第120話 最果ての城

 大ホールの中に入ると、嘘のように視界が開ける。

 湊鍵太郎みなとけんたろうは人ごみから抜け出し、ホールの高い天井を見上げた。天井は木製で、ライトが星のように光っている。

 それを見ていたら、さっきまで苛立っていた気持ちが不思議と落ち着いていくような気がした。

 ホールに来るといつも思うのだが、この広い空間には人に遠くを見つめさせる、なにかがあると思う。

 練習のときも、コンクールの本番のときも。

 精霊だったり魔物だったり、そんなものに例えられそうななにかの『力』をいつも感じていた。

 それは、今日は何を見せてくれるのだろう。ゆっくり息を吸って、吐く。肺が震える息吹を感じる。

 これから見るのは富士見ヶ丘高校、吹奏楽部の演奏会だ。県内でも有数のレベルを誇る強豪校の演奏。

 去年はただただ圧倒されるだけだった。

 なら今年は――と、思っていたところで、同じ吹奏楽部の部員の声がする。


「湊くん。こっちこっち」


 ざわざわとした中でもよく通るその声の主は、同い年の宝木咲耶たからぎさくやだ。

 見れば既に、大体の部員が固まって座っている。手招きされて、鍵太郎は咲耶の隣に腰を下ろした。赤い布の敷かれたイスはふかふかで柔らかい。

 開演までまだ時間があるので、パンフレットを見る。校長や顧問の先生のあいさつ文などは飛ばして、プログラムと曲の解説のページを開いた。

 その中に、鍵太郎と咲耶が練習している曲の名前がある。


「『最果ての城のゼビア』って、今度の選抜バンドでやる曲だね」

「そうだね」


 来月にある県の選抜バンド。そこでやる二曲のうちのひとつが、この『最果ての城のゼビア』だ。

 今年のコンクールの課題曲でもある。A部門の審査曲であるこれは、B部門である鍵太郎たちには本来縁のないものだ。しかし選抜バンドで吹く曲でもあるため、二人とも楽譜をもらって練習はしている。

 だが正直、二人だけでは吹いてもよくわからないといった印象が強い曲だった。最初の方などは効果音の連続でわけがわからないし、チューバとクラリネットではあまり一緒にやることもない。

 全員が揃って、ようやく全貌がわかる曲なのだろう。なので今回の演奏は参考にしよう。そう思いながら鍵太郎はプログラムをざっと見て、それから部員の紹介を眺めた。三分の一くらいが男子部員だ。みんな笑っていて、女所帯に男ひとりのこの身としては、とてもうらやましいと思う。

 そして今後の活動予定というページを見たときに、鍵太郎は首をかしげた。


「……東関東大会出場って、この学校はもう予定に入れてるんだな」


 月ごとに分けられた予定のを見てつぶやく。そこには九月の欄にはっきりと『東関東大会出場』と記してあった。

 吹奏楽コンクールは高得点を取って金賞を受賞した団体の中から、さらに上の大会に進む代表の学校が選ばれることになっている。

 本番の演奏が全ての一発勝負だ。なのでそれまで結果などわからないはずなのだが、富士見ヶ丘高校にとっては本番をやるまでもなく、上の大会に抜けることは『当たり前』として扱われているようだった。

 代表どころか金賞すら取れていないこちらとしては、この書き方はなんだか、多少の傲慢さを感じてしまう。

 胸の内のこの納得いかない感じは、僻みなのだろうか。鍵太郎が渋い顔をしていると、咲耶が言ってきた。


「それだけこの人たちはがんばって練習してるんだよ。だから気にしない方がいいよ、湊くん」

「がんばって……か」


 よそはよそ、うちはうちということで――それで収まればいいのだが。これは今自分が悩んでいるのと少し関係している事柄だけに、鍵太郎は少し、考えてしまった。

 パンフレットの写真はみんな笑っているが、そうでないこともあるのだと、自分は知っている。

 去年ここの吹奏楽部を去った、ひとりの女子生徒。

 望んでこの強豪校に入ってがんばって――そして心折れて、音楽を放り出してしまったあの人の友達。

 高みを目指すというのは、やはりそういうことなのだろうか。

 こんな風に金賞を取って代表になるためには、多少の犠牲はつきもの、という。

 みなの言う『吹奏楽部の常識』は、やはり正しいのだろうか?


