第116話 苦い思い

 隣との距離が近すぎて、楽器がぶつからないように気をつけないといけない。

 それも、去年と同じだった。湊鍵太郎みなとけんたろうたち吹奏楽部は、今年も老人ホーム『福寿荘』に慰問演奏に来ていた。

 施設の食堂か、多目的ホールか。おそらくこの建物で一番広いであろう空間に楽器が所狭しと、入居者も数えきれないくらい座っている。

 あの人はいるかな。鍵太郎は車椅子のおばあさんの姿を探した。

 この施設には演奏に合わせて指揮をする、自分たちの演奏を楽しみにしてくれている人がいるのだ。

 部内で語り継がれているだけで本当のところはわからないが、少なくとも鍵太郎は去年、そのおばあさんが本当に演奏を楽しんで聞いてくれていたことを知っている。

 「また来てね」と言われたことは、自分にとって、また同じくその場にいたトランペットの同い年にとって非常に大切な記憶となっていた。

 ざっと見渡すが、そのおばあさんがどこにいるかはわからない。そして、あまり探していられる時間もなかった。

 鍵太郎はただでさえ大きな楽器が隣の楽器や譜面台にぶつからないよう、気を付けて腰を下ろす。


「えー。みなさんこんにちは! 川連第二高校吹奏楽部です。今年もみなさんと一緒に音楽をするため、こちらにやってまいりました!」


 顧問の先生が去年と同じく、司会進行を始めた。クリスマスのときと同じく部長がしゃべるのかと思ったが、今回は新入部員の世話で手いっぱいだったらしい。今日は演奏に専念することにしたようだ。少し残念ではある。


「まずは一曲目、去年好評で今年もリクエストのありました『演歌メドレー』です。どうぞ、お聞きください」


 やっぱりリクエストだったのか。去年の自分たちの演奏が気に入ってもらえたようでとても嬉しい。

 ではまず――この曲でお客さんを引き込むとしよう。

 先生が振り返り、部員全員を見渡してすっと指揮棒を構えた。音楽室で合奏するのとは違う、本番独特の一瞬の緊張が走る。

 予備拍と呼吸ブレスの音が重なって、最初の曲が始まった。

 メドレーの一曲目、『北国の春』。木管楽器たちのさえずるような旋律の後、一気に花開くように全員の演奏で幕が上がった。

 トランペットの主旋律に、鍵太郎の脳裏に今年から首席奏者になった図書委員みたいな先輩の姿がよぎる。この人は卒業したトランペットの先輩とはだいぶ音の質が違っていて、それで去年とは曲の印象がかなり変わっていた。

 卒業した先輩はとにかく明るくて、どんちゃん騒ぎの花見のただ中で吹いているような印象だったが――この人は少し遠くから、桜並木を眺めるような吹き方をする。

 どちらがいいということはなく、好みではあるのだろう。

 ただ鍵太郎が不思議に思うのは、その地味なはずの先輩の音が、これまでより存在感を増していることだった。

 自分でもコンプレックスに思っていたはずの、先輩の地味な音。それが最近どうしたのか、こうしてはっきりと聞こえてきている。

 あの先輩も、試行錯誤の中で得るものがあったのだろうか。すごいなと思いつつ、鍵太郎はテンポを安定させるためドラムの音を聞いた。こちらの音も去年叩いていた男の先輩とは違う。

 太鼓の山から見える顔は、去年ここで事件の発端になった双子の姉、越戸ゆかりだ。

 電子ドラムを買ったということで家で練習しているのか、最近の彼女も去年のどこか自信なさげな様子とはだいぶ変わっている。

 叩く場所やリズムが変わることで起こるガタつきがなくなっていた。以前より格段に乗りやすい。

 あの先輩と比べるとややパワーが足りない感はあるものの、先ほどのトランペットの先輩の吹き方もあって、かえってそのくらいの方がバランスがいいように聞こえた。

 演奏している人間が変わると、曲の印象が変わる。

 それは個人が出せる音が、人によって違うからだ。体格や普段の息遣い、しゃべり方などが全部音に出る。

 それが組み合わさって、ひとつの曲になっていく。先輩たちが卒業し、新しい部員が入ってきたことによって、同じ曲でも聞こえ方はかなり変わっているはずだ。

 新しい部員といえば、バリトンサックスを吹く失言大王、宮本朝実みやもとあさみは大丈夫だろうか。斜め前の席で吹いている彼女を見れば、その後ろ姿からはとにかく一生懸命な様子が伝わってきた。

