第143話 最低音と最高音

 湊鍵太郎みなとけんたろうにとってその人は、大ボスというよりは裏ボスのような存在だった。


「部長より怖い副部長って、いったいどういうことなんだよ……」


 そうつぶやき、視界の端にいるその人を盗み見る。

 フルートの三年生、関掘まやか。

 自分とは全く違う繊細な銀色の楽器を構え、一心不乱に練習する姿に去年の記憶がよみがえり――鍵太郎はその苦いそれに、顔をひきつらせた。



###



『誰かに守られるキミじゃなくて、本気のあなたで来なさい』――

 去年そう言われたときは、意味がわからなくて本当に困惑した。

 彼女の意図するところを知った今だって、同じことを言われたらできるかどうかはわからない。またあのときのように厳しい眼差しでじっと見られたらと思うと、身体中から冷や汗が出てくるのを感じる。

 そのくらい、鍵太郎にとって関掘まやかという先輩は苦手な人だった。

 そう言うと、打楽器担当の越戸姉妹は言ってくる。


「でもさ。関掘先輩が味方についてくれたら、これほど心強いことはないよ」

「さすがの貝島先輩も、考え直さざるを得ないと思うんだよね」

「そこまでさせるって本気で裏ボスじゃねーか、あの人は……」


 頑なな部長を説得するには、副部長を味方につけたほうがいい。

 二人のその言葉に一理あるのはわかるのだが――問題は、まやかの方がかえって交渉の難易度が高いということだった。

 練習熱心なのは副部長も同じだ。

 そしてそれを、周囲にも求めてくるというのも。

 そんな人にどうやって対抗したらいいのか。そう言うと、二人は首を傾げる。


「まあ、あの人は演奏のことにしか興味なさそうだもんね」

「部の雰囲気が悪いからどうにかしてって頼んでも、聞いてくれなさそうだねえ」

「ああ、そうだろうな……」


『大切なのは、今度の本番でいい演奏ができるかどうかだけ』――まやかの声が再び頭の中で聞こえてきて、鍵太郎はゾクリと寒気を覚えた。

 そう、彼女は演奏のことしか頭にない。

 高校から初心者で始めた人間にだろうが、おかまいなしで対等にやることを要求してくる。

 ならば演奏関連のことに話を持っていくしかないのだ。寒気をおして鍵太郎は、まやかのことを考えた。

 自分と彼女が共通して考えられる部分はどこなのか、そこを考える。


「……今の部活には、関掘先輩が求めてくるような音を出せる人間は、ほとんどいないんだよな」


 大半の部員が大会に向けて必死に音を出そうとしているわりに響かず、それが焦りを呼んで、かえって音が出なくなるという悪循環に陥っているように見える。

 それはこちらも、まやかも望むことではないはずだ。

 ならばそこに話し合いの余地がある――と、思う。


「部の雰囲気を改善することは、演奏の改善にもつながるんだって。そう訴えれば、多少は考えてくれるんじゃないか……たぶん」


 治まらない震えが言い切ることを邪魔するが。少なくともこのままこの状況を放っておいて、いい結果が出るとは思えない。

 なにかを変えないといけない。

 そう強く思う鍵太郎の言葉は、音にはなっていないが本気のものだった。

 そんな必死の思いを感じ取ったのか、越戸姉妹はうなずく。


「ま、とっかかりはそこじゃない?」

「湊の様子を見たら、あのおっかない先輩も少しは心を動かしてくれるかな」

「うん。とりあえず……やるだけやってみるつもりだ」


 二人が賛同するのを見て、鍵太郎もうなずいた。そう、今年は去年とは違うのだ。

 あの人は怖いけど。本当に怖いけれど。

 それでも、やれることはやっておきたかった。

 すべてが終わった後で悔やむのは、もう嫌だった。


「……よし、行ってみるか」


 覚悟はできた。

 深く息を吸って吐き、鍵太郎は顔を上げた。



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 『静かなるタカ派』――と、まやかが呼ばれるようになったのは、鍵太郎が入学する前、彼女が一年生の秋の頃だったという。


