第118話 選ぶブレーキドラム

 楽器を運ぶから付き合えと言われてついていったら、辿り着いた先はなぜか自動車修理工場だった。

 湊鍵太郎みなとけんたろうは呆然とその建物を見上げる。ひょっとして冗談なのだろうかと思ったが、部長の貝島優かいじまゆうは迷いなくそこに入っていった。

 そして、彼女は作業をしているつなぎを着たおじさんに話しかける。


「こんにちはー。おじさん、例のものの用意はできてますか?」

「おお、優ちゃん。今日も相変わらずちっちゃいねえ。できてるよ」

「ちっちゃいは余計なのです」


 あの人が優の言っていた知り合い、だろうか。冗談を飛ばしながらも笑顔を見せるおじさんに、高校三年生にしてはだいぶ小柄な部長はついていった。慌ててそれを追う。

 そのまま三人で工場の奥へと進む。いったいどこに楽器があるのというのか。優の担当は打楽器だが、それらしきものは見当たらない。

 あるのは車の部品とおぼしきものだけだ。きょろきょろとしているうちに、工場のつきあたりまでやって来た。


「これ……ですか?」


 そこにあったものを見て、鍵太郎は怪訝な顔をした。壁沿いにあるテーブルに、円盤状の金属がいくつか置かれていている。

 中心に大きな穴が開いていて、その周りにも小さな穴がある金属盤。

 ものによって大きさは違うが、おおむね人の顔と同じか、やや小さいくらいだろうか。

 茶色く錆びたそれはとても楽器とは思えない。だが部長の目当ては間違いなくこれのようだ。持っていた袋からバチを何本か取り出す。

 そのバチを持って手首をひねりつつ、優は言った。


「これが、ブレーキドラムという楽器です」

「え、楽器なんですか? これ」

「本来は車のタイヤのところにある部品なんだよ、少年」


 傍らにいたおじさんが解説を入れてくれる。なるほど、と形については納得できた。円盤状なのは元々がタイヤに付けるものだからか。


「叩いて音が出るものは、みんな打楽器なんですよ。覚えてますか? 去年の学校祭で、私が金属片を叩いてたの」

「あ……」


 言われて、鍵太郎は思い出した。去年の学校祭でやった、あの苦い思い出のある『吹奏楽のための第二組曲』。その中の『鍛冶屋の歌』で優は金属片を叩いていた。


「あのときのあれも、ここでもらったんですよ。打楽器は、曲の雰囲気を作る役割もありますから。たまにこうして楽器屋では売っていないものが必要なこともあるんです」

「へー……」

「さて。ではどれが一番いい音がするか、試してみましょうか」


 準備運動を終えた優が楽器のスタンドを取り出す。「湊くん、はじっこのやつから順番に持ってきてください」と言われ、鍵太郎は一番左にあったブレーキドラムを手に取った。

 持ち上げようとすると、腕に予想以上の負担がかかる。


「重ぉっ!?」

「ははは。そりゃ車の重要なところに使われてる部品だからね。重いよお」


 普段からこういったものを扱っているであろうおじさんは、快活に笑った。見た目以上に重い。どうりで優が楽器運びを手伝ってくれと言ったてきたはずだ。持てなくはないだろうが、彼女だけでは文字通り荷が重いだろう。

 二人いれば大丈夫だと思ったのか、おじさんは笑いながら自分の作業に戻っていく。本来ならこの人が優を手伝ってくれる予定だったのかもしれない。なら偶然自分が優と出くわしたのは、よかったのか悪かったのか。

 車の整備をする隣で楽器を叩くのは、なんだか妙な光景だった。ブレーキドラムのサビでうっかり服を汚してしまったので、叩いて落とそうとしたら余計悲惨なことになった。慌てていて手にもサビがついていたことに気付かなかった。

 後で水道を貸してもらおう。ため息をついてそう思うと、優が試奏を始める。

 ギィン! という硬い音が響いた。

 重く、詰まっている金属ならではの音だ。確かに学校にある打楽器では、こんな音は出せないだろう。部長がわざわざここに来たのもわかった。

 今度は彼女は両手に持ったバチで連打を始めた。ギギギギギギンッーというその緊張感のある音は、どこかで聞き覚えがある。

 なんだっけと記憶を探って、ぱっとひらめく。

 そのまま、鍵太郎はひとつの曲名を口にした。


「『民衆を導く自由の女神』……」

「おお、その通りです!」


 それを聞いて、優が嬉しそうに応えた。

『民衆を導く自由の女神』。それは、先日コンクールの候補曲であると優に聞かせてもらった曲だ。

 その中で聞いたことのない硬い音があったが、まさか正体がこれだったとは。

 目を輝かせて優は好戦的に笑う。部長である彼女は去年の末にはもう、金賞を見据えていた。やる気は溢れんばかりにあるだろう。


「このあいだの選曲会議で、コンクールは正式にあの曲で行くことが決定しました。なのでこうして楽器の調達に来たわけです。ブレーキドラムがなければトライアングルを工夫して叩いてもいいようですが、やはり指示通り、本物がいいでしょう。鉄の密度や金属の比率。それは曲の雰囲気に直結する、大切なものですから」

