第138話 最果てへの扉
暗闇の中で、炎が上がる。
曲の最初の部分にそんなイメージを抱きながら、
瞬間的にぶ厚く燃え上がった炎は、勢いを減じながらも確かにそこに輝きを保っている。
県の高校の吹奏楽部員が集まった、選抜バンド。
今はその本番だ。そして客席で聞いているのは、この選抜に参加している学校の生徒たちだった。
自分の学校の部員たちもこの暗闇のどこかで、この演奏を聞いているはずだ。そう思って鍵太郎は、もう一度その炎を燃え上がらせた。
再びホルンが、古い伝説を語るような口調でゆっくりと吹き始める。
その凛としながらも内に激しさを秘めた音色は、鍵太郎に久しぶりに卒業したホルンの先輩を思い出させていた。あの先輩の出す音は、いつしか自分の中でホルンのスタンダードになっていた。
だが今の自分の学校に、あれほどの音を出す人はいない。
それでも、そうなろうともがいている人間なら知っている。
今回の選抜の選考では、運悪くもれてしまったけれども。それが原因で初心者で始めた自分とは、微妙な関係になっていて――しかし彼女も、きっとこの音を聞いているはずだ。
やっぱり、あいつもここに来たかったろうな、と舞台上で演奏を聞きながら、鍵太郎は思った。
客席で聞くのも参考になるかもしれない。
しかし彼女だって、できるなら奏者としてここで吹きたかっただろう。
そう思うと、彼女がここに来られなかった悔しさもわかる気がした。
そのせいでやりきれない思いをぶつけられもしたが――この演奏を聞いてそれを、自分もこんな演奏がしたいという思いに変えてくれるだろうか。
いや、変えてほしかった。
だから、自分はこうして――。
そこで出番が来て、鍵太郎はホルンの最後の音に重ねて、大きく楔を打ち込んだ。そこからバンド全体が加速していく。
果てしなく遠くまで。
その先にあったのは、風の吹き抜ける高い空だった。
暗闇から一気に開放されて、最初の音は勢い余ってたたらを踏んだ。しかし五人もいる同じ楽器のメンバーに連れられて、すぐに元に戻る。
クラリネットのメロディーが巻き起こる風のように踊っていて、その中に自分と同じ学校のメンバーがいるのだと思い出す。彼女の助けになるように風の起点を作って音を伸ばしていけば、そこに他の楽器も加わって、もっと大きな渦になった。
選抜で一緒に吹いているのは、きのうまで鍵太郎が全く知らなかった人たちだ。
そんな人たちとこんな演奏をしているのが、とても不思議だった。
それなのに、音はどんどん伸びていく。
ここでこんな演奏ができるなら、自分の学校でだって同じことができるはずだ。無理やりまとめようなんてしなくてもいい。
部長は聞いているだろうか。聞いているならこの生きている音に驚いてほしい。
勢いと温かさと煌きと――その他にもたくさんのものを持って進んでいく、この演奏を。
そこで突然影が差して、鍵太郎は身構えた。
やはり簡単には聞き入れてもらえないだろうという気持ちはどこかにあったし、もう一度部長と話せば、そのときはまた口論になるだろうということはわかっていた。
そのとき、自分はどうするのだろう。
仕方ないとあきらめるか。
それとも――戦うことになるのだろうか。
重い足取りを引きずるようにしようとしても、流れは段々速くなっていく。
痛いほどの沈黙の中で、クラリネットとトランペットがささやいた後――大きく息をする音が聞こえた。
次の瞬間、激しいビートと重い中低音群が、全ての場を塗り替えるようにして広がっていった。
その中で自らも強い音を出しながら、鍵太郎は行く末を探っていた。
勇ましい突撃ファンファーレのすぐ後に、どこかためらうような小さな高音が聞こえる。
早いテンポの中で全部が細かく入り混じっていて、その中でリズムを刻むのは打楽器と低音だ。それを軸に、曲が展開していく。
時折鋭い音。そして硬く刻み続けて、音が低くなっていく。
それとは逆に上の高音たちはお互いにさえずりあい、中音が膨らんで押さえきれないものが溢れそうになっている。そのうち、リズム帯以外が全員同じように動き出す。
それを一番下で支え続けながら、鍵太郎は必死で音を出し続けた。
ここで折れるわけにはいかない。ここで折れたら、全部が崩壊する。
チューバが上下の二パートに分かれて、下パートがさらなる支えに回った。ハゲタカとヘタレが力強い轟音を敷き始めて、それが心強く、非常にありがたかった。
今は、ひとりではない。
それを改めて思い出し、鍵太郎はそのまま雲のような見通しの効かない白さの中へ突っ込んだ。視界の利かなさに戸惑いながらも、風は止まない。
小さな息吹きが重なり合いながら、上に大きく吹き上がっていく。
勢いを増して、音を響かせ、雲を振り払うように――!
