第124話 信仰と弓矢

『湊(みなと)くん、お互いコンクールがんばりましょうね!』


 卒業した先輩から送られてきたメールを、湊鍵太郎(みなとけんたろう)は見返した。

 春日美里(かすがみさと)。

 川連第二高校、吹奏楽部の前部長だ。

 鍵太郎と同じ楽器を吹いていたその先輩は、卒業したのち社会人バンドに入り、今でも楽器を吹き続けている。

 社会人バンドはコンクールに出るところと出ないところがあるが、美里のところは出るところらしい。

 高校B部門から職場・一般の部にステージを変え、再びコンクールに挑むことになった彼女は、文面からしても相変わらずの様子だった。

 きっと今でも、在学中と変わらず楽器を吹いているに違いない。

 卒業式の後で迷いなく、大学に行っても楽器を続けると言ったあの人の姿を思い出す。

 その笑顔をしばらく見つめて、鍵太郎はゆっくり息を吸って、吐いた。

 そして返事をするために、画面に文字を打ち込み始める。



###



 『民衆を導く自由の女神』。

 これが今年、鍵太郎たちがコンクールで演奏する曲の題名だ。


「まあ、まずは曲について調べるのが常道だよな」


 そう思い、鍵太郎は携帯を片手につぶやいた。先ほどの合奏で、先生にこの曲をどうしたいと訊かれたのだ。

 ならまずは、曲についての情報を得るところから始めたほうがいいだろう。そう思って、帰りの電車を待つ時間で曲名での検索をかけてみる。

 するとすぐに、それらしき情報が上がってきた。

 ただ、曲とは違うものの検索結果も出てくる。


「? ……ああ、同じ名前の絵もあるのか」


 同名の絵画の情報が、画面に表示されていた。とりあえず先に、曲の解説の方を見てみる。

 するとやはり、曲は同名の絵画を元に作られたものということだった。

 一度戻って、今度は絵画の情報ページを開く。テキストを読むとその絵は、フランスで起こった革命をモチーフに描かれたものということらしい。

 絵の中心にいるのは、革命の混乱のさなかで旗を持ち、先頭で人々を導くひとりの女性。


「『民衆を導く自由の女神』……」


 タイトルそのまんまだなという感じでは、あった。

 理不尽な圧制に反旗を翻し、自由を求めて起こった革命。

 その中心にいる、彼女。

 実際にそんな女性がいたかどうかはわからないが――ただ、民衆が蜂起するための理由はあった。

 その象徴が『女神』だ。

 自由の象徴。解放への旗印。

 『正解』の形。

 名もなき民衆が作り上げた偶像。

 自由の女神。


「……」


 鍵太郎は無言で携帯の中の、その絵を見続けた。

 なんだか自分と重なるよなあ、と思う。

 今まさに、自分はこれを求めているではないか。

 納得できない理屈からの解放を。

 『正解』を求めて。

 『女神』を求めて、こうして――


「なにを見てるの?」

「……っ!?」


 唐突に話しかけられて、鍵太郎は驚いて声のした方を向いた。

 そこはひとつ上の先輩の、平ヶ崎弓枝ひらがさきゆみえの姿がある。

 黒縁メガネの地味な先輩。だが担当楽器は、華やかなトランペット。

 彼女は鍵太郎の携帯を覗き込んで、そして眉をしかめた。

 『民衆を導く自由の女神』が描かれた、その絵。

 服を破かせながらも果敢に群集の先頭に立つ――その、おっぱい丸出しの女性を見て。


「……公共の場でこういうのに見入るって、やめといたほうがいいと思うんだけど」

「誤解です!?」


 確かに、絵が表示された瞬間に「うわあ」と思ったりもしたのだが。