 入部してきてから自分がつきっきりで教えてきたのもあって、初心者としては驚くほど音が出ている。それに鍵太郎は胸中でほっと一息ついた。彼女はこれが初めての本番だ。とにかくやりきってほしい。

 曲が切り替わりテンポが上がって、気持ちを切り替える。そうだ、周りばかりを気にしていられない。今は本番だ、とにかく自分もやりきらなければ。

 朝実と一緒に練習した、低音楽器の早い動きの場面にさしかかる。まだ緊張気味なところでテンポが上がったので、いつもより若干巻き気味だ。

 それに引きずられて、微妙にタイミングが掴みきれないまま、こちらも吹き始めてしまった。まずい、と焦りが出る。練習通りやれとか後輩に言っておきながら、まず自分ができていない。

 出す音が噛み合わない。不完全燃焼なまま曲が過ぎていく。なんで、こんな。

 もっと腹の底から、聞いている人に踏み込むような音を出したいのに。こんなぬるい音なんて出している場合じゃないのに。

 違う、違う、違う――そう思っているうちに、元から早いこの曲は、取り返す暇なくあっという間に過ぎてしまった。

 どうしてだ。

 なんでこんなことになった。

 自分の演奏が信じられなくて、鍵太郎は自分自身に問いかけた。

 こんなことになるなんて思いもしなかった。いつの間にか、これだという音が出せなくなっている。

 合奏ではうまくいっていたのに、本番になってみなが一段階上げている音についていけない。少しは成長したと思っていたのに、これでは去年と同じではないか。

 先輩になって、今年は後輩を教えてきた。それは自分の成長を実感できる時間だと思っていた。

 後輩はまだなにも知らないから、去年の自分を見ているようでいたたまれず、ことあるごとに声をかけてきた。

 それこそ、同い年に過保護だと言われるくらいに。

 けれど、それで朝実は上達して、自分もそれが嬉しくて――


「――」


 そこでふと、思う。

 だからか?

 知らず知らずのうちに自分は、後輩のことばかりにかまけて、自分の練習をおろそかにしていなかったか?

 後輩の成長を自分がうまくなったことのように勘違いして、気づかないうちに少しずつ――このくらいで大丈夫だろう、と手を抜いていなかったか?

 自分で考えて、ぞっとする。

 そんなことはない、とは言い切れなかったからだ。

 そしてだからこその、今の状況なのだ。

 音はとても正直な鏡だと、鍵太郎は卒業した先輩に言われた。詰めが足りなかった。一年生の時の自分は、もっと必死だった。今目の前で吹いている後輩のように、がむしゃらだった。

 それが今、先輩になった優越感でなくなっている――?

 楽器を吹いているからできないが、できるものなら歯噛みしたい気分だった。

 とことんまで自分に腹が立った。

 なにが、原点だ。

 あのときの気持ちを思い出してだ。そんなもの、口だけじゃないか。

 偉そうに先輩ぶって後輩に教えておきながら、いざ本番ではこれしかできない。

 自惚れんじゃねえよ、と自分を罵る。

 ここはいつだって、始まりの場所だ。

 あのときの気持ちを思い出すんだったら、あのときと同じ気持ちで吹いてみやがれ!

