第139話 終わらない旅路
遠くで波の音がして、朝の目覚めを告げるようにトランペットのメロディーが流れた。
それを聞きながら、これをこの楽器担当のあいつは聞いているだろうかと
いや、おそらく彼女は客席にはいまい。
トラウマを思い起こさせるからと、この選抜バンドを辞退したあの同い年だ。ここにも来てはいないだろう。
それでも、聞きにくればよかったのに、と鍵太郎は思う。
そんなものにおびえて、これを聞かないなんて損してるとしか思えない。
許されていないなんてそんなことない。
このどこまでも海のように広がっていく演奏が、おまえを拒絶してるなんてこと――ありえない。
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県の高校の吹奏楽部の部員を集めた、選抜バンド。
今はその本番中だ。『海の男たちの歌』という曲名そのままに、大海原に船が出ていく。
この大海に比べれば、小さな小さなその船だろうが。
それは力強く荒波へとこぎ出していった。
乗っているのは陽気に歌う船員たちだ。
これはシーシャンティ――船乗りたちの歌。
そう冠された部分そのままに、大きな船を操るためそれぞれが大きな声で歌っていた。
どんなシケた海だろうが、日差しのきつい空の下だろうが、そんなものは関係ないとばかりに目を輝かせて進んでいく。
どこまでも続く海平線。
見上げれば空に、白く光る海鳥――吹き抜ける風を一身に受け、水面をかき分ければ波がしぶく。
楽器すべてがその情景を表しているのが、鍵太郎には楽しくてしょうがなかった。この頃は、自分の学校で吹いていても曲のイメージが見えなかったのだ。
それが今はこんこんと湧き出してくる。
楽器をやっていて一番好きだったこの光景が、久しぶりに目の前に現れた。
しかも今回は自分の想像をはるかに超えて、圧倒的に緻密ではっきりとした景色がどこまでも広がっている。
迷いも怖さもいつしか消えて、全部の神経がそこへ注がれていく感覚。
脳のしばらく使っていなかった部分が動き出して、きしみをあげながら熱を生み出していった。
それは身体の隅々まで広がっていき、楽器を操作する指を動かして、肺を大きく膨らませていく。
息を吹き込めば自分でもびっくりする音が楽器から出て、それがさらなる昂揚を呼んだ。
風向きを読み、針路を定め、帆を張ったら舵を取り。
重い錨が海中に落とされたら――
そこで泳ぐ、鯨の姿が目に入る。
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海面で揺らぐ光を背に、大きな鯨がゆっくりと進んでいた。
低い声で、水中を伝って歌が聞こえる。
鯨の歌だ。
海中をゆったりと泳ぎながら、なにかの歌を歌っている。
それがなにを呼びかけているのかは分からないけれども――その優しい響きは穏やかな波のように、高ぶった精神を包んでくれた。
オーボエのソロに耳を傾ける。自分の学校にはない楽器だけれども、またいつか、こんな大編成の中で一緒にできたらなと思う。
長いようで短い、そんな二日間だった。
なにかを選ばなくてはならない、そんな気持ちでここに来たけれども、広がっていたのはこの大海原に等しい無限の選択肢だった。
いろんなやつらがいて、それぞれがみんな自分の信じるものを持っていた。それらが折り重なって今、こうして海になっている。
その海の中に漂っていると、きれいだなあ、と思う。
透き通った青も、揺らいでいる光も。
心地よい浮遊感と、どこまでも続いていく海の景色。
これをまた、見てみたいと思った。
いつの日か、また――というところで、鯨が戻ってくる。
歌が通り過ぎていく。
大きな、大きなそれとすれ違ったときに、なにかを言われた気がした。
言葉にならないその歌にはっとして振り返れば――そこには、悠然と進んでいく鯨の尾だけが見えた。
遠ざかっていくそれを、呆然と見送る。
……見送る?
それだけで、いいのか――? と思ったとき。
再びの始まりを告げる歌が、鍵太郎の耳に聞こえてきた。
風を受けた帆が、膨らんでいく。
出航の合図のように、勇壮な旋律が呼びかけてくる。
ぼうっとしている暇はない――今すぐ、追いかけろ!
