第122話 感性の女神
「うわぁ!?」
「どしたの湊。また難しいこと考えてたの?」
楽器のスライドを伸ばした姿勢のまま、浅沼涼子が首をかしげる。
彼女の吹くこのトロンボーンという楽器は、細い金属の管を伸ばしたり縮めたりすることで音の高低を変えるものだ。
その速度はさながら、ボクサーがジャブを打つようなものである。
そんなものを間近でやられたらたまったものではない。いつもどおりの態度の涼子に向かって、鍵太郎は抗議の言葉を投げる。
「お、おま、結構怖いんだぞ真横でスライド伸ばされると!?」
「ごめんごめーん」
「悪びれろよ!?」
「あははは」
笑顔で謝ってくる同い年に「まったく……」とため息をついて、鍵太郎は頭を押さえた。
彼女にしてみれば、軽く肩を叩くくらいの感覚なのだろう。
そのくらい楽器が自分の身体の一部になっているのだ。そう思って、鍵太郎は額から手を離した。
確かに、難しいことを考えていた。
それは今までの自分の考え方とはだいぶ違ったもので、でもどうしても飲み込まざるを得ないものでもあるのだ。
子どもが嫌いな食べ物を飲み込めないようにずっとそれを噛んでいて、しかし吐き出すのもためらわれて顔をしかめていた。
そこに、先ほどの涼子の一撃である。
ショックで思考が飛んで、へばりついていたものがはがされたような気がする。飲み込んだのか吐き出したのかもわからない。
おかげでどうにもならない状態からは脱して、そこは感謝すべきかもしれないが――まあ、だからといってこのアホの子に改めて礼を言う気にはなれないのだけれども。
その代わりといってはなんだが、涼子に訊いてみる。
「……なあ、浅沼。こないだの富士見が丘高校の演奏会さ、すごかったよな」
「だね! 最後のボーンのソロ、かっこよかったね!」
「ああいうの、やってみたいよな」
「うん!」
涼子が元気にうなずいた。
先日行われた県内屈指の強豪校の演奏会で、鍵太郎はいつか自分がやりたいと思っていたことを目にしてきた。
そしてそれは、この同い年が去年からやりたいと言っていたことでもある。
自分たちの演奏と演出で、お客さんと一緒に会場を盛り上げる――
おぼろげな目標だったそれを、富士見が丘高校の吹奏楽部は鍵太郎たちの目の前でやってのけたのだ。
脱落者を出すほどの厳しい練習をやらなければ、ああいったものはできないのだろうか。
そんなやり方に疑問を持っていた鍵太郎にとって、あの光景は忘れたくても忘れられない、強烈な記憶になっていた。
「……なんかさ。考えちゃって。先輩たちと言うとおり、俺って甘いのかなって」
そんなんじゃコンクールで金賞を取れない、と。
少し前に部長に言われたのだ。それが今現在の鍵太郎の悩みの種だった。
再びため息をつく鍵太郎に、涼子は「わー。やっぱり難しいこと考えてた」とあっけらかんと言う。
「湊はなんでも難しく考えすぎなんだよー」
「おまえがなんにも考えてないだけだろうがよ……」
「いやあ。それほどでも」
「褒めてねえよ」
いつものやり取りをして、涼子は言う。
「だってさ。楽しいことやりたいなーって思うんでしょ? だったらいいじゃん」
「う……うん?」
「やろうよ! ああいうのさ、絶対楽しいよ!」
「だからおまえ、あれやるのには相当きつい練習が必要だと言うに」
怒鳴られたり、先輩なんて殴られたりしたというのだ。
肯定できるわけがない。そう言う鍵太郎に、涼子は相変わらずなんにも考えていない様子で即答した。
「だって、湊そういうことしないでしょ」
「え?」
「怒鳴ったり殴ったりさ。湊はそういうことしないでしょ?」
「あ、ああ」
「じゃあ、それでいいじゃん」
「……うん? あれ……?」
相変わらずの力強い単純思考に、なんだかこっちが馬鹿なことを考えている気分になるのだが。
「いいのか……? それで……」
「いいんじゃない」
「おまえ絶対、適当に言ってるだろ」
「湊の言ってることは、難しくてよくわからないんだもん」
「おまえなあ……」
理屈ではなく感覚の選択。
涼子のそれは、今まで間違ったことはない。いや、明らかに間違ってることはあるのだが、それは全員で突っ込んで止めるので間違いにはならない。
それがアホの子扱いされる原因でもあるけれど――こんな風に正解が見つからない状況での彼女の言葉は、いつだって鍵太郎に見えなかった道を示してくれるのだ。
スライドを前に向けて吹っ飛ばすように。
やりたい方に自分を、引きずりまわしてくれる。
「まあ、うん……そうだよな。悩んでたって解決しねえよな」
『正解』は自分で考えろといわれた。
いくらすごいものを見たところで、それが絶対に正しいわけではないのだ。
あれは彼らの回答だ。
では、自分はどうするのか?
