第145話 支配の術式
「自分が正しいと思う方向を、誰の文句も言わせないくらい精密に作りこんで、誰よりも早く強烈に叩きつけろ――」
忘れたわけではなかったが、ただ改めて確認したかったのだ。
あいつが使った、まるで魔法のようなその方法は――
「……」
言ってしまえば、支配の術式と呼ぶべきものだった。
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音楽室は相変わらず、ピリピリした雰囲気に包まれていた。
「もう少しで期末テストの部活休止期間に入ってしまいます! 各自できるだけ、自分のパートを詰めておくように!」
『はーい……』
部長の命令に、部員たちは口々に返事をした。その返事すらもバラバラで、鍵太郎はどうしたものかと天を仰いだ。
もうすぐ期末テストだ。六月末のそれの前は、部活はできなくなる。
それはさすがの部長でも動かしようがない。いくら部活に対してやる気があろうとも、学生の本分は部活ではなく勉強である。
三年生にとって最後の吹奏楽コンクール、その県予選は七月中旬にある。
テスト期間が明ければあっという間だ。なので、今のうちにできることをやるに越したことはない。それは部長の言うとおりなのだ。
その通りなのだが――
「……これでしばらく、平和な日々が送れるね」
「……早く今日の部活終わらないかなあ」
そうささやき交わす一年生たちの声が耳に入ってきて、ああもうこれは本格的にダメだぞと、鍵太郎は今度は頭を抱えた。
やる気がありすぎる三年生たちに、一年生の方がついていけてない。
この結束力のなさが肝心の演奏にも表れていて、曲の仕上がりは順調とは言えなかった。
『民衆を導く自由の女神』――そんな曲のタイトルが、もはや皮肉にしか聞こえない。
このままではコンクールで金賞なんて取れないだろうし、そのうち部活を辞める一年生も出てくる。それは二年生の鍵太郎にとって絶対に避けたい事態だった。
なんとかしなければならないのだ。
後輩の言葉に耳を貸さない三年生も、怒られるのが怖くて萎縮している一年生も――
「……やばい、考えててとんでもなく気が重くなってきた」
そこまで考えて、鍵太郎はふるふると首を振った。部活の雰囲気にあてられて、思考がどんどん暗いほうに引っ張られている。
こんな状況だからこそ、二年生の自分はしっかりしなければならないのだ。傍らに置いてあった大きな楽器を持ち上げる。とりあえず吹かなければ、なにも始まらない。
重さ十キロの金属の塊、低音楽器のチューバは、いつも通りかなりの肺活量を必要とした。
選抜バンドに行ったときに言われたように、まずは思い切り息を吹き込んで、心と身体のエンジンをかけていく。
やがて音楽室の壁が震えるくらいに音が出てきて、やっぱりあの選抜は行ってよかったんだなと鍵太郎は思っていた。
考え方の合わない人間もいたが、あそこで教わったことはだいぶ自分のレベルアップにつながっていたのだ。そのときは気付かなかったが、自分の学校に帰ってきてだいぶ音が出るようになっていたのは驚いた。
そう思わせるほど、選抜バンドはすごかったのだ。
学校も考え方もバラバラだったのに、たった二日の合奏で本番ではすごい演奏をしてみせた。
――それに引き換え、ここはどうだろうか。
周りの状況を見渡して、鍵太郎は再び重い気分になった。
がんばって必死に出そうとしているのは、わかる。
けれどそれがかえって力みになって、音が響かなくなっていた。
選抜とはえらい違いだ。またこんな演奏をしたいと思って帰ってきた鍵太郎にとっては、その音はなんとなく足を引っ張られているような、そんな微かな苛立ちを感じさせるものになりつつあった。
そうじゃないだろう。
そう全員に向かって叫びたくなるような、そんな音が――
「……お?」
と、その中から少しだけ抜け出してきた音があって。
鍵太郎はぴくりと反応した。
息苦しい、冷たい海を突き破ろうと咆えている、彼女の音。
それは去年聞いていたあの、象の遠吠えに似ていて――
鍵太郎と同じ二年生のホルン吹きは、自分にまとわりつく破れそうで破れない薄い膜を、必死に打ち破ろうとしているように見えた。
###
そういえば選抜から帰ってきても、隣花とはまだ話していなかった。
「なーんか、避けられてる気がするんだよなあ……」
そう、鍵太郎は歩きながらつぶやいた。それは彼女との間にあったことが原因なのだ。
