第113話 示す方向

 後輩の両サイドの太い三つ編みが、うなだれている。


「あーもう、うまく吹けませんでしたー……」


 一年生の宮本朝実みやもとあさみが楽器から口を離してそう言うのを、湊鍵太郎みなとけんたろうは後ろで聞いていた。

 彼女の担当するバリトンサックスの合奏上の配置は、鍵太郎の担当するチューバの前。同じく低音楽器であるバスクラリネットの隣である。

 数週間後に鍵太郎たち吹奏楽部は、老人ホームへ慰問演奏に行く。

 今ほど、その本番に向けての初合奏を終えたばかりだ。初心者で入部してきた朝実にとっては、初めての合奏だった。

 朝実の音は後ろで聞いていたが、まあ初めてなんて、あんなものだろう。

 むしろ間違いを恐れず思い切り音を出しているだけ大したもんだと鍵太郎は思っていた。一年前、自分の初めての合奏のときも、音が出ないわ楽譜を見失うわ、散々なものだった。

 そんな風に当時の自分を思い出すと、こそばゆい気分にさせられる。なので朝実が去年の自分のように見えてしまって、鍵太郎はたまらず後輩に話しかけた。


「どこができなかった?」

「えーと。全部ですけど。特に、こことか」

「どれどれ」


 朝実が指差した部分を覗き込む。演歌メドレーの、テンポが速くて細かい動きのところだ。

 ああ、去年は俺も、ここにはついていけなかったんだよなあ――そう思いつつ、鍵太郎は自分の楽器で朝実の譜面の音を吹いた。

 それに後輩は、びっくりして目を丸くする。


「え……!? なんで違う楽器なのに、この楽譜見て吹けるんですか!? ひょっとして湊先輩って変態のふりして実はすごい人だったんですか!?」

「俺は変態じゃないしすごい人でもない。バリトンサックスの譜面は普通にチューバでも吹けるんだ」


 相変わらず歯に衣着せなさすぎる後輩に突っ込む。多少音域は高くなるが、バリトンサックスの譜面をチューバで吹けるというのは、実は本当なのである。


「バリトンサックスはト音記号、チューバはヘ音記号の記譜だけど、バリサクはE♭エス管、チューバはB♭ベー管だから実はそのまま――」

「???」

「……まあ、そのままできるってことがわかってもらえればいい」


 かっこつけて理屈まで話したのは全く理解してもらえなくて、ちょっと恥ずかしかった。まあ確かに、同じ説明を先輩からされたときには自分も全くわからなかったのだけど。

 朝実の前に彼女の持つ楽器を使っていた、卒業した先輩は冗談交じりに言っていたのだ。「あたしがこのソロを吹けなかったら、湊くんが吹いてね」と。そのときに、こうして吹けることを教えてもらった。

 結局あの先輩は自分でそのソロを吹いたので、鍵太郎の出る幕はなかったのだが。

 でも教えられたことは無駄ではなかった。こうして、後輩を教えるのに役に立っている。

 不思議なものだ。卒業した先輩に教えられた知識が、今度はその先輩の顔も知らない後輩へとつながっているのだから。


「じゃ、一緒に吹いてみようか」

「はい!」


 少しゆっくりめに、朝実と一緒に吹いてみる。とにかく今の彼女に必要なのは「慣れ」だ。雰囲気に呑まれて流れに翻弄されるだけにならないように、しっかり合図を出してやる。