「こだわりますね」

「当たり前です。音楽を甘く見てはいけません」


 試奏を続ける部長の表情は、真剣そのものだった。それを見て、鍵太郎は『貝島優アイツは悪いやつじゃない。ただ真剣にクソ真面目なだけなんだ』という、卒業した先輩のセリフを思い出していた。

 邪魔しても悪いかなと思い、それ以上なにも言わないことにする。

 ただ、優の叩くその楽器の音だけに耳を傾けた。先輩の音はなによりも雄弁に、彼女の真剣さを表している。



###



 一通りすべての試奏を終え、優が選んだのは結局一番最初に叩いたものだった。

 おじさんにお礼を言って、工場を後にする。袋に入れられたブレーキドラムは重かったので、別れるまで鍵太郎が持つことにした。

 駅まで二人で歩きつつ、話をする。


「老人ホームの演奏も終わりました。これからはコンクールに向けてやっていくことになります」

「はい」


 吹奏楽の夏の大会、吹奏楽コンクールまではあと三か月ほどだ。

 それまで鍵太郎たちは、あの『民衆を導く自由の女神』という曲を練習していくことになる。

 去年は惜しいところで銀賞だった。今年こそ金賞を――卒業した同じ楽器の先輩と交わした約束を果たすため、鍵太郎は優の真剣さに付き合うことにした。

 彼女の厳しさは不安要素でもあったが、先ほどの様子を見ると、このくらいの気持ちが必要なのだと改めて思わされる。

 それは先日の老人ホームの本番での、自分の失敗があったからだ。後輩の世話にかまけて気づかないうちに気持ちが鈍っていた。他人のことばかり世話している場合ではない。自分のことを考えないと。

 優のきつい態度も、きっと後輩はわかってくれる。もし少しわだかまりができるようなら、先輩から言われた通り自分が橋渡しをすればいい。

 うん。それでいこう。鍵太郎は今後の方針を固め、重いブレーキドラムを持ち直した。

 それで少しだけ歩みが遅れた。前を歩く優は言う。


「今年こそ金賞を取りにいきます。そのためには、個々人のレベルアップが必要だと私は思っています」

「はい」


 それはおおむね鍵太郎が考えていたのと同じことだった。

 吹奏楽は団体競技でもある。個人があり、それを同じ楽器同士で合わせ、そして違う楽器と束にして音を飛ばしていく。

 なのでまずは個人ができていないと始まらない。前に先生が言っていた「混ぜるのではなく虹のように、いろんな音がそれぞれ聞こえるように」という言葉の通り、まずひとりひとりが色を出さないとならないのだ。各人のレベルアップは必須と言える。

 全員が全力で音を出したときに、曲のイメージが自分の中で広がるのが鍵太郎は好きだった。『民衆を導く自由の女神』の楽譜はまだ配られていないが、音出しをしたらどんな光景が見えるのか。練習してうまくなったらそれがどう変わるのか。とても楽しみだった。

 部長は続ける。


「なので前も言いましたが、ビシバシ指導していくつもりです。うちの部員たちはどうも自己流で癖のある吹き方をする人が多くて……その辺を徹底的に矯正するところから始めませんと」

「矯正……ですか」


 その単語に、鍵太郎は一瞬歩みを止めた。

 矯正。

 それは、今まで好きに出してきた音を、そうでないものに変えるということだ。

 その人個人でしか出せない音というものに、手を加えて――

 立ち止まったせいでさらに優との距離が開く。先輩は気にしていないのか、そのままの調子で言う。


「はい。変な癖は上達を阻害しますから」

「……阻害」

「まずは基礎練習です。あとメトロノームを使って全員の音を出すタイミングを合わせましょう。みんなのテンポがバラバラなのは打楽器や低音楽器奏者にとって苦痛でしかないですからね。その辺も直していきましょう」