書類選考で偶然なのか運なのか、選抜バンドに選ばれた自分。
そして中学からの経験者ではあったが、選ばれなかった隣花。
一年のときからなんとなく、経験の差で彼女の方が上のような気がしていた。鍵太郎が初心者でホルンを吹けずチューバに異動になり、その後に彼女が入部してホルンで上手くやっていたため、余計そんな図式ができあがっていたというのは、ある。
だからこそ彼女は、選抜の選考結果に納得がいかなかったようだ。
はっきりとそう言われたわけではないが、こちらをじっとりとにらんでくるその視線からは、話しかけないでほしいという気配がひしひしと伝わってくる。
「……」
「は、はは……」
なので自分の横にやってきた鍵太郎を――片柳隣花は、無言で出迎えていた。
すらりとした手足。切れ長の瞳。
そんな彼女にそうされると、引きつり笑いとともに冷や汗が出てくるのを感じる。
隣花とはそういった経緯があるわけだが、しかし彼女だって、自分がそんな感情を抱いていること自体が嫌なはずだった。
きつい態度は見せても、具体的な文句はなにも言ってこないことからして、そんな気がする。
あとは時間の問題で、彼女が納得してくれれば自然と雪解けができるよ――と言ってくれたのは、同じく選抜に行ったクラリネットの同い年だが。
選抜の本番を聞いて、隣花が拍手をしてくれていたのを鍵太郎は見ていた。
こちらへの感情も少しは和らいだのではないか。そう思って、こうして話しかけてみたのだ。
果たして隣花は、その閉ざされていた口を開き、鍵太郎に言う。
「……なにか用?」
「あ、うん。あのさ」
先ほどの彼女の音。
もう少しでなにかが変わりそうな、そんな気配のするそれは、鍵太郎に選抜バンドでの音を思い出させていた。
「片柳、もうちょっと力抜いた方が……いいんじゃないかな。その方が、きっと音が伸びると、思う」
最近、部員を見るたびに思っていたことを鍵太郎は隣花に言った。
選抜のメンバーは、もっと楽に吹いていた。
なのにあんなに音が出ていたのは、余計な力を入れず、響きを殺さないで出していたからだ。
なら隣花も、そうすればもっといい音が出せるのではないか。
先ほどの彼女の様子からして、もう少しでなにかが変わりそうな気配はある。
ならば自分は、それを助けてやりたい。
そう思った。
「すごい苦しそうに見えたから……そうじゃなくてさ。もうちょっと自然に息吸って、出したほうが」
まだ彼女とのわだかまりが完全に解けたわけたわけではないけれど、これがきっかけになれば――
鍵太郎がそう思っていると、隣花は言ってきた。
「……偉そうに私に教えに来たの、あんたは」
「いや違う、そうじゃなくて」
隣花が感情を抑えるように低い声でうなったので、慌てて鍵太郎は否定した。
かつて自分は、このホルンという楽器が吹けなかった。
もう卒業してしまったあの先輩は、丁寧に教えてくれたものだが――結局、自分はその期待に応えることはできなかった。
けれど、隣花なら。
「おまえなら、
あの鋭い、しかし朗々とした響きを持った象の遠吠えを、彼女なら。
もう一度聞かせてくれるんじゃないか――そう願う鍵太郎の耳に、隣花の鋭い声が飛んできた。
「あんたが、海道先輩を語るな……っ!」
「……!」
これまでなかった激しい拒絶に、鍵太郎はびくりと身をすくませた。
それに隣花は、一瞬「しまった」という顔をしたものの――
押さえていたものが爆発してしまった勢いが止められなかったのか、そのまま叫んできた。
「ホルン吹けなかったあんたが、知った顔で先輩のこと言わないでくれる!? 初心者のくせに。できなかったから他の楽器まわされたくせに……っ! ちょっと選抜に行ったからって、偉そうに私に説教しないでよ!」
「……あ」
予想以上に、彼女の嫉妬は根深かった――
それを思い知らされる形になって、鍵太郎は身を引いた。
これ以上は、なにを言っても逆効果だ。
そう悟って、ただ一言告げる。
「……ごめん」
「……」
返事はなく――
気まずそうに視線を逸らす隣花の前から、鍵太郎は無言で立ち去った。
###
「……なんなんだろうなあ」
自分の席に戻りつつ、鍵太郎はそうつぶやいた。
少し、疲れてしまった。
なんだか最近、なにもかもがうまくいかない。
三年生は暴走しているし、一年生はこの場をやり過ごすことしか考えていない。
結束すべき二年生には呼びかけても拒絶され、結局なにも変わらないまま――自分はこうして、ひとりでいる。
