第123話 きみはどうしたい
「みんな、久しぶり!」
そう言って音楽室に入ってきた
久しぶりなのに、先生があまりに相変わらずだったからだ。ひん曲がった丸メガネの下の、人目を引く端正な顔立ち。見てくれだけなら映画に出てきそうな俳優さながらだ。
しかしその実態は、顧問の先生曰く「音楽が好きすぎて、子どものまま大人になったアホなやつ」なのである。
今だってそのアホ大人は部屋を見渡して、「おー。これはまたたくさん一年生が入ったねえ。いいことだー」と無邪気にはしゃいでいるのだ。外面はすさまじくいいだけに、より残念に見えた。
だが城山を初めて見る一年生にとっては、そうではないらしい。
「うわあ、あのときのすごいカッコいい人!?」
「え、残念イケメンだよ?」
興奮気味に叫んだ後輩の
一年生は今日初めて城山と会ったのだ。朝実だって去年の本番で客席から見たことがある程度で、まだ彼のことをよく知らない。
だから黄色い声をあげていられるのだろう。それが今日の練習で、戸惑いの声に変わるはずだ。
そう思っていると、城山が新一年生たちに言う。
「一年生のみなさん、はじめまして、こんにちはー。僕はこの学校外部講師として指導をさせてもらっています、城山匠といいます。
専門はトロンボーンです。コンクールでは本町先生に代わって、僕が指揮を振らせてもらいます。どうぞよろしくお願いします」
『よろしくお願いしまーす!』
城山に応えて、部員全員があいさつをした。
アイドルにするように城山に手を振った後で、朝実が鍵太郎を振り返る。
「なに言ってるんですか湊先輩。すごくちゃんとした普通の人じゃないですか」
「だまされてる!? それはだまされてるよ、宮本さん!?」
「あーあ。嫌ですねー。相手がイケメンだからって嫉妬する男の人って」
「うわ、なんかすっげえ納得がいかない!?」
結局は、人は見た目が九割なのか。
後輩が軽蔑の目を向けてきて、鍵太郎は地団駄を踏んだ。これ以上言ったらさらに誤解を招きそうなので、涙を呑んで後輩の説得をあきらめ、自分のいつもの席に向かう。
相変わらずといえば、こちらも音域も立場も、相変わらずの最底辺ではあるが。
城山が来たということは、コンクールに向けた練習が本格的に始まるということでもある。なんだかんだ言ってもこの先生は、鍵太郎が直接知っている中ではもっとも音楽に通じている人物なのだ。
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『民衆を導く自由の女神』。
今回川連第二高校がコンクールで選んだ曲は、それだった。
「確か何年か前の、コンクール自由曲候補選CDに入ってませんでしたっけ?」
城山がスコアに目を走らせながらそう言った。
金賞を取るには選曲からして重要だ。先日部長がそう言っていたのを、今のセリフで鍵太郎は思い出していた。
先輩たちは本気で勝ちにきているのだ。
大会で勝ち進むために、好きだけではない理由でこの曲を選んできた。
「今年は去年とは、少し趣向を変えてきたんですねえ。まあ、これはこれでとてもいい曲ですから。やってみましょう」
ぱたん、とスコアをいったん閉じ、城山はケースから指揮棒を取り出す。
「初見ですか? 何回かは合奏してみた? じゃあ感じは掴んでますかね。僕は初めてですけど、思いっきり振らせてもらいますから――では」
城山が指揮棒を構え、鍵太郎は楽譜を見た。最初は静かなシーンで、自分は休みなのだ。
数えながら、城山が動くのを見送る。
いち――そう心の中でつぶやき、目を伏せた。
暗闇から、微かな火の粉があがっていく。音源ではそんなシーンだったが――
に、と数えて、そのまま目を開ける。そんなはっきりしたイメージは見えてこなかった。自分の周りにあるのはやはり音楽室で、炎の煌きなど感じられなかった。
さん、とつぶやくと、サックスの細かいフレーズが巻き起こる。
それが自分の中のカウントとそれが微妙に合わなくて、鍵太郎はわずかに眉をしかめた。
もうすぐ出番だ。それに備えないといけない。
トランペットの閃光が、薄く頭上を通り過ぎていく。
かすかなそれを追うように、鍵太郎は音を出した。どこか踏み込みきれてないのは、自分でもわかっていた。