「……そうだな。やっぱ、無理やりとか強制とか嫌いだ」
「あたしもきらーい」
「おまえはそうだろうな!? ……ま、なんだ。やっぱりそういうことしないで金賞取れる道を、なんとか探したいな」
そんなことできるわけがない、だからおまえは甘いんだと部長に言われそうだが。
やはり押し付けられた『正解』は、飲み込めないのだ。
鍵太郎はまだ少し残っていた苦いそれを、いったん吐き出すことにした。
コンクールまでまだ時間がある。
あと三ヶ月弱。それまでに、自分なりの回答を導き出そう。
『正解』は、ひとつではない。
###
「あんたなに言ってんの!? 真実はいつもひとつに決まってんでしょ!?」
「そんなどこぞの少年探偵みたいなこと言っても、俺はだまされないからな!?」
同い年の
光莉は吹奏楽の強豪中学出身なのだ。考え方は鍵太郎とはだいぶ違う。
怒鳴られて育つのがあたりまえの環境でやってきた。そんな彼女がこう言うのは、予想通りでもある。
「感性だけで吹いて金賞取れれば世話ないわよ! ただでさえ統一性のないうちの学校の音、まとめるのは無理やりにでもやるしかないでしょ!」
「感性だけで吹いて、アホみたいに上手いこいつみたいな例だってあるじゃねえか!」
「やっほう! 褒められたよ!」
「それ褒めてるの!? けなしてるの!?」
「両方だ!」
素直に喜んでいる涼子の脇で、鍵太郎はさらりとひどいことを言い放った。
だって、真実なのだ。教えに来てくれている外部講師の先生がプロのトロンボーン奏者なこともあってか、涼子は初心者で入部したとは思えないほどに腕を上げている。
それは彼女のアホなくらいの素直さと、感性があってのことだ。それに救われることもしばしばあることだし――と思っていると、光莉は言ってくる。
「あのねえ……涼子ちゃん今度は、トロンボーンのセカンド担当になるわけでしょ。今までみたいに感性任せってわけにはいかないわよ」
「……どういうことだ?」
「セカンドっていうのは、和音の要なのよ」
和音、ハーモニーというのは色々な造りがあるが、とても大雑把に言うと基本、三つの音で構成される。
ド、ミ、ソだ。
セカンドはそのうち、間のミの音を吹くことが多い。
「三音ってやつよ。ハーモニーの色っていうのは、その間のミの音で決まるの。
曲とかバランスによって、セカンドは音の高低やボリュームを微妙に上げ下げして、雰囲気を作るのよね。明るくしたり暗くしたり。和音の要になるっていうのは、そういうことよ。音域的には楽に出てあんまり練習しなくてもできるポジションだと思われがちだけど、実はすっごい重要で、きちんとした理論に基づいて吹く頭を使う立ち位置なんだから!」
「頭を使う、だと……!?」
光莉の言葉に鍵太郎は戦慄した。それは涼子の一番苦手な分野ではないか。
「うちの部だと、
「あの人並みに頭使わないとダメなポジションなのか!?」
あの黒縁メガネの地味な先輩は、相応に頭もよさそうではあった。
帰りの電車で本を読んでいるのもよく見かけるし、同じことを涼子にやれと言ったら、ものの数秒でダウンしそうな感じではある。
身震いしながら涼子を見ると、しかしやはり彼女はよくわかっていない様子だった。
「うーんと? つまり、あれでしょ。いい感じにハモればいいんでしょ」
「めちゃくちゃ感性頼み!? それじゃダメって言ってたの聞いてた!?」
「音程なんてセンチ単位で調整しちゃうよー。トロンボーンのスライドは自由だー」
「やっべえ、こいつを信用した俺が馬鹿だったかもしれない!?」
「だから言ったのに……」
自由ぎる涼子に絶望する鍵太郎に、呆れる光莉。
そんなバラバラな面子でコンクールに挑むということを改めて思い知らされ、鍵太郎はまた頭を抱える。
「不安だ……」
「だいじょうぶだよー。よくわかんないけど」
「おまえのそういうところは、ほんといいとこでもあり悪いとこでもあると俺は思うんだ!?」
「そろそろコンクールの楽譜配られるかしらね。どうなることやら……」
光莉がつぶやく。そう、本当にどうなることやらだった。
自分の選んだ道が想像以上に茨の道であることを、鍵太郎は涼子を見て悟った。
けれど彼女は、なんにも考えていない笑顔で言うのだ。
「そっか! コンクールの曲、早くやってみたいねー! 楽しそう!」
などと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます