第137話 さんざめく影響
リハーサルは順調だ。
今日の午後の本番に向けた最後の練習中、
自分の学校の、倍以上の八十人ほどで構成されている今回の選抜バンド。
人数のせいなのか、それとも隣の上手いメンバーに引っ張られているからなのか、鍵太郎は自分の楽器からきのうまでとは全然違う音が出ているのを不思議に感じていた。
今までうまく出なかった音が出る。
息がそれまでの倍はもつ。
この感覚は去年、先輩と一緒に吹いていたときとも少し違うものだった。
経験したことのないものに戸惑いつつも、吹いているうちに楽しさの方がそれをどんどん上回っていく。
同じ楽器の五人の呼吸が合って同じ勢いでフレーズを吹き上げ、それが重なってさらに音が出るようになっていった。
それはもちろん、同じB部門の
彼が変わった理由は、隣の人にもっと出せと言われたからなのだろうか。
それはわからないけれども、彼もきっと、自分と同じような楽しさを感じているはずだ。
どうしてこんなに出来るようになったのだろう。
鍵太郎がふとそう思ったところで、リハーサルは終了した。
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「なんだ、やればできるんじゃねえか、おまえら」
楽器から水を抜きながら、鍵太郎の隣で吹いていた
彼はこの県でも随一の強豪校、宮園高校の生徒だ。
初めて会ったときもこいつ上手いなと思ったが、今日も相変わらず彼の音は早くてエグくて、そして正確だった。
そんな池上は、口の片端を吊り上げて言う。
「最初からそうやれよ、最初から。手間取らせやがって、まったくよ」
「最初っからこんなに吹けたら、苦労しねえよ」
鍵太郎は池上の嫌味に、半眼でそう答えた。誰もが彼のように自信を持って吹いているわけではない。
「なんでか本番直前に、急によくなることってあるよねえ」
そこでパートリーダーの
五人の最年長である彼の言葉は、やはり経験を積んできたからこそだ。
「それまではまらなかった、なにかがはまったというか。直前になって自分の中でなにかが噛み合ったというか。まあそれも、それまできみががんばってきたからだよ、湊くん」
「清住さん……」
自分よりひとつ年上の彼の言葉が、とてもありがたくて、嬉しかった。
そういえば最近自分は、学校では先輩たちから怒られてばかりだったのだ。おまえは甘いだの、なんだの。
そう言った彼女たちは、今日は聞きに来てくれるだろうか。今日の本番の主な観客は、選抜に参加している学校の生徒たちなのだ。
鍵太郎がそう考えていると、池上が腕組みをして得意げに言ってくる。
「ま、オレと一緒に吹いてたんだ。上手くなりもするわな。師匠がいいんだよ、師匠が」
「池上くん、僕の言ったこと聞いてた? きみだけじゃなくて、湊くんががんばったからだって言ってるでしょ」
「それでもこのヘタレはオレが教えてなかったら、変わらなかっただろうしな。しかし――それでも、教えてもなにも変わらねえヤツもいる。その点こいつは、褒められたもんかもしれねえな」
「……そりゃどーも」
素直に褒められないのかこいつは。鍵太郎がそう思いながら返事をすると、池上は「……まあ、それはあいつもだけどな」と言ってちらりと少し離れたところにいるメンバーを見た。
そこには、きのうまで彼が「根性なし」と言い切っていた入舟剛の姿がある。
「単なるクズかと思ってたが――さっきのはそうでもなかったな。悪かねえ。これならなんとかなりそうだ」
『……』
「……な、なんだよ、おまえら」
「いやあ……」
困惑した様子の池上に、鍵太郎と清住は顔を見合わせた。
彼がそんな風に人を評価するのが、意外だったのだ。感じたままを素直に言う。
「変わったっていうなら、ひょっとしておまえがだいぶ変わったんじゃないかな、って思ったんだけど……」
「男のツンデレって、正直ちょっとどうかなと思うよね」
