第141話 雨が止んだら

「六月に入って、本格的にコンクールシーズンの到来です!」


 その日の部活が始まって、吹奏楽部の部長である貝島優かいじまゆうがそう叫んだ。


「楽譜を配って一ヶ月、もう譜読みはできたことでしょう! これからはさらにビシビシいきますよ!」

『……』


 腕を組んで仁王立ちする部長に、部員たちはそれぞれの反応を示す。

 湊鍵太郎みなとけんたろうはそれを見て、おおまかにその反応で部員が学年別に分けられるなと分析していた。

 来るべきコンクールに闘志を燃やすのは三年生。

 これ以上厳しくするのか、とうんざり気味なのは一年生。

 二年生はその両方が入り混じっている。なので一番混沌としているのは、実は自分たちの学年かもしれない。

 しかし全体で見れば、相変わらずいろんな意味でバラバラなことに変わりはなかった。

 わかっているのかあえて無視しているのか、部長はいつもの厳しい眼差しで続ける。


「今日は城山先生がいらっしゃいます! 気合いを入れて吹いて、指摘されたことは今後の課題として持ち帰るように!」

「……課題」

「そう、課題です!」


 鍵太郎のつぶやきに、優は反応した。


「各自の苦手分野があると思います! それを潰して、より演奏を完璧なものに仕上げていきましょう! 川連二高吹奏楽部、今年こそ金賞です!」

『……』

「返事ーッ!!」

『は、ハーイ!?』


 優にせかされて、やはりバラバラに返事があがった。

 こりゃ演奏もどうなることやら。

 その光景に鍵太郎は、こっそり額を押さえた。



###



 課題を克服することが、演奏の向上につながる。

 それはまあ、確かにそうなんだろうなと鍵太郎も思っていた。


「それじゃあ、始めますかー」


 吹奏楽部の外部講師である城山匠しろやまたくみがそう言って、コンクールで演奏する『民衆を導く自由の女神』のスコアをめくる。これから合奏をするのだ。

 そうすれば優の言うとおり、それぞれ課題が見えてくるかもしれない。

 かもしれないが、それ以前の問題として思うのは――


「……その課題が自分で正確にわからないから、俺たちはこんなに間違い続けてるんじゃないか」


 鍵太郎は誰にも聞こえないように、そうつぶやいた。

 同い年のトランペット吹きを見ると、余計にそう思う。自分では気づかない無意識の『クセ』が、知らないうちに演奏の邪魔をしてる。そんな風に見えるのだ。

 彼女については鍵太郎の方が気づいて、それを指摘していこうと思っていた。

 だがそれに留まらず、他の人に対してもそうやっていけば――そうやって克服していけば、それが重なって演奏全体が変わるのではないか。

 最近の経験からして、鍵太郎はそう考えていた。


「では、中間部の早くなったところからいきましょう。準備はいいですかー」


 城山がそう言って、部員たちを見渡す。

 この先生もプロだ。指摘してくることに狂いはない。

 けれど、毎日部活に来てくれるわけではないのだ。

 というか正直、言ってることが難解にすぎるときがある。だからここでなるべく、多くのことを自分で感じ取っていきたい。

 周りを聞きつつ全力で吹くという大忙しになるが、やるしかない。

 部員たちの準備ができているのを確認し、城山はひとつうなずいて指揮棒を振り下ろした。

 『民衆を導く自由の女神』中間部――暴動の始まり。

 圧政に耐えかねた民衆たちが実際に反乱を起こし、街を駆けていく。そんなシーンだ。

 打楽器と低音がビートを刻み、その二つを軸にして他の楽器が、メロディーをリレーするように歌っていく。そんな構造に忠実に、優はブレーキドラムで隙なくリズムを刻み続けていた。