「……」
誰もが、自分が上手くやることしか考えていなかった。
だからこそ、ここはバラバラで――誰もが自分の望むものを、手に入れられそうになかった。
「……『民衆を導く自由の女神』」
曲のイメージなど、どこにも見えなかった。
上手くやろう上手くやろうとして、かえって音が死んでいく。
自分が大好きなものが、単なる空虚な振動になっていくその様子は――鍵太郎にとって、我慢のならないものだった。
「……なんとか、しなくちゃ」
重い身体を引きずって席に着き、自分の楽器を持ち上げる。
言って駄目ならせめて楽器を吹いて――なんとかするしかない。
自分の音で。
ここを変える、と。
選抜バンドから帰ってきたときは、そう思っていた。
でも、変わらなくて――
なら、どうすればいいのか。
「……なにが足りないんだ」
この望まない状況をひっくり返すために、必要ななにか――
それはなんなのだ。
そう思ったとき。
かつて選抜バンドに行ったときに言われた言葉が、口をついて出てきた。
「――人に頼るな」
それは選抜バンドで出会った、ひとりの強豪校の生徒に言われたものだった。
おまえにはそれが足りねえんだよと――出会ってすぐに言われたことを思い出す。
「――流れは自分で作り出せ」
隣で吹いていたあいつは、そうやって――選抜バンドの音を、恐ろしいほど思い通りに動かしていったのだ。
「自分が正しいと思う方向を、誰の文句も言わせないくらい精密に作りこんで、誰よりも早く強烈に叩きつけろ――」
けどそれを今まで使うことをためらっていたのは――そうしてしまったら結局、部長がこの強豪校のやり方を参考にしたことまで、肯定してしまうような。そんな気がしたからだ。
だけどもうそんなこと――言ってられないのかもしれなかった。
誰も言うことを聞かない。
誰も自分のことしか考えていないのであれば――
「……もうそれごと全部、飲み込んじゃえ」
全部の音を背負う、最低音楽器チューバ。
バンドの土台であるそれは――だからこそ、全部を変える力を持っている。
望まないこの状況を動かす、最善の手段がこれというのはひどく――本当に、ひどく皮肉に思えたが――
「……」
もう、限界だった。
バラバラに分解しそうなこの音たちを、自分の音で無理やりにでもまとめられるのなら――相容れない考え方だろうがなんだろうが、使うしかない。
「……やって、やる」
一切合財、全部飲み込んで――
「……」
鍵太郎は今までよりも強烈に、音を出した。
大きな音を出して無理やりそちらを向かせるように、全員の注意を引いていく。
誰よりも早く。
文句を言わせず。
そんなことをしているうちに、鍵太郎はバンド全体の音が少しずつまとまりだすのを感じていた。
それはそうだ。
音楽的に正しいと思えば、三年生はなにも言わない。
なにも知らない一年生は、先輩が正しいと言えばついてくる。
自分がどんな思いで吹こうが、なにを考えていようが関係ない。
上手ければいい。
まとまればいい。
どんなに過程がおかしかろうと、結果が出ればそれが全て。
意図したとおりに曲が流れ出すのを感じて、鍵太郎は胸のうちに乾いた笑いが起こるのを感じていた。
なんだ。
結局これが『正解』か。
あんなに自分があがいていたことは、いったいなんだったんだろう。
でももう、これでいいや。
曲のイメージなんてもうひとつも見えないけど、ここがまとまるならそれでいい。
自由もない。
女神もいない。
雨は止んだはずなのに、先生の言うような『虹』なんてどこにも見えなかった。
結局ここは真っ暗で、真っ黒で。
ただ一色に塗りつぶされていた。
それはそうだ、だって自分がそうしたんだから。
そのとき、先ほども聞こえた音が耳に入ってきた。
突き刺すようで刺しきれていないそれは、片柳隣花のものだ。
けど、もうそれも関係ない。
タイミングと流れはこちらの味方だった。気にせずに、こちらの意図するところに誘導していけばいい。
そう思って隣花の音に触れようとしたとき――
彼女の音が。
こちらの頬を張り倒すような勢いで。
鋭く、懐かしく――咆えあがった。
「――!?」
絶句した鍵太郎をよそに――
『ホルンを台座にさせてもらう』と言っていたトランペットの地味な先輩が。
それを耳ざとく聞きつけて、覆っていた闇を吹き飛ばすかのように――光の矢を吹き上げた。
「……」
