第9幕 先輩になると勝手が違う

第117話 ちびっことおつかい

 休日、湊鍵太郎みなとけんたろうが道を歩いていると携帯にメールが入ってきた。

 『携帯変えました。滝田聡司たきたさとし』というタイトルの文面で、卒業した先輩の新連絡先が表示されている。


「どうしたんだろ、こんな時期に……」


 鍵太郎は首をかしげた。今は五月になったばかりだ。

 変えるんだったら、大学に入学する前に変えそうなものだが。それにこの間この人に電話をしたら、お客様の都合でつながりませんと言われたのだ。なにかあったのだろうか。少し心配だった。

 元々用もあったので、聡司に電話してみる。適当な柵に寄りかかっていると、先輩はすぐに出た。


『おー湊。ごめんなー』

「どーもー。お久しぶりです」


 卒業式以来だ。先輩の声がまったく変わっていなくて、鍵太郎はなんとなく安心した。

 どうやらなにかあって携帯を変えたわけではないようだ。単なる気まぐれなのだろうか。

 そう思っていると、聡司は笑って言う。


『いやー。参った参った。新入生歓迎会で酔っぱらった先輩たちに川に投げ込まれてさー』

「大学生怖い!?」


 驚愕の理由に、高校二年生の鍵太郎は恐れおののいた。

 なんだそれは。大学生ってそんなことをするのか。混乱する後輩に、先輩はあっけらかんと言う。


『携帯が水没してえらいことになっちまってさー。どうせだから新しく買い換えてみたんだ。快適だー』

「だ、大学生活をエンジョイされてるようでなによりです!?」


 果たして、これは正しい大学生の姿なのだろうか? そんな疑問を持ちつつも、鍵太郎は電話した当初の目的を思い出した。今はそんなことを話していてもしょうがない。


『ん? 貝島とどう付き合っていくか、か?』

「はい」


 そう、これが聞きたかったのだ。電話越しに鍵太郎はうなずいた。

 今現在吹奏楽部の部長である貝島優かいじまゆうは、鬼軍曹と呼ばれるほどの厳しい先輩だ。

 彼女のきつい言い方は、前部長の優しいあの人とはかなり違ったものだった。

 なので前部長の教えを受けてきた鍵太郎としては、どうその方針に付き合っていけばいいのかと思っていたのだ。

 しかし優と同じ打楽器パートだった聡司なら、彼女とどう接していけばいいかわかるはずだ。当たりのきつい優であるが、それでも聡司の言うことは聞いていた印象がある。

 先輩ということと、そしておそらくは――まあ、それは鍵太郎の予想に過ぎないのだが。

 後輩の考えをよそに、聡司は『ふーむ』と言った。


『貝島は言い方はきついが、言ってることは正論だ。まあ、だからこそきついっていうのはあるんだが』

「まあ、そうですね……」


 先日、楽器運びで一年生を叱り飛ばした優を思い出す。

 軽いトラウマになりそうなくらいの迫力だった。あれは確かに後輩も悪かったので、しょうがないといえばそうなのだが。

 しかし、正論だけで人は動かないのだ。

 怒鳴られた当人はもう同じ間違いはしないと言ったのだが、それを見ていた周りの後輩は明らかに動揺していた。

 雰囲気が濁った。それがわかった。

 それ以来自分もあんな風に怒られはしないかと、一部の後輩が優を避けるようになったのだ。そしてそれは演奏にも影響してくると、鍵太郎は思っていた。

 去年の部活は全員の仲が良くて、先輩後輩関係なく言いたいことが言える部活だった。それが演奏や雰囲気につながっていた感がある。

 しかし優があの調子ではそうもいかない。

 このままでは、よくないのではないか。そんな漠然とした不安が鍵太郎の中に渦巻いていた。

 なんとかしたいのだが、どうすればいいかはわからない。そんな後輩に聡司は言う。


『まあ、ちょっと気の弱い子だとキツイよな貝島は。だからアレだ。橋渡ししてやればいいんだよ』

「橋渡し?」

『そう、あいつのセリフから棘を取って、かみ砕いて後輩に教えてやるの。あの言い方だと「怒られた」っていう印象だけが強烈に来るから、言われてることが頭に入らないんだよな。だからおまえが、アイツは本当はこういうことを言いたかったんだ、って後で言われたやつに教えてやればいいんだよ』