 相変わらずの人間メトロノームっぷりだ。部長のそれに負けじと食らいついていく。

 やっぱり馴染めないそのテンポには、最初からどこか掛け違っているような、そんな違和感があった。

 これは一体なんなのだろうと思ったところで、クラリネットのメロディーが入ってくる。しかし主旋律としては低い音域なのが災いしてるのか、あまり聞こえてこない。

 数人で同じことを吹いているはずなのだが、そろってないのでぼやけて混乱しているようにも見える。

 一丸となって反乱するには至らず、まだ雨の中、ぬかるみの中でのたうちまわっているような。

 意思が聞こえない。

 声が遠い。

 もっと、もっと――と思っているうちに、主役が変わった。

 次はフルート、関掘まやか。

 優と並んで副部長を務める彼女も、相変わらずの完璧っぷりだった。

 先ほどのクラリネットとは対照的に、飛翔するかのような浮き上がりを見せる。けれどそれは、他人を寄せつけない冷たい美しさだった。

 この人も、やっぱりどこかおかしいように思えた。そう言ったら張り倒されそうな気もするけれど。

 去年の学校祭のことを思い出して、鍵太郎は心中で苦いものを噛んだ。

 ホルンとトロンボーンに旋律が移る。そんな苦しそうな声でなくていい。けれどもっと咆えてほしい。

 トランペットの地味な先輩の放った矢は、まだ力が足りない。雨に打たれて地に落ちる。

 その矢を、鍵太郎はずぶ濡れになりながら拾い上げた。

 雨のように小粒に降り注ぐバラバラの音たちに、リズム感が引っかかれ続けて意識が震えるのを感じる。

 着々と体温を奪われる冷たさの中で、みなが必死な顔をしてひとりで吹いていた。

 ぬかるみに足を取られて進みが遅くなる。

 そしてそんな自分に、誰もかまわず通り過ぎていく――

 これの、どこが反乱だ。

 吹きながら鍵太郎は、この現状に怒りに近い苛立ちを感じていた。

 いるのは日々をせわしなく生きて、いつか救いがあると信じて磨り減っていく、名もなき民衆だけ。

 これの、どこが自由なのか。

 女神はどこにいるというのだ。

 みんな、もっと考えろ。

 これは俺たちの望んでるものじゃ、ないだろう!

 そう言うように、鍵太郎はガツッと音を打ち込んだ。一番下から殴りつけるように投げた矢は、雨に打たれながらどこか遠くへ飛んでいった。

 けぶる視界に矢が見えなくなる。変わらないその状況に、この雨はいったいどこから降ってくるのだと鍵太郎は思う。

 反乱の火を消すこれは、いったいどこからやってくるというのか。

 身体の熱を奪っていく、これは――

 そう思って、雨を止めるために鍵太郎は動き出した。

 矢が消えた方角。

 ぬかるみに足を取られながらもなにかに導かれるように――その方向へ。



###



「うーん。みんながんばってるねえ」


 合奏を終えて先生は、指揮棒を下ろしてそう言った。


「でもまあ、もうちょっと肩の力を抜いたほうがいいかな。みんな身体痛くない? はい腕回してー」


 城山がぐるぐると腕を回すので、鍵太郎もそれにならって肩を回した。言われた通り、肩がバリバリにこっていた。

 身体がほぐれて、少し雰囲気も和む。

 おしゃべりが始まりそうなところで優が、パンパンと手を叩いてそれを止めた。


「はいはい! みなさん、先生の言うことをよく聞いて!」

「うん。それじゃあ言っていこうか」


 真面目な部長に少しだけ苦笑して、城山は部員たちに言った。

 その内容は鍵太郎が感じていたことと、ほぼ同じものでもある。


「こないだ言ったけど、みんなこの曲をどうしたいか。それがまだ足りないかなあ。

 例えば今の部分の最初に書いてある『Con fuocoコン フーコ』って、意味調べてきた人」

『……』


 再び妙な沈黙がおちる。それに鍵太郎は顔を引きつらせた。

 水面下で牽制のし合いが行われている。

 三年生は下級生が調べているかどうかを試そうとしていて、一年生の大半は調べていなくて不安げに顔を見合わせていた。

 二年生は調べてはいつつも、もし間違いだったらという不安から発表するのをためらっているようだ。

 そんな風にして、いつまでも静寂が続いている。

 それに耐えかねて、ええい、ならば俺が、と鍵太郎が踏み出しかけたところで――別の声があがった。


「――『火のように』」


 よく通るきれいな声で言ったのは、関掘まやかだった。

 「その通り!」と城山がまやかに言う。


「火のように。そう、ここはそういうところなんだ。だからもっと、みんなでそういう風に吹いたほうがいいよ。ね、関掘くん」

「……はい」


 先生の呼びかけに、まやかはわずかに首をかしげながらうなずいた。

 先ほどは火というより、氷を思わせるような音を出していた彼女だ。なにか思うところがあるのかもしれない。

 そんな彼女の他にも、城山はスコアを見つつ指示を出す。


「あとはクラリネット。もっとリズム感というか、フレーズの節を意識して出したほうがいいな。ここで一番初めに提示する主旋律だから、もっとしっかり。それぞれができるようになってきたら、一本で吹いてるように聞こえるように寄せていって。

 金管は全体的に音が痛いかな。強くフォルテって書いてあるとがんばっちゃうのは金管吹きの本能みたいなものだけど。自分だけでがんばるんじゃなくて、全体でフォルテにするといい。もっと深く息を吸って。