「おまえら、なんかすっげえ失礼なこと言ってねえか!?」
失礼なことを言っているのは、どちらかといえば清住の方な気がしたが。
池上はこちらに噛み付いて、そして「ケッ」と目を逸らして言う。
「……結果が全てだって言うんなら、悪くなったことだけじゃなくて、よくなったことも認めなくちゃいけねーだろうが。
クズはクズだよ。けど自分を守ってなんにも変わらねえやつは、もっとクズだろうが。そんな中であいつは――まあ、そうじゃなかったからな。その辺は認めてやってもいい。そう思ったんだよ」
『へー……』
「おまえら、その目やめろよな!?」
再び顔を見合わせて清住と一緒に池上を見たら、なんだかすごい抗議をされた。
自分たちはただ、生暖かい目で彼を見守っただけなのに。再び清住と囁きあう。
「素直じゃないって損ですよね」
「かわいそうな子だねえ」
「おまえらムカつく!? マジムカつく!?」
高圧的で、威気高な態度はそのままとはいえ。
しかし、入舟と同じく池上もこの選抜でなにかが変わったことは、事実なのだろう。
誰かの言葉で、誰かが変わった。
誰かの行動を見て、誰かが変わった。
ならば――
「……みんなも、変わってくれるかな」
これからこの演奏を聞きに来るであろう、自分の学校の部員たち。
彼女たちの顔を思い浮かべながら、鍵太郎はそうつぶやいた。
###
リハーサルはあれだけ音が出ていたのだ。
大丈夫、大丈夫――と思いつつも。
「くそう……なんか落ちつかねえな」
鍵太郎は小刻みに震える、自分の右手を押さえた。
本番直前の待ち時間。
そこでは選抜のメンバーがそれぞれ、舞台袖で本番の時を待っている。
しゃべったり呼吸を整えたり、本番に向けた姿勢は様々だ。
その中で鍵太郎は、自分の位置からわずかに垣間見える客席を見た。角度の関係で少ししか見えないその隙間には、自分の学校の制服は見当たらない。
それにほっとしたような、でも聞いてほしいような――そんなソワソワする感じが小学校のときの授業参観のときのようで、これじゃ本当にガキじゃねえかと鍵太郎は苦い顔になった。
しかし実際な自分が考えているのは、本当に子どものようなことなのだ。
全員の考えを肯定して、周りを、そして部活をやっていけないかという――そんな理想というか、夢物語。
まだおまえはそんなこと言っているのかという部員たちの声が、聞こえてくるようだった。たった二日間しかやっていない選抜を参考にした考えだ。自分の学校でそんなことをしようとしてもやっぱり反対されるかもしれないし、仮に取り入れてくれたとしても、収拾がつかなくなる可能性があるのもわかる。
しかし――それでもここにいると、どうしても考えてしまうのだ。
この選抜バンドは、A部門もB部門も、主義も信条も性格も目指すものもみなバラバラだ。
それでもこんなにすごい演奏ができるのなら――それは同じくまとまっていないと言われた自分の学校の部をまとめる、唯一の手段になるのではないだろうか。
今ここにいる鍵太郎は、そう思っていた。
再び客席を見る。そこにいるのはやはり、知らない制服姿ばかりだ。
「……」
しかし、どこかにはいるのだろう。聞いてくれていることを願いつつ、鍵太郎は気持ちを落ち着けるために、深呼吸をした。
受け入れてくれるかどうかは、わからない。
けれども言わなければ、なにも始まらない。
本番を成功させたい気持ちと、自分の考えを思い切り叫びたい気持ちが、それこそごちゃ混ぜになっていてわけがわからなくなっている。
本番前のギリギリの緊張の中で最初の一歩を踏み出すときは、いつもこんな感じだった。それが今回は身内を相手にするとあって、妙に強く出てしまっているらしい。
鎮まれ、鎮まれ。
震える肺を落ち着けるために深呼吸を繰り返していると、鍵太郎の真後ろで弾んだ声が上がった。
「わー、いっぱい来てるね」
「……おまえか」
振り返って見てみれば、そこには嬉しそうに客席を見る入舟がいた。
