第115話 二回目の原点
本番の日の朝、
吹奏楽部は今日、老人ホームへ慰問演奏に行く。
それで楽器を運ぶのにトラックを使うのだ。三階の音楽室から大きな楽器を下ろしてくるのは一苦労で、部員全員が何往復もしながら自分たちの楽器をトラックの元へ運んできていた。
トラックのスペースに無駄ができないように、パズルをするがごとく楽器を積みこむ算段をしてく。
「大きい楽器、まだですか」
「ちょっと待って、もうすぐ……ああ、来た」
と、そこで言われた通り大きなティンパニが運ばれてきた。
まずはスペースを取るこれから積んでいくのが、常套手段だ。鍵太郎は重量級楽器に身構え、そしてそれを運んでいる人物を見てさらにびくりと身体をすくませる。
むすっとした顔でこちらを見ているのは、同い年のトランペット吹き、
彼女とは数日前、主義主張の違いで言い争ったばかりだ。言い争いというより、向こうがこちらに突っかかってきたような印象だったが。
それ自体はいつも通りだったのだが、今回は彼女にもまったく譲る気がないらしい。今もこうして、不機嫌な視線を送られている。
あれ以来、ろくに会話もしていない。この本番を期に、仲直りできれば――そう思って鍵太郎は、楽器を荷台に上げてくる光莉に話しかけた。
「あ……ありがとう、千渡」
「……」
だめだ。返事がない。
ただの――なんだろう。彼女は相変わらずツンとした態度のままで、楽器を渡すとすぐに立ち去ってしまった。
はあ、とため息をつくと、同じく楽器を運んできた
「光莉ちゃん、どうしたの? ケンカでもしたの?」
「まあ、うん……」
ここまで長いのは初めてだった。光莉と言い争うことは今まで何回もあったが、いつもその場で一応の決着はつけてきたのだ。
それだけ彼女にとっても、大切な問題なのだろう。しかし自分にも自分で曲げられない主張があるので、折れて頭を下げるわけにもいかない。
どうしたらいいのだろうか。困った鍵太郎は、咲耶に事情を話してみた。
卒業した先輩の言葉に従い、楽器を吹く自分。
対して、それを否定して自分の正しさを証明しようとする光莉――
話を聞いた咲耶は、困ったような苦笑いをするような、微妙な表情になった。
「ごめん……どっちの気持ちもわかるだけにコメントしづらい」
「宝木さんも、先輩の言ってることは間違ってるって言うの?」
「いや、そうじゃなくて……うーん」
それ以外にどんな問題点があるというのだろう。
それを咲耶はわかっているようだったが。彼女は結局、その点はぼかして言ってきた。
「とにかく、光莉ちゃんは湊くんのこと嫌ってるわけじゃないよ。そこは大丈夫」
「こないだもそれ、言われたんだけどな……」
後輩にも同じようなことを言われた。しかしだったらなぜ――と思ったところで、その後輩が楽器を運んでくる。
「重いですー!」
今日も元気にそう言っているのは、バリトンサックスの
運んでいるのは先ほどと同じくティンパニ。重い楽器だ。今彼女がそうしているように、普通は数人がかりで運ぶ楽器なのだから。
あまりの重量に、いったん楽器を置いて休憩している。そしてもう一度持ち上げようとするのを見て、鍵太郎は朝実に言った。
「あ、だめだめそこ持っちゃ。貝島先輩に怒られるぞ」
「?」
後輩がよくわからないという顔をしたので、鍵太郎は説明する。朝実が今持とうとしたのは、ティンパニのヘッドの部分だった。
胴体と皮をつなぐ部分で、この楽器の中で一番もろい部分だ。下手にそこを持つと壊れる場合がある。
打楽器担当の部長に見られたら怒鳴り散らされること間違いなしである。去年自分がやられたので、そうなる前に注意しておかねばなるまい。
初心者で入部し、今日が初本番になる朝実はまだまだ知らないことがいっぱいだ。「へー」と鍵太郎の説明を聞いて、今度はヘッドではなくフレームの部分を持った。
「ここですか?」
「そうそう。それでいいぞー」
そう、言えば分ってくれていたのだ。今までは、こんな風に。
光莉はなにを考えているのだろうか。
あのときは自分のソロを成功させるということを言っていたので、本番を成功させるという意味では自分と目的は変わらないだろうに。
「むぅ……」
なんだか気持ちがもやもやしている。
こんな気持ちで本番に臨むのは、聞いてくれる人に申し訳ない気がするのだが――しかしもうその日になってしまったのだ。現時点でのベストを尽くすしかない。
去年はあそこに行って、いろんなものを見たのだ。
初舞台にして、原点だった。今年はなにが見えるのだろう。
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『福寿荘』はその名の通り、壁が黄色く塗られている老人ホームだ。
楽器を搬入し場所のセッティングを終え、吹奏楽部の部員たちは自分の楽器を出した。鍵太郎がチューバを持っていくと、今年もやはり施設の職員にでっかい楽器だなあという顔をされた。
