第125話 教科書にはない答え
「先輩、前から思ってたんですけど、これってなんて音符なんですか?」
そう言ってきた後輩の
朝実の担当は、鍵太郎と同じ低音楽器であるバリトンサックスだ。
つまり、曲中で鍵太郎とは似た動きをすることも多い。今も朝実が指差しているのは、鍵太郎の楽譜にあるのと同じ形の音符だった。
後輩が指差しているそれは、三つの音符が線で囲ってあり、線の上に「3」と書かれている。
そして後輩の素朴な質問に、鍵太郎はひきつり笑いを浮かべた。
「ええっと……名前は知らない」
「ええっ!?」
朝実が心底驚いたように叫んだ。
彼女は初心者だが、自分も去年までは初心者だったのだ。まだまだ知らないことはいっぱいある。
その音符は、先日の合奏では音源の真似をして吹いていたものだ。なので正確な名前は鍵太郎も知らなかった。
「それは『二拍三連』っていうんだよ、アサミン」
するとそんな後輩二人に、三年生で低音パートの最年長である高久広美が苦笑して言ってきた。
普段は酔っ払いみたいな人だが、知識と実力は確かな先輩である。広美の言葉に朝実は「ふーん」と楽譜を見つめる。
「こんなの、音楽の教科書に載ってましたっけ?」
「載ってないかもしれないね。三連符はわかる? あれの応用バージョンなんだけど」
「えーっと」
朝実が記憶を探るように上を向いた。その間に先輩がちらりとこちらを見てきたので、鍵太郎は恐る恐るその問いに答える。
「……一拍に音を三つ入れる、それが三連符、ですよね?」
「うん、正解。正確には『ひとつの音符を三つに分ける』だけど、まあそれでもいいっしょ」
及第点がもらえて、鍵太郎はほっとした。
これで答えられなかったら、後輩の前でさらに恥ずかしい思いをするところだった。おそらく広美は、答えられると思って振ってきたのだろうけど。
さりげないフォローで失墜しかけた後輩からの信頼は、なんとか取り戻せたようだった。朝実は鍵太郎と広美のやり取りに、ふんふんとうなずいている。
「二拍三連はその応用。その名の通り、二拍を三つに分ける」
「ふむふむ」
「ただし約束があって、『均等に』三つに分けなきゃいけない」
『?』
鍵太郎と朝実は揃って首をかしげた。
首が同じ角度に曲がっている後輩たちを見て、広美は笑いながら続ける。
「さっき言った、普通の三連符の話に戻ろうか。三連符は一拍に三つ、音があるわけだから、二拍なら六つだね。ここまではいい?」
「はい」
「はあ」
「六つの音は『二・二・二』の三つの括りに分けることができる。このひと括り分の長さの音を、二拍のうちに三回出すんだ。だから『二拍三連』。どう? この説明でわかる?」
「わかります」
「はあ。なんとなく」
鍵太郎と朝実がそう言うのを聞いて、広美は笑顔でうなずいた。
そしてその笑みを、一段と深くする。
「つまりね。こないだ合奏できみら二人が吹いたあれは、本当の二拍三連じゃなかったのよ」
「う……」
笑顔のまま怒られた。それを悟って顔をこわばらせた鍵太郎に、広美は先日の合奏で起きたことを解説する。
「こないだは最初の括りの音を、長く取りすぎてたよね。聞いたものをなんとなく真似してるだけだとそうなっちゃうんだよ。だからこの三人だけなのに、揃わなかったっしょ?」
「……はい」
鍵太郎は冷や汗をかきながらうなずいた。確かにこのあいだやった合奏で、この音譜の部分は合わなかったのだ。
広美のリズムが早く感じたのはこのせいだ。というか先輩が早かったのではない。自分が遅かったのだ。ちゃんと理論立てて説明されると、ぐうの音も出なかった。
朝実はまだ、ぴんと来ていない顔をしているが。不思議そうに譜面を眺める後輩をよそに、上級生二人はやり取りを交わす。
「こないだ言ったじゃん湊っち。コンクールっていうのは、音楽について勉強したことを発表する場でもあるんだって。それはこういうことだよ」
「肝に銘じておきます……」
あのときも言われたが、耳の痛い話だ。
部長が言っていたのはこういうことなのかな、と今更ながらに鍵太郎は思った。音符の裏にあるルールを知らしめることで、それに従って曲を作りをする。
それならみなで長さも揃うし、リズムも揃う。
確固たるルールがあれば、それに外れるのは『いけないこと』だと言うこともできる。
自分のような経験の浅い人間ががむしゃらに練習するより、その方がよほど効率的だろう。
ただ、それだけではない気もした。
経験者の筆頭格である現部長に対抗するには、それだけが『正解』ではないような――
そう鍵太郎が悩んでいると、広美がニヤニヤと笑っているのが見えた。
「……なんですか、先輩」
「いいや。あたしはなーんにも企んでないよ?」
「もうなんか企んでるって、宣言してるようなもんじゃないか、この人は……」
つまり広美にしてみれば、今怒ったのだって全部計算ずくということなのだろう。
相変わらず腹の底が読めない人である。こうなるとなにがどうあっても考えていることを教えてくれないのはわかっていたので、鍵太郎はそれ以上追求することを放棄した。
あの人の代わりに自分の師匠をやってくれているこの先輩は、たまにこうして言うだけ言って、わざと手を差し伸べないことがある。
まるで弟子がちゃんと答えを出せるのを、知っているかのように。
未来を読んでいるかのように、泰然自若として。師匠はニヤリと笑った。