 思い切り息を吸って、吐く。まずはそれからだ。

 今できることをすべてやる。ここはもう本番だ。

 目をかっ開いて、感覚を全部使って、自分が出る一番の音を出すしかない。

 練習不足をその場のノリで片づけようというのだ。これほど不誠実なこともない。

 だが、もうそれしかない。メドレーの最後の曲で、鍵太郎は思い切り吹こうとした。

 しかし曲調が静かなものだけに、あまり大きな音が出せない。ぎりぎり、ぎりぎりと悔しさを噛みしめて――せめて最後のシメの部分だけは、最大の音量で吹くしかなかった。



###



 だから千渡光莉せんどひかりは怒ったのだろうか、と思う。

 いつも人を頼ってる、情けないあんたの手なんか借りないと言われた。

 二曲目は光莉がソロをやる時代劇の曲だった。ドラムは変わらずゆかりがやっている。

 他の部員があんなに上達しているのに、自分ときたらどうだ。人の言葉を借りて、偉そうに後輩に指導して、いい気になっていた。

 上手くなりたいと思ってるなんて、光莉には空々しく聞こえただろう。

 人の音ばかり聞いていた。それは彼女の言うように、自分の音に自信がないことの裏返しだったのかもしれない。

 いつのまにか、陰に隠れるようにして。

 気づけばこうして、その場をしのぐように吹いている。

 先輩の言葉を否定するつもりはない。ただ、自分がこうなってしまっていることは本当に、謝るしかないと思った。

 光莉のソロの場面にさしかかる。せめて彼女にはがんばってほしかった。自分のやり方で過去に勝ってみせると言った彼女は、かなり練習していたことだし――と思ったところで。

 フスーッ。

 ……は?

 息漏れの音と、聞こえるはずの音が聞こえないことで、鍵太郎は目をしばたたかせた。

 本番に弱い、光莉のクセがモロに出た。低い音域になったら復活してきたものの、誰もが知っている旋律だ。失敗はごまかしようがない。

 それ以上に、本人がこれは許せないと思っているはずだ。あれだけ大見得を切った以上、相当意気込んでいただろうに。

 いや、だからこそ、なのか。

 彼女の心中はケンカして以来読めなくなっているが、これはわかる。相当悔しいはずだ。

 終わった後、仲直りも兼ねて励ましに行こう。

 悔しいのは、自分も同じだから。

 全部の曲が終わって先生の指揮で立ったとき、鍵太郎は車椅子のおばあさんを見つけた。

 彼女は去年と同じように、ニコニコしていた。

 それが、申し訳なかった。



###



「……なあ、千渡」

「話しかけないでよ」


 本番が終わって楽器を片づけつつ、鍵太郎は光莉に声をかけた。

 彼女の反応はにべもないものだったが――今朝までは無視だったのだ。話す余地はある。

 鍵太郎はこちらから顔を反らす彼女に向かって、話を続けることにした。


「俺も悪かったよ。今日の本番で思い知った。やっぱり俺は、人に頼ってばっかりの情けないやつだった。思い知った」

「……」


 まだ無言だ、しかしこれなら――


「でもおまえも、悔しくなかったか?」


 その言葉に、光莉が予想通りぴくりと反応する。


「俺は悔しかった。できると思ってたものが、できなかった。あの人にすっげえ申し訳ないと思った。だから来年、またここに来て、今度こそちゃんとあの人の前で演奏したい。おまえもそう思ったんじゃないか?」

「それは……」


 光莉が振り向いた。その顔は案の定だ、泣きそうになっている。

 やっぱりか。去年と同じだ。必死に泣くまいとしていた。

 彼女も自分と同じだ。成長していない自分が悔しい。できなかったことが申し訳ない。

 じゃあ、どうすればいいのか――


「俺は失敗した。それはやり方が間違ってたからだ。今度はそんなことがないようにやっていく。で、千渡、おまえはどうだ?」

「私、は」

「俺が間違っていたように、おまえもどこか間違ってたんだと思う。それは今日の本番が証明してる。だから、今度はどうすればいいか、一緒に考えていかないか。それが今日失敗した俺たちが、やらなきゃいけないことなんじゃないかと、思う」