「なるほど……」


 橋渡し、か。それなら自分にもできそうだ。

 聡司の言葉で少し希望が見えてきた。さすがはあの鬼軍曹と二年間も同じパートでやっていただけのことはある。

 そんな先輩は、貝島優を評してこう言った。


『アイツは悪いやつじゃない。ただ真剣にクソ真面目なだけなんだ』


 鍵太郎はうなずいた。優が真剣だということは今までの言動から、よくわかっていたからだ。

 今年のコンクールで金賞を取りたいという思いは自分も一緒だ。だから彼女には協力したかった。

 ありがとうございますと言うと、聡司は少し口ごもり、そしてため息をついて言ってくる。


『いや……すまん湊。本当だったら貝島が自分でそれができるよう、オレが教えてかなきゃいけなかったのに』

「まあ、しょうがないですよ。なかなか直らないでしょう、貝島先輩のあの性格は」

『……なあ。おまえちょっと、春日に似てきたな』

「え?」


 予想外の言葉に、鍵太郎の思考が一瞬止まった。

 好きな人であり、目標としている先輩に似てきたと言われるのは少し複雑だが、嬉しい。

 どこが似てきたのかはよくわからないけども――と思ったところで、鍵太郎の視界にある人物の姿が見えた。


『なあ湊、情けないのを承知で頼む。貝島のことを見ててやってくれないか? あいつは――』

「ちょっちょっ、先輩ストップ!」


 聡司のセリフを遮って、鍵太郎は声を出した。その人物が思いがけない、いや、ある意味この場に相応しい人間だったからだ。

 そして彼女は、こちらに気づいたらしく近寄ってくる。今の会話、聞かれてなかっただろうなと冷や汗を流していると、鍵太郎の耳に聡司の不満げな声が入ってきた。


『な、なんだよ。人がせっかく貝島のことを』

「す、すみません……ちょっといいですか先輩」

『なんだよ』

「今目の前に……その貝島先輩がいるんですが」

『へ?』


 間の抜けた聡司の声。それを追うように、ちびっこ鬼軍曹・貝島優は鍵太郎を見上げて言った。


「湊くん、ちょうどよかった。ちょっと付き合ってもらえませんか?」



###



 貝島優。

 彼女は小さな身体と厳しい気性から、部内で「攻撃的な小動物」とも言われている。

 つまりあのキツささえなければ、実は結構かわいい人なのだ。ちょこちょこと歩くその姿を鍵太郎は後ろから見守っていた。

 休日ということで部長は制服ではなく、なにやら動きやすそうなジーパンとパーカーを着ている。手には大きな袋を下げ、出かけているというよりなにかの作業をしにきた様子である。

 付き合ってくれと言われたのでついてきたが、まだなにをするのか説明は受けていない。とりあえず聡司との通話はいったん終了し、鍵太郎は優に話しかけてみた。


「あのー、貝島先輩。これはどこに向かってるんですか?」

「私の知り合いのお店です。楽器を調達しに行きます。運ぶの手伝ってください」

「あ、そうなんですね」


 それならば納得だ。優のこの服装も楽器を運ぶためのものなのだ。

 彼女が楽器というからには、打楽器だろう。ひとくちに打楽器といってもトライアングルから大太鼓バスドラムまでいろいろあるが、優が手に提げている袋からしてそこまで大きなものでもなさそうだ。

 それならこのちびっこでも簡単に持ち運べそうだが。まあ部長から手伝ってと言われたからには断るわけにもいかない。

 鍵太郎は迷いなく進む優についていった。先輩から優を見ていてくれと言われたこともあって、なんだか軽い保護者気分である。本人に言ったら怒鳴られそうではあるけれども。

 しかしこの辺に楽器屋などあるのだろうか。見たところ住宅街のど真ん中だが――そう思ったところで、優は足を止めた。


「ここです」

「……え?」


 先輩が指差した建物を見て、鍵太郎は眉をひそめた。

 そこにあったのは、新品の楽器を展示した楽器屋などではない。

 無骨な金属の並ぶそこは、どう見ても、自動車の修理工場だった。

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