抗議した。
高校から楽器を始めたとはいえ、自分はもう二年生である。
初心者状態はさすがに抜けたと思いたい。そんな気持ちから出た言葉だったのだが、むしろ隣花はおかしそうにくすりと笑ってきた。
「あら。別に馬鹿にしてるわけじゃないのよ。むしろすごいなって思ってるんだから」
「すごいって、なにが」
「初心者ではあったけど、あんたはある意味、経験者より本気でこの状況にかかってるわよね。普通そこまで経験の浅い人は、そんなに入れ込まないと思うけど。あんたをそうさせる理由はなに? ちょっと気になるところではある」
「理由、か」
改めてそう訊かれると、すぐにははっきりとは答えられなかった。
全員が実力を発揮できていない、この状況が見過ごせないのもある。
そのせいで、部活の雰囲気が悪いのが嫌だからということも、ある。
他にも細々と思いついたが――それは結局のところ枝葉で、もっと本質的なものがあるはすだった。
それはなんだろうか。
腕組みして考えていると、いつの間にかすぐ近くで隣花の声がしていた。
「……じゃあ、私が本気であんたにかかったら」
ささやくように、耳元で。
彼女は楽しそうに、こちらに言ってきた。
「――あんたはそれに、応えてくれる?」
その声に、一瞬ぞくりと背筋が震える。
先日彼女に罵倒されたときとはまた違う、得も言われぬ迫力。
こちらの方がなぜこうなっているのかわからなくて、鍵太郎は身体を硬直させた。
怖い。なんか怖い。
蛇ににらまれたというか、なんだか既にもう巻きつかれた蛙みたいな気分だった。
なんなんだ、これは――と、混乱した頭でようやくそれだけ考えたとき。
新たな声が飛び込んできた。
「やっほー、湊! お待たせ!」
どバタン! と相変わらず元気よく扉を開けて入ってきたのは、浅沼涼子だ。
いつものポニーテールが揺れている。見慣れたそれになんとなく助けられた気分になって、鍵太郎は「お、おう浅沼、来たな」と彼女に駆け寄った。
「な、なんか助かった。なんだか知らんが助かった」
「うん? なんだかよくわかんないけど、それならよかった!」
「ちっ」
後ろから聞こえてきた隣花の舌打ちが、妙に怖かったのだが。
怖すぎて振り向けなかった。しかし、涼子はすぐに隣花に気付いたようで「あれ、片柳さんもいる」と不思議そうに言う。
「練習だっていうから、いつものメンバーだと思ってたけど。他にも誰か来るの?」
「おまえ、声かけたときに言ったろうが……。あとは越戸の双子も来るぞ」
「ゆかりんとみのりんも来るの? へー、なんか今日はすっごいおもしろそうだね!」
「相変わらずぜんっぜん人の話聞いてねえのな、おまえ……」
来るメンバーについては、事前に言っておいたはずなのだが。
こちらもこちらである意味怖くて、鍵太郎は半眼になった。ただ涼子の場合はあっけらかんとしているため、いつものようにそれが「しょうがねえなあ」という苦笑に変わってしまう。
ともあれ、これで学校集合組のメンバーは揃った。
準備が出来次第、練習場所へと向かいたい。そう思い涼子に「じゃ、楽器持ったら行くぞ」と声をかける。
「他のメンバーは駅から直接だから、もう待ってるかもしれないな。急ごう」
「というか湊、なんかいつもと雰囲気違うね。今日なんかあるの?」
「ああ、それは――」
涼子の素朴な疑問に口が開きかけて、しかし鍵太郎はそこで動きを止めた。
どうせここで言ったところで、また全員が揃ったら話すことになるのだ。
ましてや相手が涼子では、ちゃんと聞いてもらえるかすらもわからない。なので鍵太郎は彼女に、「むこうに着いたら話す」とだけ答えた。
「え、教えてよ」
「言ったところでおまえはどうせ聞いてないんだろうが! まあ、さっきおまえが言ったような『すっごいおもしろいこと』にはなるかもしれないけどな」
「え、ほんと!?」
なら大歓迎! と彼女が楽器を取りに走っていくのを見送って――やれやれ、と苦笑と共に鍵太郎は一息ついた。
だが今度は、今のやり取りを見ていた隣花が訊いてくる。
「あんた、なにか企んでるの?」
「企んでる……ってほどじゃないけど」
こっちもこっちで、なんか苦手だなあ。
そう思いつつ「でも、結局そういうことなのかな」と鍵太郎は言った。
だがそんな曖昧な答えでは、隣花は納得してくれなかったらしい。
切れ長の目を細め、彼女はさらに追撃してくる。
「なんか煮え切らないじゃないの。本気でやるんでしょう。教えなさいよホラホラ」
「ああ、やっぱなんか怖いぞこいつ……」
ああそっか、なんかずっとこいつが苦手な気がしてたのは、うちのねーちゃんと名前と雰囲気が似てるからかもしれないな――などと、現状と関係ないことを思いつつ。
少しだけ鍵太郎は、隣花の問いに答えることにした。
『民衆を導く自由の女神』。
コンクールでやるその曲が、頭の中に流れていて――
「いやあ。俺ひとりの力じゃ、現状がどうにもならないんだったらさ」
曲のイメージを、思い描く。
「反乱軍でも作ろうかなって、そう思っただけだよ」
自由を求めた名もなき民衆。
革命の旗印。
他人のことも、自分のこともよくわかっていないけれど――
それでも曲は、鳴り止まなかった。
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