なにかがまだ、足りない。でもそれがなんだかわからない。
上滑りするように自分の音が押し流されていく。けれど全員がそんな感じだったような気がした。
『自由の女神』とはなんだろう。
誰もが空回りしていて、誰もが自由なんかじゃなかった。
『女神』はどこにいるのだろう。
『正解』はどこにあるのだろう。
それがわからないまま、音を出す。遠くで小さなメロディーが聞こえる。そちらの方が明るく感じた。
嵐のようなノイズの中、その方角に向かう。少しだけ温かさと柔らかさがあったように感じられたが、いつしかそれも遠ざかっていった。
後に残るのは、自分が主役の場面だ。
部長に任せると言われたそこを力を入れて吹く。せめてここは前に出て吹かなければならない。
低音楽器三人だけのここは、せめて――そう思ったが、やはり細かいところは全員では合わなかった。
先輩が早く感じる。朝実は不安定だ。そんな中でやたら自分だけが大きく出してしまって、鍵太郎は空気を読んでないのはこちらの方なのではないかと不安になった。
だがそれで引くのもおかしい。
それは去年の自分と一緒だ。誰かに頼って、そうでなければ吹けなかったあのときと。
今年はそうでないと決めた。
自分でやるのだと――そんなギリギリの気持ちの中で、全員が低音の上に乗ってくる。支えきれるかそんなもん、とさすがに悪態をつきたくなった。
みんな好き勝手言いやがって。全部を受けるこっちの身にもなってみろ。
そんな風にして限界までたわんだ和音が、引き絞られて弾け飛んだ。
全部がバラバラになって、その混乱のさなか部長のブレーキドラムが走っていく。
全員について来いと言うかのように。
だが彼女は唯一絶対の『正解』ではない。
『自由の女神』だとは思えない。
そう思ったことはきっと間違ってなくて、それでいいはずだった。
だから従いはしない。
けど、ついていきはする。部長のテンポは正確で、混沌とした流れはそのおかげで少しすっきりとしていたからだ。
やはり彼女の言うことは、間違いなどではないのだろう。
多少納得いかなくても。正解のひとつであることに変わりはない。
そんな中から、どうやって自分の答えを見つけていくのか。
『民衆を導く自由の女神』はどこにいるのか。
音を出しながら、探っていく。
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「間違っていいから、みんな思い切り出してごらん」
合奏を終えた直後に、部員たちに向かって城山はそう言った。
「間違うのは怖いよね。でも失敗を恐れて縮こまったまま練習するのは、本番で一番事故につながりやすいんだ」
だから今のうち、いっぱい間違えておくといいよ――ひたすらに『正解』を求める生徒たちに、先生は穏やかにそう言った。
「まずは自分の吹くフレーズを、どういう風にしたいか。それを考えることから始めればいいんじゃないかな」
「どういう風に、したいか」
鍵太郎は小さくそこを繰り返した。それに、城山がうなずく。
「そう。音符はどこに向かうのか。色はなに色か。どんな形をしているか。明暗は。遠近は。固さは。厚みは。速さは。重さは――。他にもいろいろあるけど、それらをどうしたいかによって、音楽的正解は変わってくるんだ」
「またか……」
鍵太郎は渋い顔になった。答えは自分で考えろと、先生にまで言われたようだった。
そんなに自分は何も考えていないように見えるのだろうか。いや、トロンボーンの同い年にはむしろ難しく考えすぎだと言われた。だからそうではないのだろうが。
さっきの合奏だって、吹きながら散々考えていたのに。
自分の『答え』を。
音楽的正解、を。
城山の話では、どうしたいかによって正解は変わってくるということだった。
民衆を導く自由の女神とは、一体なんなのか。
曲の本質にたどり着くことが――つまりは答えを出すことになるのだろうか。
そうすれば、金賞を取れるのだろうか。
「僕は、正解そのものは教えてあげられない。でも、そこに至るためのヒントならいくらでも教えてあげられる。気がついたら言っていくし、みんなからどんどん訊きにきてもらってかまわない。
みんなこの曲をどうしたいか、考えること。これ次回までの宿題ね」