折り紙や写真など、入居者のものであろう作品が飾られている。そんな施設の一室を借りて、みなが最後の音出しをした。
新一年生のソワソワした様子が伝播しているのか、先輩たちも少し浮足立っているように見える。光莉は大丈夫だろうか。ここからだとよく見えない。
「うー! 緊張してきました!」
朝実が楽器を抱えて武者震いをしながら言った。彼女はそんな性格ではないと思っていたのだが、そうでもないらしい。
言いたいことをばんばん言っているような印象があるものの、それは思ったことが素直に出てしまうだけなのだろう。
今も全身から緊張した様子が伝わってきている。いつもと違う場所で吹くのは、それだけで何か違って感じるものだ。
音楽室とは違う。というか自分も本番というのはいつだって、多少息が上がっている。
鍵太郎は深呼吸をして少し呼吸を落ち着けた。いつもと違う響きに惑わされないこと。ドラムをよく聞くこと。それを自分に言い聞かせる。
そして、後輩も少し落ち着かせなければならない。去年の大暴走事件は楽しかったが、事件は事件だった。ないに越したことはない。
「宮本さん、ちょっと深呼吸しようか。息が浅いといい音が出ないから」
「あ、はい。すー、はー」
「そうそう。俺たち低音楽器が少し落ち着いてないと、上で動いてるやつらが……って」
「へー。湊っちも言うようになったじゃない」
「えーと……。自分でびっくりです」
ニヤリと笑って茶化してくるバスクラリネットの高久広美に、呆然とそう返す。気がついたら自分は、去年広美に言われたことと同じ言葉を口走っていたのだ。
演奏のベースになる低音楽器が落ち着いていないと、カオスになる。
そう言ったこのおっさん女子高生は、去年こんな気持ちだったんだろうか。言い方はともかく演奏面や考え方は実は結構尊敬している先輩の言葉だっただけに、自分が先輩になったんだということを鍵太郎は改めて自覚した。
少しは自分も成長しているのだ。同い年とケンカしたままの沈んだ気分でいただけに、これで少しテンションが上がった。改めて、後輩に言う。
「いつもと違う場所だから自分や周りの音がいつもと違って聞こえるかもしれないけど、練習通り落ち着いてやれば大丈夫だよ。ドラムをよく聞いて。指揮をよく見て。隣の高久先輩の音についてって」
「はい!」
「おいっす、任されたよ。ちゃんと言えたねー。いい子いい子」
「ちょ……なにすんですか」
頭を撫でてくる広美に抗議する。せっかく先輩らしくいったというのに、これでは台無しである。
いつまで経っても先輩は先輩ということなのか。後輩の行動をニヤニヤ見守っていた広美は、鍵太郎の視線を軽く受け流す。
「ごめんねー、春日先輩じゃなくて。でも今のはグッジョブだよ。思わずナデナデしちゃいたくなるくらいに」
「恥ずかしいからやめてくれませんか……!」
「え!? ということは、湊先輩の好きな人って、その春日先輩っていう人なんですか!? わたし、気になります!」
「ええい、先輩後輩そろって、俺の恥ずかしいところをくすぐってくるのはやめんか!?」
心身ともに責められている気分であった。今までは単体だったのに、二人で連携を取られると太刀打ちできない。
まあこれなら本番も大丈夫だろう。朝実の緊張も少しは取れたようだ。この調子で……というのもいささか抵抗があるが、二人には一緒にがんばってほしい。
「さて、そろそろ移動かね」
時間が来て、部員たちが移動を始めた。会場の奥の配置になる楽器から順番に出ていく。
鍵太郎たち低音楽器は列の最後だ。ガラス窓越しに、既に会場に集まっているお客さんが見える。黒髪ならぬ白髪の人だかりだ。
その中に車椅子のおばあさんの姿を探して、鍵太郎はつぶやいた。
「キクさんはいるかなあ」
「キクさん?」
「ああ、うん、キクさんていうのはね――」
鍵太郎は朝実に説明した。キクさんというのは、ここの入居者の女性のことだ。
足が悪いようで車椅子に座り、演奏に合わせて指揮を振る人。
卒業した先輩からの伝聞だが、昔音楽の先生をやっていたらしい。つまり先輩も先輩、大先輩だ。だから自分たちのことを本番中ずっとニコニコして見ている。
「ふーん」と言う朝実を見て、鍵太郎は苦笑した。成長したつもりでも、キクさんからしてみれば自分も彼女と大して変わらないのだろう。
「その他にも、手拍子をしたり歌ったりしてくれる人もいるよ。そんな風に楽しんでもらえるようにがんばろうね」
「はーい!」
朝実が元気よく返事をした。当然だ。この子は自分たちの演奏を聞いて楽しそうだと思って、ここに来たのだから。
今度は演奏する側に回って、お客さんから反応をもらう嬉しさを知ってもらおう。去年の自分を思い出し、鍵太郎はよし、と気合を入れた。
二回目の、原点だ。
あのときの気持ちを思い出して。今年もまた、あの人に「また来てね」と言ってもらおう。
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