錨が上げられ、船がまた海へ出た。
今度はさっきよりもっと速く。光り輝く空の下、鳥と共に風を掴んで海を駆ける。
腹の底から出てくる歌が、甲板のそこかしこで響いている。
その歌に突き動かされるままに、鍵太郎は声をあげた。ここからがこの本番最後の航海だ。
鯨の尾は既に見えない。
だがこの海のどこかで、あの大きなものは生きている。
それを追いかけて、船は往く。
トロンボーンが主旋律を吹きだして、力強いグリッサンドにあの同い年のアホの子を思い出した。あいつと一緒に見に行ったイルカは、今もここに見えているだろうか。
あのとき、こんな演奏をしたいと思った。それに自分は一足先に参加してしまった。
帰ったらあいつと一緒にこれをやろう。
イルカめがけて一直線に駆けていくあいつを、しょうがねえなあと後ろから追いかけよう。
クラリネットが舞い散る波を描き出して、ここに同じく参加した彼女も自分と同じ気持ちだろうかと思った。
上へ下へと自在に動いていくたえ間ないスケールは、流れるままに色を変えながら
ホルンが咆えて鎖が鳴ったら、船が加速していく。
合図を出せば他の楽器がそれを後押しして、難所を飛び越えるように乗り越えた。
衝撃で波が起こって、大きく揺れる船から目線を上げれば――
そこにはやはり、果てのわからない青い海があった。
息を呑むほどに遠大なそれは、それまでの疲れを忘れさせて、さらなる旅路へと誘っていく。
終わらない航海。
海平の向こうへ、船は進む。
だが、今回はここまでなのだ。
遠のいていくその光景を惜しみつつ、鍵太郎はあと少しの楽譜を力を振り絞って吹いた。
歌は終わらない。
甲板にいる船員たちは、これから待ち受けるどんな波にも負けないほどの、大きな声で――
「――?」
と、そこで左隣から聞こえていた音が一瞬小さくなって、鍵太郎はわずかに戸惑った。
しかし気にしている余裕はない。隣の音もすぐに元に戻った。このまま最後まで突っ走るしかない。
湧き出してくる水のように、木管楽器が勢いよく駆け上がってきた。
その流れに各楽器が加わって水幅が広がっていく。清流と濁流が織り合わさって、海へ一気になだれこんで。
広大な景色と、それを渡る小さな船。
最後にその光景を焼き付けて――その演奏は終わった。
###
「おつかれさまでしたー」
全ての日程が終了し、そんなあいさつの飛び交う中で鍵太郎は楽器をしまっていた。
あれから大きな拍手の中退場し、選抜メンバー全員で写真を撮った。
コンクールのときのように後で、注文用紙が来るらしい。本番の様子も撮られていただろうが、やっぱり顔は写ってないだろう。
なので全体写真だけほしい。うっすらと続く興奮の中でそう思っていると、楽器をしまい終えた
「おつかれ。じゃあな。……あいつのこと、よろしく頼むぜ」
「あ、おい」
それだけ言った池上は、重い楽器ケースを引きずって人ごみの中に消えていった。
最後まで、かみ合わないやつだった。少しだけ腕を上げているようにも見えたが――もう確かめる術はない。
まったく、去り際まで早くてエグいやつだ。
鍵太郎が苦笑していると、
「本当はもうちょっとゆっくりしてたかったんだけど……ウチの学校のみんな、待ってるみたいだから」
「ああ、おつかれ。また――ああ、そっか。コンクールの会場で会うかもな」
「そうだね。そのときはライバルだ。じゃあ、また――!」
鍵太郎と同じB部門の入舟は、笑ってその場を去っていった。
楽器置き場の外で、同じ制服の集団と話しているのが見える。その中でも彼は、栗色の髪で赤いリボンの女の子とよくしゃべっていた。
ああなるほど、楽器をやってる女子がいいとあんなにスラスラ答えてたのは、つまりそういうことね――と、鍵太郎は笑う。そりゃあ怒られたらへこむし、本番ではかっこいい姿を見せたいだろう。
その様子を
「あーあ。じゃあ、俺も帰るか」
鍵太郎も楽器をしまい終え、伸びをしながらそう言った。
行きと同じく先生が迎えに来てくれるはずだ。クラリネットの
そういえば、あとひとりのチューバ吹きにまだ挨拶していなかったなと、鍵太郎はあたりを見回した。最後のひとりは今回パートリーダーを務めた、
クセの強いメンバーだった。それをまとめるのは、かなり大変だったろう。
せめて声をかけてから帰ろう。彼の最後の、わずかな音の変化も気になるし――と本番で左隣にいた彼のことを探していると、ちょうど清住はこちらにやってくるところだった。
彼は初めて会ったときと同じように、笑顔で言ってくる。
「おつかれさま、湊くん。楽しかったね」
「はい。おつかれさまでした、清住さん」
本番と、その練習のことを思い出して鍵太郎はそう言った。
本当だ。久しぶりにこんなに楽しい思いができた。
この次の本番はコンクールだ。自分の学校でも、こんな風な演奏ができたらいいと思う。
A部門の出場校である清住の富士見が丘高校は、これから厳しい練習に向かうのだろうが――それでも、今日のことは忘れずにいてほしい。