「……まあ、そう、ですが」

「悪い癖は直す。テンポに個性はいりません。足並みをそろえることが団体競技である吹奏楽には必要で――」

「……」


 なんだか。

 急速に視界が閉ざされていくような感覚に襲われて、鍵太郎は立ち止まった。

 似たようなことを言われたことがある。

 それは去年のコンクールの本選。

 あの県下トップの強豪校の、顧問から――


「……先輩は」


 あのときの息苦しさを思い出してしまって、鍵太郎はそこで一度言葉を切った。

 胸に手を当てて、浅い呼吸を落ち着ける。違うんだ。目の前にいるのはあのときの『敵』などではない。

 うちの部活の、部長だ。だから、分かり合えないわけじゃない。

 振り返った優に、鍵太郎は言った。


「……音にはその人そのものが出る。そう、思いませんか」


 それは鍵太郎が大好きな、前部長が言っていたことだった。

 みんながやりたいことをやれる、言いたいことを言える。

 そんな中で合奏ができたらとてもとても楽しいことだと言っていた――彼女の言葉だ。

 だから、それを。

 自分は、ずっと大切にして。


「矯正とか、そういうんじゃなくて……もっと、その人の吹き方を尊重して」

「口当たりのいい言葉と理想だけで金賞を取れるほど、コンクールは甘くないのですよ」


 その言葉を聞いて、鍵太郎は息が止まったように感じた。

 いつもと同じ調子の優から迷いなく放たれたセリフは、『あいつ』と同じものだった。

 前部長の思想を見下した、『あいつ』と――


「その考え方は、宮園高校のあの顧問と、一緒じゃないですか……!」


 こらえきれなくて思わず叫ぶ。そうでもしなければ、あのときのように押しつぶされてしまいそうだったからだ。

 初めは、優があの場にいなかったからこういうことを言えるのだと思った。

 打楽器担当の優は、あのときあの場にいなかった。打楽器だけはリハーサル室には向かわず、本番直前に合流することになっていたからだ。

 だからあのときの怒りを知らず、こんなことを言える。

 鍵太郎はそう思ったのだが――


上欠茂かみかけしげるさんの言うことは正しいと、私は思います」

「……!?」


 『あいつ』の名前が出てきて、今度こそ鍵太郎は絶句した。

 知っている。

 部員の誰かに聞いたのか。

 優はあのとき浴びせられた言葉を聞いて、それでも『あいつ』が正しいと。

 そう、言っているのだ。


「甘いんですよ。コンクールは金賞を取らないと意味がないんです。個性を尊重するとか言っている場合ではないんです。

『自分の音は自分にしか出せないから、オンリーワンだから、なにも変えなくていい』というのは単なる怠慢です。苦手なところから目をそらして、臭いものに蓋をする言い訳です。自分を貫くというきれいな言葉でごまかした、単なるワガママです。そんなことでは、とても金賞なんて取れません」

「春日先輩は、そんなこと言わない……!」

「あの人のやり方では金賞を取れなかったではないですか」


 前部長の名前を出しても優は動じなかった。

 むしろ、既にそんなことは考えきったという様子だった。それは完全に――優が、春日美里かすがみさとのことを否定したことに他ならない。


「だめだったんです、やり方を変えるしかありません。ならば県下トップの強豪校――宮園高校の顧問である上欠さんの言葉を参考にするのは、当然のことだと思いますが?」

「……滝田先輩のこと、好きだったくせに」


 卑怯と言われようがなんだろうが、鍵太郎にはこの手段しか残されていなかった。

 口に出すべきかどうかは相当迷った。

 しかしもう、この人の力を借りなければ優は止められないと思った。卒業した打楽器の先輩、滝田聡司たきたさとしは春日美里に近い考え方を持っていたはずだ。美里のことは否定できても、聡司のことは否定できないはずだ。それなら――


「そっちこそ、春日先輩のこと好きだったくせに」

「……!?」


 それでも、優の態度は変わらなかった。

 ほんのわずかに不快げに顔をしかめてはいるが、それでも、部長は止まらない。


「本当にあの人のことが好きなんだったら、なんでもかんでも、なりふり構わず金賞を取りたくないですか? 自分の大切なものを分解して、より良い形に並べ直す覚悟はないんですか? 鵜呑みにするだけがあなたの『好き』ですか?」

「それ、は」

「そんなんでなんとかなるほど、甘くはない――やはりそうなります」

「それ、は……」


 おかしい。

 そう思いつつも鍵太郎は、優の言葉を否定しきれなかった。

 あのときだって、美里の正しさは証明できなかったのだ。

 それは、事実だった。

 対して、宮園高校は県下トップの強豪校だ。そのシステムは証明されたも同然で――


「それでも、俺は……」


 美里の考え方を捨てることはできなかった。

 それがあるから自分は今ここにいるのだ。あの人の優しさに救われて、一度ならず二度までも、手を貸してもらった。

 そんな人のことを、否定するなんて。


「……無理です」


 弱々しくつぶやいた鍵太郎を見て、部長はため息をつく。


「……まあ、今はいいです」


 優はちょこちょこと歩き、鍵太郎の手から楽器の入った袋を取った。


「でも、よく考えてください。なにが正しいのか。なにを貫くのか。……私も散々考えました。湊くんにも考えてもらうことを期待します」

「……」

「じゃ。今日は付き合ってくれて、ありがとうございました」


 うつむく鍵太郎を残し、優はひとり、重いブレーキドラムを背負って歩いていった。

 小さなその背中が消えても。

 鍵太郎は、その場から動くことができなかった。


「俺はどうすればいいんですか、先輩……」


 橋渡しなんて、できそうもない。

 そんな生易しいもんじゃない。

 優はひどく真面目で、真剣すぎた。それは確かに聡司の言うとおりではあった。

 しかしもう、彼女は手の届かないところまで行ってしまっていた。

 あの人との約束を守るために、あの人の言葉を捨てろと――そう、部長は言っているのだ。


「どう、すれば……」


 優しい先輩たちは卒業して、既にここにはいない。

 なにが正しいのか。

 なにを貫くのか。

 それを選ぶ覚悟を、まだ鍵太郎は持てずにいた。

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