第119話 正解はどこに

 ゴールデンウイークのただ中。

 湊鍵太郎みなとけんたろうたち川連第二高校の吹奏楽部員は、今年も富士見ヶ丘高校の演奏会に来ていた。


「ほえー。すごい人ですねー」


 鍵太郎の前で、一年生の宮本朝実みやもとあさみが行列を眺めて言う。彼女はおでこに手を当て、爪先立ちで集まる人々を見渡していた。

 千人超が入るホールの前には、開場前から既に長蛇の列ができている。その中には去年と同じく、学生以外の姿も多数見受けられた。中年夫婦に家族連れ、その他にも幅広い客層がこの演奏会を見に来ている。

 それだけこの学校の実力は、広く轟いているということなのだろう。

 富士見ヶ丘高校吹奏楽部。ここは県下でもトップクラスのレベルを誇るところである。

 朝実が肩越しに鍵太郎を振り返る。この人ごみを見て期待値が上がったのか、目がキラキラしていた。


「すごいですねー。これって、去年先輩たちがやってたクリスマスコンサートとかと、同じような感じですか?」

「同じ……ではないかな。ここは部員が多いから。去年は曲に合わせて、踊ったり仕掛けもやったり色々してたよ」

「踊る!? なんですかそれ!? 想像してたのとちょっと違います!?」

「俺も去年はそう思った。まあだからあんまり堅苦しく考えずに、勉強っていうより純粋に楽しんで聞いたほうがいいんじゃないかな」

「わかりましたー!」


 元々そういった楽しげなものが好きで、楽器を始めた朝実だ。

 鍵太郎の言葉にいつものように大きな声でそう答え、チケットを握りしめてうきうきとした足取りで行列の最後尾に向かう。それを苦笑して見送った。

 そう、今はそれでいい。今は。


「……俺は、今年は勉強、なのかな」


 つぶやく。去年の自分も、ひょっとしたらあんな感じだったかもしれない。

 ただ、今年はそうもいかない。

 二年生になって、見える世界が変わった。楽器を始めて一年経ち、少しはできるようになって、今年こそ金賞を取るという目的もできた。

 それはあの人と約束でもある。だから技術は貪欲に吸収しようと思っていいて、富士見ヶ丘高校くらいともなれば参考になるものは山ほどありそうではあった。

 だから朝実のように楽しむ一辺倒というわけにもいかない。

 多少窮屈だが、そうでもしないとコンクールでは――


「……金賞、かあ」


 ため息をついて、鍵太郎も歩き出した。気分が重い。先日部長に言われたことが、頭の中で回っていた。

 なにが正しいのか――そんな問いかけが、あの日以来ずっと続いていた。



###



「ふーん。ゆう、そんなこと言ってたんだ」


 事情を説明し終えると、鍵太郎の隣にいた三年生の高久広美はそう口にした。

 開場までの待ち時間。まだ動かない列の中で、鍵太郎は少し前に、部長の貝島優かいじまゆうに言われたことを広美に説明していたのだ。

 同じものを目指しているはずなのに、部長の考えは鍵太郎のものとはだいぶ違っていた。

 金賞を取るのに、個性はいらない。

 そんなものは矯正して、全員をきれいな形に揃えるのが『正解』なのだと――あのとき優に言われたのは、シンプルに言ってしまえばそういうことだった。


「はい。でもそれはやっぱり……違うと思うんです」


 先輩の言葉に迷いながらも、鍵太郎はそう返した。

 個人のレベルアップをしなければならないのはわかる。ある程度厳しくしなければいけない面もあるということも、ここ最近の本番でわかっていた。

 しかしいくら部活のためとはいえ、無理やり全員を同じ方向に追いやるのは、やはり鍵太郎には正しいとは思えなかったのだ。

 それを迷いなく『正解』と言ってのけた優は、どこか間違っている気がした。


「別に金賞を取りたくないとかじゃないんです。でも、じゃあどうすればいいのかって言われたら、はっきりとはわからなくて……」


 周りに大勢の人がいる中、少しうつむいて鍵太郎は言う。

 こちらは優に言われるまでは、今までのやり方でいいと思っていたのだ。

 卒業した前部長の、『みながやりたいことをやれて、言いたいことを言える中での合奏がいい』という言葉を引き継いでやっていけば、きっと金賞を取れると思っていた。

 けれど、そんな甘いことではダメだと言われた。

 人の言葉を鵜呑みにしないで、もっとよく考えろと言われた。しかしこの言葉が間違っているとは、鍵太郎にはどうしても思えないのだ。

 いろいろ考えて、余計にわからなくなってきて――こうして、広美に相談している次第である。

 この同じ低音楽器の先輩は知識も経験も豊富で、鍵太郎にとっては第二の師匠と言うべき存在だ。

 技術面でも精神面でも、なにか優を説得するヒントをくれるのではないか。そんな思いで鍵太郎は隣にいる広美の反応を待ったのだが。

 いつものように缶コーヒーを飲んでいた広美は、ため息をついて言う。


「優の言うことはまあ、間違いではないよ」

「……先輩まで、春日先輩は間違ってるって言うんですか」

「そうじゃねーさ」


 じゃあ、どういうことなのか。視線で訊く鍵太郎に、先輩は答えてくる。


「ちょっと耳の痛い話になるけどさ。コンクールっていうのは、ただ楽しいだけじゃダメな部分があるんだよ。一つの団体として、音楽について勉強したこと、曲について考えたものを発表する場所でもあるんだからさ。どうしても『学校として』どんなカラーで行くのかっていうのは、統一しなきゃいけないっていう部分は、ある。