はーい、という部員の返事がして。
さらに城山はいくつかの指示を出し――今年度のこの先生の初合奏は終了した。
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「めちゃめちゃいい人じゃないですか!」
そして朝実にはそう言われた。
「すっごい優しいし、丁寧だし、カッコいいし。世の中にあんな神様みたいな人がいるんだって思いましたよ!」
「なぜだろう。その通りなんだけど、なんかすごく納得いかない……」
解せぬ。まじ解せぬ。
鍵太郎がうなっていると、おませな後輩は楽しそうにこちらに訊いてくる。
「城山先生、結婚してるんですかね? まだ? 彼女とかいるんですかね?」
「宮本さん意外とゴシップ好きだよね……俺と
「だって、気になるじゃないですか!」
「まあ、気になるといえばそうなんだろうけど」
それがこの年くらいの女の子の、素直な行動なのかもしれないが。
女子の噂話というのは、男の自分には理解できない発展を遂げているときがある。ただでさえ城山は誤解を招きやすい人物なのだ。
だから鍵太郎は一応、朝実に訂正しておくことにした。
「たぶん、彼女とかいないと思う」
「そうなんですか?」
「うん。あの人は音楽と結婚したようなもんだから」
かつて鍵太郎がそう言ったとき、城山はそれを笑顔で肯定したのだ。
その言い回しを気に入ったようだ。その通りだと言っていた。
「もう彼女とかどうでもいい……とまではいかないと思うけど、楽器吹いてるほうが楽しいんじゃないかなあの人は。そんな気がする」
城山が残念イケメンと呼ばれながら、それでも彼が生徒から先生先生と慕われる理由はただひとつ。
本気で音楽と相対しているから。それだけだ。
そのせいでまともな女の人を寄せ付けなくなっているのが、哀れでもあり、また愛される部分でもある。
鍵太郎がそう言うと、朝実は迷わず言ってきた。
「じゃあ、湊先輩と同じですね!」
「あ゛?」
「彼女とかそういうのより、楽器吹いてるほうが楽しそうですもん!」
「えー。そうでもないんだけどなあ」
そういえば、最近はなんだかんだ色んなことを部員に言われるようになってきているのだが。
それが愛されているということなのだろうか。まあ、言ってくれないよりはその方がマシなのだろうが――というかなんだ哀れって。
言われてみれば確かにまともな女の人は周りにいないし、本当に愛されたい人からはむしろ遠ざかっているけどな!
「あ。前言ってた春日先輩という人のことですか」
「うん」
彼女と音楽は今イコールだ。どうでもいいというわけではない。
あの人との約束を果たすために、がんばっているという部分もある。
だから楽しそうに見えるのではないかと、思ったりもするが。
「モテたいからって音楽やるより、音楽やっててカッコいいほうがモテるんじゃないですかね?」
「あー。そうかな」
本気で音楽と相対している。だから慕われる。
その方があの人にもカッコいいと言ってもらえるだろうか――そう考える鍵太郎に朝実は続ける。
「そうですよ! だから城山先生はカッコよく見えるんですよ!」
「うわ。真似したくない!」
危ないところだった。なんというかいくら金賞を取りたいからといって、アレの真似をしたら本末転倒だと思う。
間違ってもいいよ、と先生は言っていたが。
「なるべく間違いたくはないんだけどな……」
色々思い出して鍵太郎はため息をついた。むしろ恥ずかしさに奇声をあげたくなる。そんな失敗ならもう、去年散々にやっているのだ。
それを繰り返したくないからこうしているのに。
城山はもう『正解』がわかっているから、そんな風に言えるのだ。
「あーあ。俺の女神はどこにいるんだろうな……」
「なに言ってるんですか先輩。というかむしろ残念なのは先輩のほうじゃないですか」
「少なくとも、この後輩がそうだとは思えない……」
こちらも相変わらずの後輩に、うめく。
『女神』はどこにいるのだろう。
彼女は、誰なのだろう?
曲の本質。そこにたどり着くために――
――きみは、どうしたい?
そう言う先生の声が、鍵太郎の心の中にもう一度響いた。
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