 ふむ、これが芸術というものか……と、ちょっと思わなくもなかったのだが。そこは深く考えないようにしていたのに。本当に困ってるから真面目に考えようとしたのに。

 それを台無しにされて、鍵太郎は泣きたい気持ちになった。そんな後輩に、弓枝は氷のように冷たい眼差しを向けてくる。


「夢中になってなにを見ているかと思えば……やっぱり低音楽器って、変態しかいないんだね」

「違うのに!? すっげー真面目にちゃんとしたことを考えてたはずのに!? なんかずっげー最低なヤツを見る目をされてる!?」

「そのわりにはなんか、淀んだ目で女性の半裸の絵を見ていた気がするんだけど」

「それだけ悩んでたってことですよ!? なにこれ!? 言えば言うほど泥沼にはまっていく気がするのは、なんでなんだ!?」

「そうだね。今の部活に、春日先輩クラスに胸のおっきい人はいないからね。ごめんね」

「謝られても!? ていうか俺の悩みそこ!? そんなことで真剣に悩んでる風に思われたんですか俺は!?」

「公共の場ではお静かに。電車来たよ」

「納得いかねえーっ!?」


 納得いかない状況からの解放を要求したい。

 ぶつぶつ言いながら、鍵太郎は先輩と二人で電車に乗り込む。車内はガラガラだったので、一緒に腰を下ろした。

 電車が動き出したところで、先輩が言う。


「……で、なにに悩んでたの」

「先輩は今まで、俺をからかってたんですか……?」

「自由の女神のあの豊かな胸を見て、春日先輩のことを思い出してたのかなあって思ったのは、本当だけど」

「あの絵のタイトル知ってて言ってんじゃないか、この人」


 さすが先輩というか。だからこそこの人、というか。

 かなわない。降参の意味も込めて、鍵太郎は素直に思っていたことを白状した。


「……まあ、そうですね。あの絵を見て春日先輩のことを思い出してた、っていうのは、本当です」

「胸を」

「黙れ」


 これ以上この話を茶化すんじゃない。後輩の半眼での要求に、弓枝もようやく真面目に答えてくれる気になったようだ。

 ごほんと咳払いして、言ってくる。


「……民衆を導く自由の女神。『みんながやりたいやりたいことをやれる部活がいい』って言ってた春日先輩は、確かにそんな感じだったかもしれないね」

「はい。……けど、今年はそうじゃないって言われたんです」


 今の部長には「そんな甘いことだから、あの人は金賞を取れなかったんだ」と言われた。

 だから今年は逆に、厳しくして金賞を目指すのだと。そしてそのやり方に鍵太郎は疑問を持ちながらも、反論できないでいた。

 春日美里は、『正解』ではないと言われた。

 『女神』ではないと。

 それで自分は、方向性を見失った。


「そのとき言うこと全部否定されて。周りの人も、俺の言うことにはっきりと賛成はしてくれなくて。今ちょっと、自信がなくなってるんです」


 信じていたものを否定され。

 周りにもあの人のことは一度忘れて、自分がどうしたいかを見つけろと言われた。


「人の影に隠れて、人の言葉を借りて吹いてて。だから今までは失敗してて――自分の音が、よくわからなくなってて。周りを見ると一見すごく正しそうに見えるものもあるんですけど、やっぱりどこか違ってて」


 どうすればいいのか、よくわからなかった。

 不満を持ちながら、蜂起するには至っていない。

 自分にとってなにが正解か、わからない。

 『女神』が、いない。

 どこにも見えない。


「どうしたらいいんだろうと思って。技術的にも精神的にも、俺はあの人を目標にしてやってきました。それを真っ向から否定されて、どうしたいんだって言われても……っていう、そんな感じで」