自分が持ってるものを否定しないで――
そう言っていた先輩が、ぶっ壊して粉々にしたその黒を。
あっけに取られて見た鍵太郎は。
「……は、はは」
先ほどまでとは違う衝動に。
「あ、あっははは、あはははは――!」
これ以上愉快なものはないという勢いで、笑った。
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「さっきは、ごめん」
練習が終わって、隣花はそう謝ってきた。
「ちょっと私は……冷静さをなくしてた。ごめん。本当にごめん。さすがにさっきのは言いすぎだった」
「いや、いいよもう」
頭を下げてくる彼女に、鍵太郎はそう言って苦笑した。むしろ、こちらが礼を言いたいくらいだった。
「俺は初心者でこの部に入って、ホルンが吹けなくてチューバに回されたんだ。けど別に、それでよかったんだ。それでよかったって――さっきそう思えたんだ」
だから自分は今こうしてチューバを吹いているし、隣花はホルンを吹いている。
別々のものを持って、お互いにがんばっていた。
それでいいのだ。そう思えた。
だから鍵太郎は笑って、隣花に言った。
「俺もどっか、調子に乗ってたと思うんだ。だから片柳がカチンと来たのも当然だよ。ごめん」
いつの間にか自分がここを変えてやるといったような、上からの目線になっていた気がする。
それを彼女は今までの経緯もあって、敏感に察したのだ。相手の気持ちを考えずに言いたいことを言ったのは、こちらも同じだった。
だからもう、謝る必要はない。
鍵太郎がそう言ったことに対して、隣花は少しほっとした調子で「……ごめん。ありがとう」と言った。
「海道先輩は、よくあんたのこと話してた。だから私は、余計にあんたのことをライバル視してたのかもしれない」
「まあ、気にかけてはくれてたんだろうな。でも、先輩の後継者はおまえだよ。俺じゃない」
隣花の先ほどの音を思い出して、鍵太郎は言った。
凛として咆えあげるその音は、卒業したあのホルンの先輩を思い起こさせるものだった。
きっと先輩が先ほどの自分を見たら、思い切り横っ面を張り飛ばしていたろう。
そう思うと、また笑いがこみ上げてくる。
肩の力抜いて――姿勢よくして。
胸張って前を見てちゃんと練習してれば、なんだこんだもんか、ってくらい簡単にできちゃうもんだから――かつて本当に初心者だったとき、自分はそう教えられたのだから。
それなのに、今度もまた焦って踏み外しそうになっていた。
だからあの人は怒りにきたんだ。それが妙に嬉しくて笑っていると、隣花には怪訝な顔をされた。
「……なに笑ってるの? 変なヤツ」
「いやあ、全力出したときに誰かが本気で応えてくれるっていうのは、楽しいなって思ってさ」
「……そうね」
それは――楽しいわね。
そうつぶやいて、ふっと隣花は微笑んだ。
「さっきも、言われたときはこの野郎って思ったけど。力を入れすぎだったっていうのは、後になって冷静に考えてみると確かにその通りだなとも思って――だからさっきは、言ってくれて助かったの。ありがとう」
「……そっか。ああ。そっか――」
自分が言ったことは、決して無駄にはなっていなかった。
それがわかって、改めて鍵太郎は笑った。
危うく早とちりして、全部を台無しにするところだった。
「あーあ。やっぱり俺、まだまだヘタクソだな。がんばらなくちゃ」
そう言って、池上、ごめんな――と、心の中でつぶやく。
未熟な自分は選抜バンドで彼が教えたくれたことを、完璧に実行することなどできなかった。
魔法のような支配の術式は、不完全なものとなって。
自分ができたのは結局――誰かと一緒に吹くことだけだった。
でも、それでよかった。
これが、自分の音なのだ。
ようやく――思い出した。
「よーし。なんだか少し、見え方が変わってきたぞ……!」
閉ざされてきた視界が開けて、新しいものが見えてきた。
自分はまだまだヘタクソで、どうしようもないが――それでも、できることはある。
持ってるものが役に立つのなら、どんなものだって使ってやる。
「そうだ片柳。今度のテスト期間の休み、練習できるところあるんだけど――」
ふと思いついたことがあって、鍵太郎は隣花にそう声をかけた。
万策尽きたと思うことがあっても。
信じるものがあればまだ次の手は――残されている。
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