「『お姫様みたいだと思った』、ねえ……」


 歩きながら首をかしげる。入部当初のまやかはそんな感じだったと、バスクラリネットの先輩から聞いていた。

 今では全く想像がつかないが。

 もしできるなら、そんな彼女を見てみたかったと思う。

 同じ楽器の先輩が突然いなくなるなんてことがなければ、まやかは変わることなく、そのまま自分と会うことになっていたはずなのだから。

 けれど、それはもう叶わぬことだった。

 だから鍵太郎は、今そこにいる関掘まやかに話しかけた。


「先輩、お話があります」

「――なに?」


 振り向いた彼女はやはり、鍵太郎のよく知るひとつ上の先輩の顔だった。

 あのときの、こちらを覗きこんでくるかのような眼差しを前に――鍵太郎は口を開く。



###



「そういう話には乗れないわ」


 ひと通りを伝えて、まやかから出てきたのはやはり拒絶のセリフだった。

 なんとなく、それは予想していた。だからここからが勝負だ。

 あきらめるな食い下がれ――と自分に言い聞かせ、鍵太郎はまやかに言う。


「このままじゃみんなバラバラのままコンクールに行くことになります。それはまずいでしょう」

「だからといって練習をゆるめるというわけにはいかないでしょう。あなた金賞取りたくないの?」

「取りたいから言ってるんですよ。こんな風に押さえつけたままじゃ、誰も実力なんて発揮できない。それは先輩だって望むところじゃないでしょう」


 誰よりも自分と、対等に吹くことを求めてくる彼女だ。それとかけ離れた現状に、思うことはあるはずだ。

 先日の合奏はみな必死で、楽譜にかじりついて吹いていた。

 だからこそ自分のことしか見えなくて、隣の人のこともわからなくなっている。

 バラバラになっている。

 あんなに人数がいるのにひとりで吹いているような気がして、それがかえって孤独感を深めていた。

 合奏で感じた憤りのままに、鍵太郎はまやかに訴える。


「練習しなきゃいけないなんて、そんなのみんなわかってるんですよ。なのにどうして今こんなになってるかって、みんな失敗して先輩たちに怒られたくないからなんですよ」


 いい演奏をしたいという目的は、ここに来た以上みな同じのはずだった。

 だが今は大半の部員の目的が、いい演奏をすることから怒られないことにズレてしまっている。

 そんな気持ちで吹いていいものができるはずがない。曲の本質も目的も見失って、やるのはただ『間違えない』ことだけ。

 そんなのは、機械の所業だ。いや――


「間違えないだけ機械の方がまだマシだ。なんの心もこもってない演奏なんて、そんなの合奏だなんて言えないでしょうが……!」


 音の羅列。楽譜のコピー。

 ずっと曲のはっきりとしたイメージがわかなかった。

 その原因はこれだ。元から曲の本質になんて、たどり着こうとしていない。

 自分の『正解』を出して拒絶されるのが怖い――そう思わせているのは、あなたたちだ。

 鍵太郎がそう突きつけるのに、まやかはため息をついて答えた。


「……『そんなの合奏だなんて言えない』、か。あなたも春日先輩と同じことを言うのね」

「……あの人のことは」


 知らず知らずのうちに卒業した先輩と同じことを言っていたと逆に突きつけられ、鍵太郎はわずかに動揺した。

 結局おまえは、去年となにも変わってないじゃないか――その小さな揺らぎに氷の刃を差し込むように、まやかは言ってくる。


「その春日先輩のやり方で去年金賞を取れなかったから、今年はこうしているのだと思ったけど」

「あれは間違いなんかじゃない、春日先輩は」

「結局あなたもあの人に嫌われるのが怖くて、そんなことを言っているようにしか見えないのよね……」


 違う、とここで言ったところで。

 まやかに信用してもらえないのは明らかだった。

 どうすればいい――次の手を必死に考える鍵太郎に、まやかは突きつけた刃を振るう。


「音が出ないなら自分で出るようにすればいい。楽譜にかじりついてしまうのなら覚えるまでやればいい。あなたが言っていることは、周りの環境に負けて努力することを放棄した人間の言い訳にしか聞こえないわ。実力を発揮できないとか言う前に、自分で居場所を変える努力をしてみたらどうなの」

「そりゃあ、先輩はそう言えるのかもしれませんけど……っ」


 かつてひとりで残され、そしてひとりで自分を救ってしまった彼女に、鍵太郎はわずかに抵抗した。

 みんながまやかのようだったら、それは強くて、すごい演奏になったかもしれない。

 けれどここは――まったく別の人間のいる、誰もが違う舞台の上だった。

 抱える思いも手にする楽器も違う。

 他人が自分と同じ考え方をしてくれるとは限らない。何度もそう痛感してきている鍵太郎は、まやかに言い返した。


「けど、そう考えられない人だっている。そんな人たちに、あなたの通ってきたのと同じ道を突きつけるのはおかしいでしょう……!」

「逃げるための言い訳ならいくらでも思いつくわ」


 鍵太郎のわずかな抵抗に止めを刺すように、まやかははっきりと言い放った。


「そんな風に言い訳をして、なあなあになって今年も銀賞だなんてことにならないように、優はああして嫌われ役を自分から買って出たのよ。あなたにあの子の気持ちがわかる? 一番好きな人のやり方を否定してまで上に立つ覚悟をしたあの子のことを、あなた程度が否定しないで」