 例えばさ、湊っちだってケーキの中に梅干し入ってたら嫌でしょ?」

「嫌というかもうそれ罰ゲームだと思うんですが」

「コンクールの審査員だってそう思うだろうよ。でも演奏に統一性がないっていうのは、つまりそういうことでもある。そういう意味では、確かにうちの学校の音は、もうちょっと揃えたいところでは、あるかな」

「でも去年は、そんなこと言われませんでしたよね?」

「去年はよかったんだよ。春日先輩たちの代は妙にスタープレイヤー揃いだったから、各楽器のリーダーに合わせていけば、特に意識しなくても自然と合って聞こえたんだ。それはとても幸せなことだった。けど今年はそうじゃない」


 言われて鍵太郎は、現三年生の顔ぶれを思い出した。

 恐ろしいほどストイックなフルートの先輩。

 鬼軍曹と呼ばれる打楽器の先輩。

 セカンドが得意な地味なトランペットの先輩。

 そして低音楽器という、目立たないポジションにいる広美――


「……」


 後輩の分際で考えていいことではないような気がしたが、みな職人肌というか、決め手に欠けるような人たちばかりだ。

 全員上手いは上手いのだが、卒業した先輩たちと比べると、どうにもまとまってない感じではある。

 口には出さなくても自覚はあるのだろう。その三年生である広美はコーヒーを飲み、皮肉げに唇の片端を釣り上げる。


「わかるっしょ? うちらの学年、求心力のあるタイプがいないんだよねえ。だったら技術面から無理やりにでもって思ったんじゃないかなあ、あのクソ真面目の優は」

「つまり人が変わったから、やり方も去年と変えなきゃいけないってことですか」

「そういうことかな」


 だから別に、正解も不正解もない。

 前部長も現部長も間違ってない。

 人が変わると音が変わる。それは確かに、この間の本番でわかってはいたが。


「えー……?」


 鍵太郎は額を押さえた。それは納得のいく答えではなかった。むしろ、そればらば現状は優の方が正しいという結論にすら聞こえた。

 そうではないのだ。

 そんなはっきりしない玉虫色の回答ではなく、広美にはもっと「これが正しいんだよ!」と言ってもらいたかった。

 そしてそれは、できれば卒業したあの人寄りの解答であってほしかった。そうすれば自分は、すっきりと楽器が吹けるというのに。

 なにが正しいのかという悩みは、未だ晴れないままだ。むしろ苦悩が深まった気がしてうんうんうなっていると、先輩は言う。


「まあ、そういうことよ。月並みな言い方だけど、正解はない。むしろどうしたいかのが重要じゃないかと、あたしは思うよ」

「どうしたいか、ですか」

「そう。きみが自分で、正しいと思ったことを。それを、選んだ方がいい」

「……」


 なにが正しいのか――なにを貫くのか。

 それを考えろと、部長には言われた。それはこういうことなのか。

 安易に人に答えを求めず、自分で考えろと。

 人の言葉を借りるなと――


「あ」


 そう思ったところで、鍵太郎は最近、違う部員にも似たようなことを言われたのを思い出した。


「そうだ、千渡せんどもそんなこと言ってたな……」


 トランペットの同い年にも、自分に自信がないから人の言葉を借りてるんだろうと言われたのだ。

 それは確かに、その通りで――正しさがわからないからこそ、今自分はこんなに悩み、人の言葉で納得しようとしているとも言える。

 あのときの指摘は的確だったのか。いつもの彼女の不機嫌顔が浮かんできて、鍵太郎は渋い顔になった。せっかく仲直りできたのに、この調子ではまたケンカする羽目になりかねない。

 どうしたものかと思っていると、つぶやきを聞きつけた広美が言ってくる。


「ん? 千ちゃん?」

「はい。まあなんというか……『いつまでも春日先輩の言葉に頼ってるんじゃない』みたいなことを、こないだ言われまして」

「へええぇぇぇぇ」

「!?」


 ニパァ――っと先輩が笑ったのを見て、鍵太郎は反射的にドン引きした。

 広美はとても楽しそうだった。むしろこちらの方が大切な話題だとでも言わんばかりに、ひとりでうなずいている。「そっかあ。千ちゃん、そのくらい言えるようになったんだねえ。じゃあ、もっと焚き付けちゃおうかなー」などと、なにやら不吉なことすら言い出す始末だ。