彼の表情は、さっきの音と同じくきのうとはまるで違うものになっている。不安げにうつむいていたあのときとは、比べ物にならないほど明るい。
「ウチの学校の人たち、もう来たかな。どこにいるんだろ」
「……なんかやっぱり、おまえ変わったな」
嬉しそうにきょろきょろする入舟に、鍵太郎はそう言った。
彼はきのうまでどこかオドオドしていて、池上には「おまえそんなんで吹けるのか」と言われたくらいだったのに。
きのうの夜は鍵太郎も彼を励ましていて――それが今は、完全に立場が逆転している。
入舟はかえって、自分より落ち着いているようだった。
リハーサルのときといい、どうしてそんなに変わったのか。
そう訊いてみると、入舟は「うーん」と少し考えて、答えてきた。
「やっぱり、きのう荒町さんに言われたのが効いたんだと思う。あれですごく、背中を押された気がしたんだ。ああ、ぼくもっと音出していいんだ――って」
「……そっか」
彼もやはり、そうなのだ。
誰かの言葉で、誰かが変わる。
誰かの行動で、なにかが変わる。
自分の中の、なにかが。
その言葉に鍵太郎は、先ほど清住の言った「それまではまらなかった、なにかがはまった」という言葉を思い出していた。
それが重なって、どんどん音が出るようになっていく――
「まあ、やっぱり人にそう言ってもらわないとできないっていう、ちょっと情けないのは変わらないんだけどさ。改めて、ここってすごいなって思って。それを早くウチの学校のみんなに見せたくて、怖いのが薄らいでるのかもしれないね」
「情けなくなんて、ないさ」
誰かの起こした小さなことが、重なって重なって、そして大きなうねりになった。
さんざめくような影響のし合い。
ここに来てからずっと、それの連続だったのだ。
自分を、入舟を、他のメンバーを変え――あれほどに、すさまじい力になった。
それならば――
「……なあ、誰かと一緒に吹いて、なにかを変えられることって、できると思うか?」
鍵太郎は入舟に、そんなことを訊いてみた。
「俺たちはメロディー楽器に比べれば全然目立たなくて、俺自身もこの大人数の中ではちっぽけなもんだけど――それでも、誰かと一緒に吹いて、なにかを変えることって、できるもんなのかな……?」
「難しい質問だなあ」
なんの事情も知らない、他校の生徒である入舟だが。
それでも彼は、同じ楽器を吹く仲間だった。ほおをかいてしばらく考え、「ああ」と口を開く。
「ぼくは小さい本番が好きなんだ。老人ホームとか、お花見の席とか、そういうお客さんとの距離が近い本番が」
「うん」
「そういうところで誰かが笑ってくれるのを見ると、何倍も力が出る気がする。みんなで盛り上がって、それでまたすごい吹けて――だからぼくらは、誰かを笑わせられる力はある。そんな気はするね」
「……そっか」
そう言う入舟にそう答え、鍵太郎はすっと目を閉じた。
誰かの言葉でなにかが変わり。
なにかが変わって音が変わった。
音が変われば、また、なにか――
そこまで考えたところで目を開ける。
「……それがおまえの、『信じるもの』なんだな」
彼の言葉で、なにかがはまった。
なら、自分は。
自分の信じるに足る、『答え』は――
そう思ったとき、マイクでのアナウンスがホールに響き渡った。
『――お待たせ致しました。選抜バンド、演奏に入ります』
「お……」
「あ、そろそろだね。行こう」
選抜のメンバーが本番に向けて、舞台へと入場していく。その流れに乗って、鍵太郎と入舟もそちらに向かった。
席に座って見渡しても、相変わらず客席のどこに部員たちがいるのかはわからない。
受け入れてもらえるかどうかもわからないが――それでも。
『曲は今年の課題曲Ⅰ、「最果ての城のゼビア」です』
最果ての理想(しろ)を追いかけて――
「……やるぞ」
鍵太郎はひとり、楽器を構えてそうつぶやいた。
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