「でもやっぱり、なんか違うと思うんだよな、それ……」


 再びそうつぶやく。

 部長には、そんな甘いことでは金賞を取れなどしない、と言われはしたが。

 できるなら、そんなことをしないでもなんとかしたいというのが、鍵太郎の願いだった。

 だって、その友達が舞台から降りてしまったとき。

 あの人はボロボロと――大泣きしてたんだから。

 泣くのは、嫌だ。

 いったんあの人の記憶からは離れた方がいいと忠告は受けたが、それでもやっぱり誰かがつらい思いをするのは嫌だった。

 しかし、だからといってどうすればいいかと問われれば、まだ返す言葉がないわけで。


「……まあ、そういう意味でも今日は、ここの演奏を参考にしたいんだよな」


 単純に技術面でも、その後ろの思想の面でも。

 自分の中のなにかを形作るために、これからの演奏で見るものを使わせてもらえばいい。

 このホールは見せてくれるだろうか。

 なにが正しいのか、なにを貫くのか――それを、決めるためのものを。



###



 と、かっこつけて言っても。

 一曲目が始まった瞬間、そんな考えは彼方に吹っ飛ばされた。

 貫かれるような音圧に、この演奏会を斜めから見ようとしていた自分が砕かれるのを感じる。気に食わないとかあらを探してやろうとか、そんなひねくれた見方はこの演奏の前では無駄なのだと悟った。

 一曲目ということでファンファーレと共に軽快なリズムが流れていって、気がついたらそのリズムを追っている自分がいる。そんな風にして、ただただ曲に聞き入った。

 蝶ネクタイに白ジャケットを着た富士見ヶ丘高校の吹奏楽部員たちは、本当に自分と同じ年くらいなのかと思うほど自信たっぷりに見える。中ではどう考えているか知らないけれど、少なくとも音はそうは聞こえない。

 全部の音が生き生きしていて聞こえる。どの楽器の人間も、とにかく今自分に出せる最高の音を出しているように聞こえた。しかしそれでも、連携は崩れていないのだ。

 揃っている。それは部長に言われた通りで――揃っていて、きれいで、とても、上手かった。

 きらめく風のように、音が吹き抜けていく。その風に沈んでいた気分が浄化されていく。上手い学校はやっぱり上手くて、だからこそこんなにお客さんが見に来ているのだろう。


「すげー……」


 一曲目が終わって、素直にそう思った。そう言うしかなかった。この演奏を馬鹿になんて、絶対にできない。

 そして、『最果ての城のゼビア』が始まる。

 重厚なファンタジー映画の、始まりのような場面から曲は始まった。古く分厚い洋書を開き、語りかけるようなホルンの旋律。そこから一気に加速して、場面が切り替わる。

 咲耶がよく練習していて、どう吹いたものかと首をかしげていたクラリネットのメロディー。

 それをこの学校は悠々と吹いていた。鳥が空を飛ぶようで、その先に白い雲と空がある。同じメロディーをトランペットが受け継いだことで、今度はその旋律に輝きが増した。しかしすぐに暗転し、またしても場面が切り替わる。

 今度は鍵太郎が首をひねっていた、打ち込みが散乱するところだ。結局これはなんの場面なのだろうか。自分の吹いているところになると、いまいちなにを表しているのかがわからなくなる。

 とりあえず拍をちゃんと数えて、サックスと一緒に恐れず飛び込めばいいんだなということはわかった。

 出したいのは緊張感なのだろうか。息をひそめるような沈黙を挟んでいることからして、なにかの前触れを思わせる。

 それがなにかといったら――争いの場面だ。

 激しい打楽器と、大きなものが迫ってくるような低音が、戦闘シーンが始まったことを表していた。そのキレが自分の思っていたより数段上で、レベルの差を思わせる。

 こちらが町の近くのザコ敵とのんびり戦っているのだとしたら、富士見ヶ丘の演奏はもっと先の、強敵と戦っているかのような印象だった。

 足音の重い、巨大な敵。それを相手取って戦っている。

 攻撃のキレが格段に違う。そんな彼らがなにを目指して戦っているのかといえば、それはもちろん最果ての城だ。

 長い戦いが終わり、また場面が映る。城を求めて各地をさまよい、場面がさらに加速して移り変わる。

 ほんの少しの間に過ぎ去った日々が瞬くようにして流れていき、雷が落ちるような激しいサウンドが吹き荒れていく。

 その先に――


 一瞬だけ、雲の向こうに城が見えた。


 最果ての城。それは雲の切れ間から、その威容を示すように一部だけをのぞかせている。

 争いやそれまでの旅路の疲れも忘れ、ただただその光景に見入る。鳥が舞い、蒼い空のその中で、求めていたその最果てとは――

 と、手を伸ばした瞬間その風景は暗転した。

 垣間見えたそれはすぐ見えなくなり、城はどこかに行ってしまう。暗雲が立ち込め、また旅は続く。

 そして……そんな物語があったのだよ、と囁くようにグロッケンがきらめいた。

 最初に開いた古い古い洋書を傍らに、暗闇からその先をわずかに照らす、小さな光。

 そこにぼんやり見えるのは、夢か幻か。

 それとも――というところで、静かに本は閉じられた。

 拍手が起こり、鍵太郎は息を吐く。参考にどころの話ではない。今まで考えてきたイメージが、根本から覆されたような印象だった。

 あの曲が、こんなに壮大な物語を抱えているとは思わなかった。もっとやっていいのだと、勝手にライバル視していた学校のやつらから言われたような気分だ。

 拍手をしながら、鍵太郎は高い高いホールの天井を見上げる。

 そんなことはないけれど――そこに、最果ての城があるような気がして。

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