「一緒に……?」


 光莉はその言葉に反応した。苦しげだった顔に少し赤みが戻り、訊いてくる。


「ほんと? 一緒に考えてくれる?」

「ああ。約束する」

「じゃあ、春日先輩のこと、あきらめたの?」

「は? なんでそこで、先輩の名前が出てくるんだ?」

「……」


 なぜか光莉が沈黙した。その意味が分からないので、鍵太郎は説明する。


「だって、別に先輩のことは関係ないだろ。俺は自分が情けないとは思ったけど、先輩のことは変わらず――」

「……もういい」

「え!? なんで!? 千渡!?」


 せっかくいい感じに和解しかけたのに、光莉はぷいっとして歩いていってしまった。

 あいつ結局なんだったんだ。というか今のは仲直りできたのか、できてないのか。それすらもわからない。

 まあ、これからは無視されるということはたぶん、なさそうだ。頬をかいていると、後ろから部長の貝島優かいじまゆうがやって来た。


「湊くん邪魔です。早く楽器しまって、トラックに楽器乗せるほうに回ってください」

「あ、はい……」


 打楽器担当の優は、忙しげに片づけをしている。先に自分の楽器を片づけた一年生たちが、その手伝いに戻ってくる。

 自分もトラックへ急がなければ。そう思ったとき。

 怒鳴り声が聞こえた。


「なにしてるんですか!!」

「……っ!?」


 驚いて振り返ってみれば――今のは、優が朝実に向かって怒鳴ったのだということがわかった。

 朝実は来るときと同じくティンパニを運ぼうとしていて、その手は鍵太郎が触るなと言ったヘッドの部分にかかっている。

 あの馬鹿、来るときに言ったのに――と、鍵太郎は顔をしかめた。よりによって、優に見られてしまうとは。

 鬼軍曹とあだ名されている先輩は、唖然とした顔の後輩に向かって強烈に指導を始める。


「そこを持ったら壊れてしまいます! 持つならここ! フレームの部分! いいですね!?」

「は、はい、ごめんなさい……」


 部長のあまりの迫力に、新一年生の朝実はそれしか言えないようだった。優が立ち去った後、鍵太郎は朝実に声をかける。


「宮本さん、来るとき言ったじゃないか、そこ持っちゃだめだよって」

「あ、はい……すみません。本番が終わって舞い上がってて、忘れてました」

「忘れてたって……」


 せっかく言ったのに。確かに、初めての本番を終えて拍手をもらって嬉しかったのかもしれないが。

 だからといって。眉をしかめる鍵太郎に、朝実は「あ。でも」と続けてくる。


「今のでもう忘れません。今度からはもう、これを持つたび貝島先輩のことが思い浮かぶと思いますから」

「トラウマじゃないか」


 自分もやられたから、わかるけれども。

 今度はちゃんと、フレームの部分を持って楽器を運んでいく朝実を見送る。その姿に、少し前に考えたことが頭をよぎった。

 優しくすればいいのか。

 厳しくすればいいのか――。

 今まで朝実に鍵太郎は、だいぶ優しく接していた。

 しかし厳しくすることで、今のようにちゃんと伝わることもあるのではないか。今のやりとりで、そう思ってしまった。

 今日の件もある。朝実につきっきりで指導するのはもうそろそろ、控えた方がいいのかもしれない。

 だいぶ彼女もできるようになってきたし、光莉の言い方を借りれば「自転車の補助輪を外す」時期になっただろうか。

 それで転んでも、あとは彼女自身が立ち上がるしかない。そう。今までのやり方を変えなければいけない。

 また来年、ここで演奏をやりきるためにも。

 さっき自分は言ったのだ。

 卒業したあの人の言葉を否定することまでは、できないだろうけれども――


「……また、来ます」


 振り返って、そうつぶやく。ここで見たことはいつも、自分の始まりとなっている。

 どうすればいいのかはわからないが、やるしかない。苦い思いを胸に、鍵太郎はそこを後にした。

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