 実力が発揮されるのはそれからだ。まずはこの後輩が、安心して吹ける環境を作ったほうがいい。

 後輩と一緒に同じフレーズを吹く。そのうち隣にいたバスクラリネットの先輩も加わってきて、いつの間にか低音楽器のパート練習みたいな形になっていた。


「あとはここです! この波みたいな形の音階! これ指回りません!」

「こ、これは正直チューバじゃ無理。こういうのはキーがたくさんついてる木管だからできるんだよ……」

「あたしらからしたら、キーが四つしかないのにドレミファソラシドができる金管のが信じられないけどね。じゃ、アサミン、あたしと一緒にやってみようか」

「はーい!」


 朝実が元気に返事をする。先ほどまでのできなくてしゅんとした様子はない。

 これなら、大丈夫かな。先輩と一緒に練習する後輩を見て、鍵太郎はそう思った。



###



 全く知らない世界を、どうやって歩いていくのか。

 後輩にはまず道を示したものの、鍵太郎の前にはまだ、確固たる道は見えていなかった。


「今度のコンクールでやる曲、ですか」

「ええ。まだ正式には決まってませんが」


 部長の貝島優かいじまゆうはそう言って、腰に手を当てちびっちゃい身体を反らした。なんだか精一杯自分を大きく見せているようで、逆にほほえましい。

 吹奏楽コンクール。それは吹奏楽部の甲子園とも言うべき、夏の大会のことである。

 金銀銅と得点別に賞が分けられ、去年の川連第二高校は県大会本選で銀賞に終わっていた。

 今年こそは、先輩たちの思いを引き継いで金賞を取る。鍵太郎はそう思っていた。部長である優は言うまでもない。

 優は携帯音楽プレイヤーを差し出してきた。その候補曲を聞けということらしい。


「私としてはこの曲をやりたいんです。せっかくチャイムあるので使いたいし」

「なんか本音が出てるんですが」


 公私混同であった。打楽器に並々ならぬ愛着を持つ優としては、やはりそういう曲をやりたいのか。

 しかし鍵太郎の突っ込みに、優は「いや、さすがにそれだけで決めたりはしないですよ」と言った。


「もちろん、金賞を取れそうな曲を選んだつもりです。チャイムを使いたかったのは本当ですが……コンクールはまず、選曲からして重要ですから」

「そういうもんですか」


 鍵太郎は首をかしげた。去年は先輩たちが決めた曲をやったのだ。選択の余地はなく、また、初心者だった自分は他の曲も知らなかった。

 中学からの経験者である優からすれば当たり前のことなのかもしれないが、そういった『吹奏楽部の常識』というものに、まだまだ自分は疎い。

 去年のコンクールを思うと、あまり過信していいものではないのかもしれないが。それでも、先輩となった以上はこの辺も勉強しておいた方がいいのかもしれない。選抜バンドといい、やることがいっぱいだ。


「ノビリッシマみたいな五十年も前の外国の作曲者の曲は確かに吹奏楽の王道ですが、今はそういう時代ではありません。昨今のコンクールの主流は、現代の日本人作曲家の曲です」

「……はあ」


 なんだか去年の選曲が間違っていた、という風にも取れて、卒業した先輩たちが大好きな鍵太郎としては少しだけイラっとしたのだが。

 再生したコンクール候補曲を聞いて、その思いは吹き飛んだ。


「すっげえ。かっこいい……!」


 冒頭の静かな暗闇から、炎が噴き上げるように一気に壮大な曲に変わる。

 金管が重厚で、木管がきらめいて、溜めたところで一気に持っていくシンバルが弾ける火の粉のようだった。


「いい曲でしょう。『民衆を導く自由の女神』という曲です」


 優が自分もそれを聞いているかのように、誇らしげに胸を張った。いや、実際彼女にも聞こえているのだろう。それほど優も好きな曲なのだ。

 しばらく聞き進めていく。すると、静かになったところで低音楽器だけが動くところがあった。


「え……?」


 ゆっくりで単純な動きではあるが、それゆえに誤魔化しが利かない。

 そして、完全に低音でしか吹いていない。やるとしたら先ほどパート練習をしたあの三人でがんばるしかないわけで。

 ちょ、ちょっと待て。これは去年の大会の曲の低音のメロディーとはまた違った意味で、いやそれ以上の責任重大な――


「期待していますよ」


 鍵太郎の動揺を切り伏せるように、優は言った。


「クリスマスのあたりでも言いましたが、やる気のある子は私は大好きです。広美はいまいちなにを考えてるのかわかりませんが腕は確かですし、初心者のあの子もやる気があるようですから、湊くんがうまくまとめてくれれば御の字です。そう思って低音楽器が重要なこの曲を候補としてあげることにしました」

「だ、大丈夫かなあ……」

「なに言ってるんですか。金賞取るんでしょう」


 ギヌロ、とちびっこににらまれた。身体は小さいが迫力だけはとんでもないこの先輩は、鬼軍曹とあだ名をつけられるくらいの厳しい人なのだ。


「戦う前から弱音を吐いてどうするのですか。その程度で金賞を取れると思っているのですか!」

「う、うう、がんばります……」


 迫力に押されて弱々しくうなずく。我ながら情けないと思うが、それだけこの先輩は強烈に意思を持っているのはわかった。

 聞いている音源は激しく、テンポの速い場面に移り変わっていく。鮮やかに主旋律が場面を描き出していき、こちらもかなりかっこいい。刻んでいる打楽器はなんだろう。

 トライアングルほどキラキラした音ではなく、それゆえに緊張感のある硬いビート。

 まさに優がそんな感じだった。小さな部長は確固たる意志を持って、鍵太郎に進む道を示す。


「今年は厳しくいきますよ。絶対に金賞を取るんです。私は春日先輩ほど甘くはありませんのでビシビシいきますよ、そのつもりで!」



###



「厳しく、か」


 優と別れて、練習も終わり鍵太郎は音楽室を出た。

 部長に言われたことが頭の中を巡っている。

 彼女が部長に選ばれたときも思ったのだが、優は厳しい。時にそれは苛烈すぎるほどだと鍵太郎は思っていた。

 今までは打楽器の男の先輩がいたので、なんとなくそれは和らいでいたのだが。ただその先輩がいなくなってから、彼女を抑えてくれる人間がいなくなったように思う。

 少し、優の示す方向には疑問を感じる。それは自分が前部長である、あの同じ楽器の優しい先輩の元で成長し、そして救われてきたからだろうか。

 厳しくすればいいのか。

 優しくすればいいのか。

 どうすればいいのか、よくわからない。

 滝田先輩に訊いてみようか。卒業した打楽器の先輩に電話してみるが、出なかった。というか「おかけになった電話は、お客様の都合により通話ができなくなっております」などと言われた。