部門の違いがあるとはいえ、自分たちがやっていることは一緒なのだから。
そう思って鍵太郎は「コンクール、がんばりましょうね」と言った。
「きのうはああ言ってましたけど、やっぱり楽器は楽しんでやったほうがいいですよ。だから清住さんも――」
「湊くん」
そう言う鍵太郎を、清住は手で制した。
「今日はとても楽しかった。けどこれからは――楽しいだけじゃ、だめなんだ」
「……」
「きのう言ったよね? 『今はそれでいい』って。これからは違うんだ」
「……清住さん」
「これから富士見が丘は本格的に、コンクールに向けて曲を作り直す。きみはB部門で、僕たちはA部門だ。目指すものが根本的に違う」
全国大会のない部門と、ある部門。
たったそれだけの違いが、大きな溝に感じられた。
富士見が丘は演奏会とコンクールを分けて考えると、きのう清住は鍵太郎に言った。
そのときは彼が譲歩してくれて話は収まったが――しかしこれからのこととなれば、また別だと。
彼はそう言っていた。
「やってる場所が元から違うんだ。だからこれからは、一緒にはがんばれないんだよ」
「……清住さん、それは」
「あーあ。今日みたいな、楽しいステージばっかりだったらよかったんだけどなあ。でも、そういうわけにもいかないんだよなあ」
そう言って彼は、困ったように笑った。
さっきの本番の最後で一瞬彼の音が小さくなったのは、コンクールのことが頭をよぎったからなのだろうか。
それとも――
「けれどね。きみの行く道は、僕らにはできないことができる。そんな気がするんだ」
「……」
あの瞬間、彼は既に針路の選択を終えていた。
だからこそ自分が選ばなかった道を、彼は鍵太郎に示そうとしているのだ。
それは自分に言い聞かせるためなのか――清住は、鍵太郎に向かって言ってくる。
「『勝つための音楽』じゃなくて、他に取れる道があったのなら――きみが実現して、見せてほしいな。そう思う」
「そんなこと言うんだったら、自分ですればいいじゃないですか……」
「言ったろ。僕らはもう進む道しか残されてないんだって」
「そうですけど……!」
それは、彼にとっていい選択だったのだろうか。
わからない。
きっと清住自身にもわかっていないだろうし、それでも彼は選んだ道の先で望む結果が出るように、最大限努力することだろう。
でも、その方法では決して実現しない可能性を託して――
清住純壱は鍵太郎に、最後の言葉をかけた。
「ありがとう。じゃあね湊くん。最後にきみと一緒にできて、楽しかったよ」
###
「……そう。そんなことがあったんだ」
頭を押さえた鍵太郎が話し終えると、隣に座っていた咲耶はそう言ってうなずいた。
顧問の先生が迎えに来るのを待ちながら、鍵太郎は先ほどのことを彼女に話していたのだ。
あまり話したいことではなかったが、自分の様子がおかしいのがわかったのだろう。咲耶は強い調子で、なにがあったのか訊いてきた。
同じく選抜に来ていた彼女だ。なにか思うところでもあったのか、気遣わしげにこちらを見ている。
「……わかりあえたと思ったんだ」
ぼそりと、口の隙間からそんな声がもれた。
「今日の本番で、こんなにいい演奏ができたんだ。みんな、考えを変えてくれると思った。……けど、そうじゃなかった」
わかりあえたと思ったのは、自分の錯覚だったのだ。
いろんなやつがいて、いろんな意見があって――だからここが好きだったけれども。
同時にそれは、自分と同じように考えてくれる人が、いるとは限らないということでもあった。
言われてみれば、それはそうなのだ。
自分は自分、他人は他人で――全部同じように考えることなんて、ありはしないのだ。
こんなんで、自分の学校に帰って部活を変えることなどできるのだろうか。
そう苦悩する鍵太郎に、咲耶は遠くを眺めて、言う。
「……わかりあえなかったわけじゃ、ないと思うよ」
「……」
「……いろんな考えがあったね。いろんな人がいたね。変わったものと、変わらないものがあったね。
でも大丈夫だよ。私は湊くんと一緒にいるよ」
「……宝木さん」
隣に座る彼女は、そこでこちらを向いて微笑んだ。
それはたまに見せる、咲耶の心からの笑顔だった。
「だから帰ろう。私たちの学校へ」
「……うん」
今はわかりあえなくとも。
何度も伝え続ければいいと、ここに来る前に言っていたのは彼女だった。
今回もそれに救われた。遠くに見慣れた赤い車が走っているのがわかって、鍵太郎は心底ほっとした。
今日の演奏を聞きに来ていた、自分の学校の部員たちの顔を思い浮かべて、言う。
「ああ……やっぱり、もう一回今日みたいな演奏したいなあ……!」
大海原に出た船たちは、それぞれの道を選び、自分の居場所に帰っていった。
その先に、それぞれの望むものを夢見て――新たな旅路へ向かっていく。
第10幕 思惑だらけの選抜バンド〜了
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