その未来視こそが、自分の『武器』なのだと言うかのように――
「ま、せいぜいがんばりな湊っち。きみが感じたなんかモヤモヤっとしたものを形にするには、教科書にある答えだけじゃ、まだまだ部品が足りないんだもの」
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「部品が足りない、かあ」
練習が終わって、鍵太郎は広美に言われた言葉をぽつりとつぶやいた。
それは確かに、そうかもしれなかった。
思ったことを形にしきれない。
だからこそ自分は、先月末に部長と言い争ったときに、コテンパンに打ちのめされたとも言える。
「あーあ、怒られてる。だからこないだ言ったじゃない。感性だけで吹いてたら上手くならないって」
得意げにそう言ったのは、鍵太郎と同じく二年生の
彼女もこの学年では相当な経験者であり、その分多くの知識を持っている。
だからこそのこのドヤ顔である。薄い胸(本人に言ったら絶対殴られる)を反らす彼女を、鍵太郎は半眼で見返した。
「涼子ちゃんみたいな逸材だったらともかく、あんたみたいな普通の人がただ吹いて上手くなると思ったら大間違いよ。真面目にやりなさいよね」
「まあ、そうなんだけどさ……」
光莉の言うことは、正論は正論だ。
だが人間、正論だけでは納得いかないものである。部長に言い負かされても、納得いかなかった自分のように。
だから鍵太郎は光莉から目を逸らし、ボソリと言った。
「……そうだよな。おまえら経験者の『武器』は、その知識なんだよな」
「は? なに? 『武器』?」
「気にしないでくれ。こっちの話だから」
わけがわからないという顔をする光莉に、それだけ言う。「なによー。教えなさいよねー」と彼女はぶーぶー言ってきたが、鍵太郎はそれよりも自分の思考に没頭した。
部品や、言葉。
知識に、理論。
思いを形にするために、足りないものがある。
それを手に入れるためには、どうしたらいいか?
「え、なに? 私の知ってることだったら……えーっと、教えてあげても、いいわよ?」
「ごめん、ちょっと黙っててくれないか」
「さっきからなんなのよ、あんたはっ!?」
なぜかあさっての方を見ながら言ってくる光莉にそう答えたら、なんだか怒られた。
そろそろ本気で殴られそうなので早めに結論を出しておきたい。いつもどおり顔を真っ赤にして怒鳴ってくる彼女をよそに、考えを巡らせる。
光莉の言うとおり、いろいろ調べて学んでいくことは必要だろう。
だがそれは、部長と同じ土俵に立つだけだ。彼女を説得できる材料になるかと言われれば、疑問は残る。
自分は楽器を始めて一年程度だ。対して部長は中学からの経験者。年季の差は埋められない。
なら、それ以外のなにか。
教科書に載ってない答え。
ここにいる経験者の彼女たちにはない、自分だけの『武器』。
それを手にするには――と思ったところで。
そんな物騒な単語とはかけ離れた、穏やかな声がした。
「あ、湊くん。楽器しまう前にちょっとだけ、選抜の曲合わせよう」
そう言ってやってきたのは、同じく二年生である
「選抜……」
その言葉を繰り返す。
自分と咲耶の二人は、二週間後に迫った県の選抜バンドのメンバーでもあった。
書類選考とはいえ、県のトップクラスの学校が何校も集まる、そこでなら――
「……おおう」
今のこの部にはないものが、得られるのではないか――?
ひらめきの衝撃で固まる鍵太郎に、戸惑ったように咲耶は言ってくる。
「え? なに? どうしたの湊くん」
「うん。今なんだか宝木さんに少しだけ、自由の女神が重なった気がしたんだ」
「うち、仏教なんだけど」
神様じゃなくて仏様なんだけど。思ったことがそのまま口をついて出てしまったが、咲耶の気にするポイントはそこではないようだった。
ズレた突っ込みをしてくる彼女に、なんでもないと手を振って――そして、鍵太郎は言う。
「よし、やるか。宝木さん、やろう!」
「え? あ、うん。なんだかやる気でいいことだね」
「ちょっと! なんかその態度の急変が納得いかないんだけど!?」
選抜に出ない光莉をよそに、テキパキと準備をする鍵太郎と咲耶。
手を動かしつつ、鍵太郎はむくれている光莉に説明する。
「俺はさ。こないだまで選抜は、いけ好かない連中が集まるもんじゃねーかと思って、ちょっと乗り気じゃなかったんだ」
「じゃあなんで、いきなりやる気になったのよ」
「うん、なんていうか、さ」
鍵太郎はそこで改めて、光莉を見た。
彼女は選抜メンバーに選ばれなかったのではない。
選抜を辞退したのだ。
それを知っているからこそ――あえて鍵太郎は、彼女に対しては悪い言葉を使うことにした。
おまえは来なくても大丈夫だよ、と言うために。
「それはそれで――あいつらの『武器』を盗める、いいチャンスじゃないかって思ってさ」
「だからなんなのよ、その武器って!?」
「殺生も盗みもダメだよー」
やはりわかってはくれなかったが。そして咲耶の突っ込みも、やっぱりズレてはいたが。
やる気になったのに変わりはない。なので鍵太郎は床に置いておいた楽器を手に取り、持ち上げた。
他の意味でも肝心なものが、抜けたりズレたりしているけれど。
あるいはそれが――自分の武器だと言うように。
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