 なんだあの変態紳士、通話料金を払い忘れているのだろうか? ため息をついて電話を切る。もう少ししたら、またかけてみよう。

 携帯をしまうと同時に、今度は後ろから声をかけられた。


「なーに、ため息ついてんのよ」


 同じく音楽室から出てきた千渡光莉せんどひかりだ。ああ、と思う。吹奏楽の強豪中学出身である彼女は、どちらかといえば優寄りの視点を持っている。

 普通とはちょっと違う『吹奏楽部の常識』なるものにも詳しいだろう。そう思って鍵太郎は、先ほどの優とのやり取りであったことを話してみることにした。

 するとやはり彼女は、「そりゃ、貝島先輩の言うことが正しいわよ」と言ってくる。


「正直、今までは優しいというより、甘かったとすら言えるわね。なんか緊張感に欠けてたというか」

「そう、なのか」


 自分は去年の前部長の雰囲気しか知らない。だからあれが普通だと思っていたのだが。

 優や光莉からしてみれば、あれはおかしなものだったのだろうか。

 常識から外れているのだろうか。


「というか前にも私、言ったわよね。楽しいだけでやってても、よかったねーだけで終わってレベルが上がらないって。やっぱりある程度厳しくいかないと、自己満足で終わるわよ」

「……そのときも言ったけど、俺はうまくなりたいとは思ってる」

「なら、いいんじゃないの」

「うん……」


 以前彼女とこの話をしたときも、これが結論だったのだ。

 知らないうちに自己満足に浸っていた自分に気づいて、もう二度とあんな思いはしたくないと思ったからがんばったのだ。それで光莉には上手くなったと言われ、優にはやる気が出てきたと褒められた。

 それは純粋に嬉しかった。

 ただ、思うのは後輩の、朝実のことだ。

 彼女は初心者だ。まだまだなにも知らず、先輩の言うことを素直に聞いてしまう、ここに来たばかりの子だ。

 そんな子に厳しく当たっていいものだろうか。自分はともかく、鍵太郎はそれが心配だった。

 そう言うと、光莉は呆れた顔をした。


「あのねえ。それは過保護よ過保護。なんにも知らずに無菌状態で育てるのは、あの子のためにならないわよ?」

「うん、まあ、そうなんだが」


 去年の自分を思い返す。確かに自分は、迷ったり転んだりしながら上達してきた。

 ただしそれは、楽器を吹くのを辞めようかと思ったくらい深い傷を負ったからだった。

 朝実にはそんな思いをしてほしくない。そんなことを知らなくたって、上手くなることはできるはずだ。

 自分が指導していけば。今日、三人で練習したときのことを思い出して、鍵太郎は言った。

 光莉は少し考えて、「……まあ、今はそれでいいんじゃない」と言った。


「ただ、自転車の補助輪を外すのと一緒で、いずれは手を放した方がいいわよ」

「そうする」


 鍵太郎はうなずいた。それで転ぶときもあるだろうが。それは朝実自身が乗り越えていくしかない。

 優の方針に、全面的には賛成できない。ただ、こちらはこちらなりのやり方で、それに対応していくしかない。

 彼女は、部長なのだから。

 うん。そうしよう。当面の方向が決まったところで、光莉が言ってきた。


「……というか本当、あんたは過保護なのよ。なんなのよ。同じ楽譜一緒に吹くとか」

「さすがに、トランペットの譜面をチューバで吹くことはできないんだが……」

「そうじゃなくて……あーもう!」


 なぜか光莉はぐしゃぐしゃと頭をかいた。そして「や、やっぱり過保護なのはダメよ、いい!?」と言ってくる。


「な、仲がいいのは結構だけど、自分の練習も忘れちゃだめよ! 低音楽器には、高音の私たちを支えるという使命があるんだから!」

「うんまあ、それは言われなくてもわかってるから。千渡もがんばれよ。今度またソロあるんだろ」

「キーッ!? こないだの新入生歓迎演奏で外したリベンジよ! 今度こそやってやるわよ!?」

「がんばれー」


 激昂する光莉に、のんびりと返す。老人ホームでの演奏では、また彼女も少しソロがあったはずだ。

 あれは自分の原点でもあり、光莉の再生へのきっかけになったところだ。また行くとあのおばあさんに約束した以上、彼女にはがんばってもらいたい。

 誰だって、いい演奏をしたいという思いは一緒なのだから。息まく光莉の隣を歩きながら、鍵太郎はそう思った。

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