急に視界が薄い青に染まって、そこで雲から出たのを知った。気がついたそこははるか高いところで、その光景に一瞬見とれてしまった。
だが、安心している暇はない。次が最大の難所、この楽譜が配られたときに目を疑った、最低音から始まる上昇気流だ。
同じ楽器の五人でいっせいに息を吸う。そのままそれぞれがそれぞれ、脇目も振らずにがむしゃらに突っ込んでいった。誰も後ろなんて振り返らない。
みんな必死だというのもあったけれど、それ以上にそうしなくても大丈夫だという気持ちもあった。
最高スピードで合わせて結果的に五人がそろった。上に放り投げたものがやがて返ってきて、また全員でそれを受け止める。
再び雲が立ち込めて、薄暗い不安感の中で雷が降り注いだ。管楽器全員で吹く合いの手として凄まじい雷鳴を描き出すのは、曲の雰囲気を決めるといわれる打楽器群たちだ。
みんな必要なのだ。
全部がいなくちゃ成り立たないのだ。管楽器だろうが打楽器だろうが、初心者だろうが経験者だろうが。
全部が全部、曲を作るためには力を合わせないとならないのだ。
そうすれば、こんなにすごいことができる。
そうやって全員が音を出し終えた後に、ようやく開くのが最果ての城への扉だ。
重々しく少しずつ開いていくそこから光が射す中、垣間見えるのはおとぎ話にあるような空飛ぶ城の姿。
それはきれいな蒼を背に、堂々とそこに浮かんでいた。
その偉容は不思議と圧迫感を与えず、代わりに全てを受け入れる寛容さを備えている。
ただそこに在ることだけで安心するその大きさ。
それを見ることすら難しいとわかっていても、求めずにはいられない夢物語。
暗転するのは知っていた。
果てしない理想なのは知っていた。
それでも、これを見てもらいたかった。
再び冒頭と同じ暗闇の中、ろうそくの明かりが導くように光を揺らしている。
温かい輝きの中で語られるのは、子どもに読み聞かせるような本の中に存在する、最果ての城の物語。
古い古い伝説にしか聞こえないその姿を、もう一度その果てに浮かび上がらせて――鍵太郎は祈るように、最後の音を静かに閉じた。
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指揮の先生がゆっくりと棒を下ろし、客席に振り返って礼をする。
それに、観客から拍手が上がった。
少しだけほっと一息ついて、鍵太郎は楽譜をめくった。選抜の本番はもう一曲ある。
今の演奏を、どう取ってくれたかはわからないが。
自分は自分で、目の前の音を全力で出し続けるだけだ。そう思ってふと客席を見れば――
遠くで、拍手をしている片柳隣花の姿が見えた。
「――!」
表情がわからないほどの遠くだが。
そこに確かに、見慣れた制服姿の集団がいる。
全員、拍手をしている。聞いてくれていたのだ、彼女たちは――その一点だけで、泣きそうになるくらい嬉しかった。
指揮者の先生が曲の解説を話し出す中で、鍵太郎は少しだけ顔を伏せて大きく息を吸って、吐いた。
泣くのはまだ早い。
胸を張って彼女たちの元に戻れるよう、あと少しだけがんばろう。
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