 うん、あとチューバ」

「あ、はいっ!」


 自分の楽器の名前が出てきて、鍵太郎は背筋を伸ばした。

 その様子に、城山は少し苦笑気味に笑って言う。


「ちょっと重いな。もう少しコンパクトにはっきりと。力入っちゃってる」

「す、すみません……」


 がんばりすぎたのが逆に仇になったようだ。城山に怒られて、鍵太郎はしゅんとなった。

 今の全部がだめだったのだろうか。

 鍵太郎はじめ、部員たちがそんな雰囲気になった。そんな中で、優がひとり気炎をあげる。


「みなさん、今言われたことは二度と言われないように! 次回から各自気をつけること!」

「あー。まあ、そうなんだけど。貝島くん貝島くん」


 そんな優に、城山がヒラヒラと手を振って言った。


「きみのビートは『息苦しい』かな。そこを変えると、また全然違うよ」

「!」


 それに鍵太郎ははっとした。

 『息苦しい』。

 それは今の部活の雰囲気、そのもののように思えた。

 しかし優はそうは思わないようだ。いぶかしげに眉をひそめている。


「……? 打楽器は管楽器と違って息を吸いませんよ?」

「あ、そうか……」


 ごもっともな優の反論に、鍵太郎もうなずいた。

 打楽器はもちろん、『叩いて』音を出す楽器だ。

 『息を吹き込む』管楽器とは、根本的に音の出し方が違う。

 城山も、もちろんそれがわかっているはずだ。しかし先生はにっこり笑って、やはり答えを教えてくれなかった。


「そう。そこがミソだね。それがどういう意味なのか、考えてみるといいよ」

「……はあ。はい」


 城山の言い方に、優は首をかしげつつもうなずいた。顔にはまるで「よくわからない」と書いてあるかのようだ。

 自分の本当の課題は自分では見えない。

 それは一見隙なく思えた、部長でさえもそうだったのだ。

 それがわかったことで、鍵太郎は密かに拳を握った。解決策はまだわからないけれど、それでもこの方角で間違ってはいない。

 止まない雨はない――それがわかったところで、この日の練習は終わった。



###



「先生。少しヒントをもらっていいですか」


 部活が終わって音楽室から出ようとする城山に、鍵太郎はそう訊いてみた。


「打楽器が『息苦しい』って、あれどういう意味なんですか」

「そのまんまの意味だよ」


 生徒から質問が来たこと自体が、城山は嬉しいようだ。いつものように天真爛漫に笑って言う。


「打楽器も息を吸うときがあるんだ。ヒントって言うなら、それが『いつ』なのかかなあ」

「いつ……ですか」


 そのセリフに鍵太郎は首をかしげた。打楽器はどうにも専門外だ。

 やったことがないので具体的にはわからない。今度同い年の、打楽器の双子に訊いてみよう。

 そう思ったところで逆に城山が訊いてきた。


「けど、なんできみがそれを訊くんだい?」

「あ……ええと」


 やっぱり、低音楽器である自分が打楽器のことを聞くのは変だったのだろうか。

 人のことより、自分のことをどうにかしろと言われてしまうかもしれない。そう思ってなんと答えようと悩んだが、結局、鍵太郎は思ったままを口にすることにした。


「その、変えたくて」

「なにを?」

「……ここを」


 本当は「世界を」と言いたかったところだが。

 言ったら言ったで恥ずかしさで床をのた打ち回ることになりそうなので、止めておいた。

 だが城山相手なら、そちらの方がよかったかもしれない。彼は「そっかー」とうなずいて、言ってくる。


「ここをかー。そこは『世界を』って言ってほしかったところだけど」

「……」


 この大人、恥ずかしいなあ……。

 鍵太郎はそう思ったのだが、城山は気にしていないらしい。確かに自分に「きみの楽器は世界を変える力がある」と言ったのは、この人なのだが。

 このくらい吹っ飛んでないと、楽器って上手くならないのだろうか。別の意味で悩み始める生徒に、先生は再び質問してくる。


「ねえ湊くん。雨が止んだらどうなると思う?」

「……晴れるんじゃないですか?」

「虹が出るのさ」


 はるか先の景色を知っている先生は、鍵太郎にそう言って笑った。


「雨が止んだら虹が出る。きみに前言った世界を変える力っていうのは、そういうことだよ」

「……先生」

「ねえ湊くん。『答え』は、いつだってきみの歩いてきた道の中にある」

「あ――」


 去年の学校祭でこの先生に、同じことを言われたのを思い出して、鍵太郎ははっとなった。

 あのときは最後まで『それ』に気づかなくて、散々な目に合ったが。

 けれど、今なら。

 色々なものを見てきた今なら、それは――。

 そう思ったときは、先生は音楽室の扉の前でこちらを振り返り、手を振っていた。 


「じゃ。湊くん。僕が来るのはまたしばらく先になるけど、がんばってねー」


 そんな言葉を残して、城山は今度こそ音楽室から去っていく。

 それを見送って、鍵太郎はわしゃわしゃと頭をかいた。


「……あー。くそ」


 恥ずかしいけど、ああ言い切れるというのは、あの先生――


「……不覚にも、ちょっとカッコいいなとか思っちゃったじゃないか」


 雨を止めるだけでなく、その先まで要求された形だが、不思議と負担には感じない。


「虹、か」


 城山に言われた言葉を繰り返す。

 振り返ればこれまで恥ずかしさでのた打ち回るようなことくらい、散々やってきているのだ。世界を変えるなんて大仰なことを言うくらい、今更かもしれなかった。

 音楽室はまだ雨にけぶっているようだったが、その先の光景を作るため。

 鍵太郎は、冷たいそこに再び舞い戻っていった。

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