「……上に立つ覚悟って、なんですか」


 自分とはまったく逆の決意の形を聞いて、鍵太郎はうなるように言った。

 こうして話す覚悟なら、ここに来る前に済ませてきている。

 そうではない、まるで別の覚悟というのは――


「切り捨てる覚悟。嫌われるのを承知で、人に指導する覚悟。あまたはまだそれを持っていないでしょう。……そういう人間は、いつか裏切っていなくなる。耳当たりのいい言葉しか言わないあなたよりも、優の方がいくぶん信用が置ける」

「そんなもん、確かに持ってないですけど……!」


 上に立つ覚悟。切り捨てる覚悟。

 そんな大層なものは持っていない。

 立場も音域も最底辺で、そんな自分が他人の上に立って、誰かを切り捨てるための覚悟なんて持っているはずがなかった。

 だから――鍵太郎は自分の覚悟を、まやかにそのまま叩きつけた。


「そんなこと言うんだったら、あんたたちはどうして人の手を取る覚悟を持たないんですか……っ!」

「……!」


 勢いのまま叫ぶ鍵太郎に、副部長はぴくりと反応した。

 けれどそれに構っている余裕もなかった。

 去年と違ってこの問題は、自分だけのものではなくなっているのだ。苦しんでいるのは自分だけではなく、周りの人たち全員だった。

 それを黙って見過ごすなんてことは、鍵太郎にはできなかった。

 全員の音を背負うのは自分の役目――バンドの最低音を務める楽器吹きとして、鍵太郎はまやかに言う。


「馴れ合いじゃない、そんな形で人とつながる覚悟を、そこまで考えてるあんたたちはどうして持てないんですか! 自分たちがやりたいことを人に押し付けて勝手に突き放しておいて、這い上がってくるのをただ黙って見てるだけのあんたたちを、他の人がどれだけ怖がってるかわかってるんですか!? あんたたちこそ、人と関わるのがめんどくさくて、言い訳して逃げてるだけじゃないですか!」

「……」


 まやかは。

 誰よりも本気で対等に吹いてくれる誰かを求めていた彼女は、その咆哮を黙って聞いていた。

 じっとこちらを見てくる彼女に向かって、鍵太郎はさらに叫ぶ。


「あんたたちがそんなことを言い続ける限り、望むものは絶対に手に入らない。切り捨てる覚悟なんてそんなこと言ってるうちは、ここをまとめるなんていつまで経ってもできやしない! そんなのはあなた自身が変えてくださいよ関掘先輩、あなたはそんな結末なんて、絶対望んでないはずでしょうが!!」

「……」


 答えはない、が――

 少なくともまやかは、こちらの言うことに聞く耳は持ってくれたのが鍵太郎にはわかった。

 最低音と最高音。

 自分とは一番離れたところにいる彼女に、この声は届くだろうか。

 沈黙を破って、副部長は口を開く。


「……じゃあ、どうすればいいの」

「……先輩」

「単純に手を取るだけで解決する話じゃないのは、あなたもわかるはずよ。今それをやったら、去年のあなたの繰り返しになるだけ」

「……それは」


 自分の経験を振り返ると、それで万事解決する――とは、鍵太郎も言い切れなかった。

 まやかはゆるゆると首を振る。


「……今は他に有効な手段が見つからない。やり方を変えても、あなたはともかく他の部員がちゃんとやるかわからない。だとしたら今年で最後のわたしたちは、その話に乗るわけにはいかないの」

「……っ」


 三年生は、最後だから。

 そう言って自分と違う道を進むと決めてしまった他校の生徒のことを思い出し、鍵太郎は奥歯を噛んだ。

 けれど――


「……わかりましたよ」


 こちらに背を向けてしまったまやかに、それでも鍵太郎は言葉をかける。

 選抜のときは見送ることしかできなかったその背中だが、今はそうじゃない。

 きみの行く道は、僕らにはできないことができる――別れる寸前にかけられた、その言葉を思い出しながら。

 鍵太郎は、交わらない平行線に手を伸ばす。


「探せばいいんでしょう、その他の有効な手段ってやつを!」

「……」


 覚悟を決めたら最後まで貫く。

 ここは自分の居場所だ。

 あきらめることはできない。


「ああもう、なんだってんだちくしょう……!」


 ドタドタと。

 それこそお姫様のようにワガママな彼女に、再びかける言葉を探すため――鍵太郎はその場を後にした。



###



 楽譜に『火のようにコン・フーコ』と書かれているのを目にして、関掘まやかは楽器を吹く手を止めた。


「……」


 火のように。

 それは彼女がやったつもりで、しかしできていないと先生に言われたものだった。

 自分にはなにが足りないのだろうと思っていたが、それは――


「……『火のように』っていうのは」


 彼の去った方向を見て、ふと彼女はこぼした。


「ああいうことを、言うのかしらね……」


 自分に向かって本気で叫んだ彼を思い出しながら――『静かなるタカ派』は、練習を再開した。

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