 悩んでます。最近起こったことを一気に話し終えて、鍵太郎はそこで一息をついた。

 しばらくの間、電車が線路を走る音だけが聞こえる。


「……なんか、去年とはまるきり逆の立場だね」

「え?」


 弓枝がぽつりと言って、鍵太郎は目をぱちくりとさせた。


「……ああ」


 少し考えて、思い出した。そういえば去年の今ごろ、同じく電車の中で自分はこの先輩を励ましていたのだ。

 自分の音を見失って、自信をなくしていたこの先輩を。

 それを思い出して、鍵太郎は恥ずかしさで頭をかいた。


「……そうでした。俺あのとき、先輩に向かって偉そうに言ってましたよね」


 下手な今よりもっと下手で、楽器を始めたばかりの吹奏楽についてなにも知らない一年生が。

 偉そうに、先輩たちの言葉を借りて。

『自分の持ってるものを否定しないでください』なんて。


「今考えたら、なに言ってんだ、って感じですけどね。……なんだか、あのときはすみませんでした」

「謝らないで」


 頭を下げようとする鍵太郎に、弓枝はぴしゃりと言った。


「あのとき、きみにああ言ってもらえたから今のわたしがある」

「……先輩」


 今度こそ冗談ではなく、弓枝は本気のようだった。

 地味で目立たないのがコンプレックスだった去年の彼女は、もうそこにはいなかった。

 そこにいるのは今年、吹奏楽部の花形楽器であるトランペット、しかも首席奏者を務める、堂々とした先輩だった。


「……そういえば先輩、三年生になって音変わりましたよね。あれってなにがあったんですか?」


 前々から気になってはいたのだ。

 三年生になってからの弓枝の音は、去年とは違って聞こえた。

 本人も気にしていた通り地味で目立たなかった彼女の音だが、ここ最近は妙に響くようになってきている。

 今までは視野の広さや緻密なバランス感覚を生かして、セカンド吹きで通っていた弓枝だ。

 卒業したトランペットの先輩が本当に派手にぶちかましてくる人だったので、弓枝にもそれができるのか不安視する向きもあった。

 だが彼女はこうして、立派にその役割を果たしている。

 一体、なにがあったのだろうか。鍵太郎の問いに、弓枝は淡々と答えた。


「別に。わたし自身は特に変わってない」

「じゃあ、なんで」

「吹き方を変えた。周りの音を聞いて、それに乗せるように自分の音を出してる。だからよく響くんだと思う」

「周りの、音?」

「そう」


 伴奏楽器である自分と同じようなことを、メロディー楽器の先輩がやっている。

 それが不思議だった。怪訝な顔をする鍵太郎に、弓枝が解説してきた。


「色々考えたの。豊浦とようら先輩みたいな吹き方は、わたしにはできないってわかってたから」


 どこにいても聞こえた、あの先輩の音。

 けれどそれを真似するのは、地味な自分には無理だとわかっていた。

 だから、自分にできる方法を探した。


「あの人は単独でも十分音が聞こえてた。だから、かえって人と合わせるのは苦手だった。わたしはむしろ逆。合わせるのが得意で、だからセカンド吹きって言われてた。

 けど調べたらわかったの。トランペットは、その下の音域のホルンを足場にして吹けばだいぶ響くようになるって。だから、最近はそうやって吹いてる」

「そう、なんですか……」


 誰かの力を借りて音を響かせること。

 それは視野が広く、バランス感覚に優れた弓枝にしかできない技だ。


「トランペットの音は、先輩みたいに派手に吹くだけじゃない。遠くからきれいに響いてくるようなものだって、ある」

「確かに先輩の音は、そんな感じです」

「うん。むしろコンクールではそういう感じの曲のほうが多くて、そういう意味では豊浦先輩よりも、わたしの方が今回の曲には向いてるのかもしれない」

「へー……」


 自分の弱点と向き合って、それを長所に変えた。

「自分の持っているものを否定しないでください」というあの言葉から生まれた。

 それは、彼女の『答え』だった。


「すごいな……」


 そこまでやってのけた先輩に、鍵太郎は感嘆の声をあげた。

 彼女が持っているものは、名前のごとく弓のようなものだった。

 自分だけの『武器』。

 他の音を台座にした、正確無比な遠距離狙撃。

 それが、今の平ヶ崎弓枝という人だった。


「そうだね。きみの言葉を借りて例えるなら、豊浦先輩は近接攻撃に特化した、アタッカータイプだったんだろうね」

「そうですね……」


 自分だけの音がある。自分だけの武器がある。

 コンクールは確かに戦いの場です、とあの人は言った。

 なら、自分の武器は――音は。

 一体なんだろうか?


「俺の、それは――」


 この先輩は持っているものを否定せず受け入れて、弱点を長所に変えた。

 だから彼女だけのものになった。だとしたら、人の言葉を借りて吹いていた自分の、それは――


「どこかの本で読んだ。チューバ奏者が持っているのは、『信仰』だって」

「信仰?」


 はっきりとしたイメージが湧かずに考え込んだ鍵太郎に、本好きの先輩はそう言った。


「そう。その人が持っている信念。それがなければ、あんな負担の大きい楽器はできないって。そう書いてあった」

「信念……」


 その言葉に、否応なしに思い浮かぶのはあの人のことだった。

 民衆を導く自由の女神。

 春日美里。

 それを見失って、今自分はこうして彷徨っている。


「けどそれは、ひるがえせば長所になる?」


 よく、わからなかった。

 それのどこが長所になるというのだ。さらに謎が深まって、鍵太郎の眉間のしわもさらに深いものとなる。


「えーっと……。どうすればいいんですか、俺?」

「さあ? その辺は自分で考えれば?」

「なんかこの辺は相変わらずクールだよな、この人……」


 言われるだけ言われて突き放されて、鍵太郎はなんだか釈然としない気持ちになるのだが。

 しかし、だからこその遠距離狙撃なのか。

 平ヶ崎弓枝は次の駅で降りるため立ち上がり、去り様に鍵太郎に向かってこう言った。


「『自分の持ってるものを否定しないで』」

「……先輩」

「借りは返したよ」


 そう言って、弓枝は電車を降りていく。


「……まいったなあ」


 かなわない。その後ろ姿を見て、鍵太郎は苦笑した。

 弓枝の向かう方向。

 そこに女神のひるがえす旗が、見えたような気がして。



###



 散々迷って、鍵太郎は先輩への返信に簡素な一文を打ち込んだ。

 聞きたいことや相談したいことは山ほどあったが、それには触れないことにした。

 なんとなく、ここでそれを言ってしまったら、また同じことになりそうな気がしたからだ。


「相変わらず俺は、先輩を追いかけてばっかりの情けないやつですが……」


 これからは、それだけではない。

 やはり『女神』はまだ見つからないが。

 それでも戦うための、意思はある。


「『自分の持ってるものを否定しないで』、か」


 あの人に教えてもらったこと。

 それを元に――自分の武器を探すことにした。

 どこか知らない場所で、確かにつながっているあの人に向けて。


「では……『お互いがんばりましょう』、っと」


 鍵太郎は、ただそれだけを送信した。

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