「い、いったいなにを企んでるんですか先輩……」

「え? イイコトだよー。イ・イ・コ・ト♪」

「その言い方だとなにか完全に、いかがわしいことに聞こえるんですが……」

「そうだねえ。今度は弓枝にどつかれないように、逃げられないとこに千ちゃんを連れ込まないとなあ」

「逃げてー! 千渡逃げてー!?」


 よくわからないが危険を感じて、どこかにいる同い年に叫ぶ。

 すると「まあ、それはともかく」と広美は仕切り直して言ってきた。


「千ちゃんの言うことももっともだね。湊っちはそろそろ、あのときの清算をしなきゃいけないかな」

「清算?」


 それは、どういうことか。

 あのときの――とは。首をかしげていると、缶コーヒーを飲んで先輩は続ける。


「そう。きみが春日先輩の言葉を借りて、立ち上がったあのときのだよ」

「……」


 言われた瞬間、口の中にあのときの苦さが広がった気がして、鍵太郎は黙り込んだ。

 もう、半年前になるか。

 学校祭が終わって、屋上で広美と話したことがある。

 あのとき、あの人の言葉を、よりによって自分が裏切っていたと知った。

 もうあの人を好きでいる資格もないと思った。だから楽器を吹くこともやめようと思った。

 けれども動けなくなった自分を救ったのは――それでも、あの人の言葉だったのだ。


「あのとき、折れた心に優しさっていう添え木をして、きみはなんとか立ち上がったね。でももうそろそろその添え木、取ってもいいんじゃないかなとあたしは思う」

「……先輩も、俺に春日先輩の言葉を捨てろって言うんですか」

「ちょっと違う。けど、その添え木は今、きみ本来の音を出すのを邪魔してるように見える。このまま進めばまた同じことの繰り返しだ。それは嫌でしょ?」

「……嫌です」


 あの人に全部を預けて、それで自分は失敗したのだ。

 もう二度と同じことはしないと誓った。じゃあ、そのために――?

 と、そこで開場時間が来たようで、列が動き出した。その流れに乗って歩き出す。


「とりあえず、ちょっとずつリハビリといこうか。大丈夫だいじょーぶ。きっと大丈夫だよ」

「はあ」


 なにが大丈夫なのかはいまいちわからないが、確かに広美の言うとおり、同じ間違いを繰り返したくはないのだ。

 そう考えればこのコンクールは、あのときのリベンジと言ってもいいのかもしれない。

 今回は周りが周りだけに、去年のようにあの人のために真っ直ぐコンクールに向かっていくという方法では、解決しなさそうだけれど――


「……じゃあ、どうすればいいか」


 『正解』は自分で考えろと言われた。

 本当だったら、万事うまくいって金賞を取れる選択肢を目の前にぶら下げられたら、一も二もなく飛びついてしまいたいくらいなのに。

 けれど、そうではないという。

 見つけたものが合っているかどうかの自信もないし、今の考えもそう簡単には変えられないけれど。

 そうやって探し続けることが、あの人との約束を守ることにつながるというのなら。

 気は進まないが――やるしかないか。


「とりあえず、まずはこの演奏会だね。これを聞いて、どう思うか。そこから始めてみようか」

「まあ、勉強しようと思ってはいましたけどね……」


 いろんなものを見て、人の話を聞いて。

 この方法も人に頼っているようで情けない気はするが、やはりこうして探していくしかない。

 幸か不幸か、今日これからあるのは富士見ヶ丘高校の演奏会だ。県内きっての強豪校のサウンド。それは一年経った今、どんな風に聞こえるだろうか。

 そこに正解はなくとも、ヒントはあるのだろうか。

 会場の入り口が見えてきた。人が次々とそこに入っていって、鍵太郎もそれに続く。

 チケットを渡し、パンフレットを受け取る。ごった返すロビーの中で、人ごみと格闘しながら大ホールに向かった。

 その途中で、誰かの肘がこめかみにぶつかる。痛みのせいか、段々イライラしてきた。こらえきれず口から愚痴がもれる。


「……まったく。情けないとか、甘いとか、考えろとか、勉強しろとか」


 ぶつぶつと半眼でつぶやく。最近言われたことを列挙していくと、なんだか自分が、ひどく理不尽な扱いをされているような気がしてきたのだ。

 なんなのだ。なんでこんなに、みなに怒られなければならないのだろうか。


「ああもう、みんなもっと、俺に優しくしてくれませんかね?」

「めいっぱい優しくしてるさ。みんなね」

「なんだかおかしいんだ……みんなの優しさがおかしいんだ……」


 先輩助けてください。やっぱり俺には、あなたの優しさが必要なのです。

 そう思うが、もちろんこの場にあの人がいるはずもなかった。それはもう知っていた。知っていたけど、思わずにはいられなかった。

 ぎゅうぎゅうと押される圧迫感の中、それをかき分けてホールに向かう。なにが正しいのかなんて知らないが、とりあえず今はそれが正解なのだと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る