第112話 後輩の音、自分の音

 川連第二高校の近くに、『福寿荘』という老人ホームがある。

 そこでは同校の吹奏楽部が、毎年四月末に慰問演奏を行っているのだ。


「へー。吹奏楽部ってそういうこともやるんですねー」


 湊鍵太郎みなとけんたろうの説明に、一年生の宮本朝実みやもとあさみは感心したようにそう言った。

 朝実が配られた楽譜を眺めているのを、鍵太郎は横から覗き込んだ。演歌メドレーは去年と同じ譜面だ。またやってくれと言われたのかもしれない。

 あとは初めて見る楽譜になる。水戸黄門に、唱歌。春のうららの隅田川、である。

 唱歌の方は季節感もあるし、時代劇などいわずもがなだ。完全におじいちゃんおばあちゃん向けのラインナップである。

 新入生歓迎の曲はディズニーだっただけに、それを聞いて入部した新入生は、最初にやる曲がこれでがっかりしていないだろうか。心配だったが、少なくとも朝実はそう考えてはいないらしい。

 彼女はこのあいだ初めて音が出るようになった楽器で、配られた楽譜の音を楽しそうに出している。考えていることがすぐ口に出る後輩だ、その辺は信頼していいだろう。

 それを確認して、鍵太郎は朝実に言った。


「お客さんが聞いて喜んでくれるような演奏にしようね、宮本さん」

「はーい!」


 相変わらず元気のいい返事に、思わず頬が緩む。本来の素直さもあるのだろうが、初心者で入部してきた朝実にとっては、ここで見聞きするものひとつひとつが新鮮なのだろう。

 どんな曲だろうが関係なく、ただ自分がどんどんできるようになっていくのが楽しいのだ。

 そんな後輩の様子に、鍵太郎は去年の自分を思い出していた。先輩からしたら、自分もこんな感じに見えていたのかもしれない。

 ただ去年の自分と比べると、彼女はまるでためらうことなく音を出している。度胸がいいのか、それともなにも知らないが故なのか――とにかく、エッジの効いた思い切りのいい音を出していた。

 初合奏のときにあんなに緊張していた自分とはえらい違いだ。なんというか、とても「らしい」。朝実らしくて笑ってしまいそうになる。

 それを大切にしてほしいなあと思った。これは彼女にしか出せない音で、これが彼女の『たからもの』なのだ。

 音にはその人そのものが出る。そう鍵太郎は先輩から教わった。

 思い返せば去年の自分は、中学のときの怪我の件で軽い人間不信に陥っていたのだろう。

 それが素直に音を出すのを阻害していたのだ。それから立ち直った今なら、自分も――


「……あれ?」


 と、そこまで考えたところで鍵太郎は首をかしげた。

 確かに、今なら去年よりためらいなく音が出せる。だから今の自分の音は、去年よりも明確に自分を表しているはずだった。

 しかし改めてそれがどんなものかと言われたら、あなたはどんな人ですかと訊かれても、とっさに答えられないのと同じで――よく、わからなかった。



###



 顧問の先生から呼び出されて、鍵太郎は音楽室の隣の音楽準備室に向かっていた。

 途中で同い年でクラリネットの宝木咲耶たからぎさくやに会う。どうやら彼女も同じく呼び出されたらしい。


「先生、なんの用だろうね?」

「俺たちに用って……なんだろうな」


 見当もつかない。少々不安を感じつつ、音楽準備室の扉を開ける。

 するとそこでは、顧問の本町瑞枝ほんまちみずえが久しぶりの悪い笑いを浮かべていた。


「な……なんですか、先生」

「おうおう、来たか二人とも」


 いきなりの先生の悪の総統スマイルに、鍵太郎はドン引きしたのだが、当の本町はまったく気にしていないようだ。

 むしろ心の底から楽しそうに笑って、二人を手招きしてくる。警戒しながら近づいていくと、先生は鍵太郎と咲耶に、それぞれ書類を差し出してきた。


「喜べ二人とも。おまえら、県の選抜バンドのメンバーに選ばれたぞ」

「マジですか!?」


 書類を受け取り、内容を見る。確かにそこには『県吹奏楽連盟、選抜バンドについて』という文字があった。

 書類選考での選抜ということだったが、通ったのか。

 しかも自分と咲耶の二人が。目を輝かせる鍵太郎に、先生は今度は楽譜を渡してくる。


「これ、選抜でやる曲だ。練習しとけ」

「わー……」


 楽譜を見た。二曲ある。『海の男たちの歌』と、今年のコンクールの課題曲とある。いずれも知らない曲だ。どんな曲なのだろうか。


「その二曲を選抜メンバーで、一泊二日の合宿をして仕上げるんだそうだ。もちろん最後の日には発表会があって、客を入れて本番をやる。それまで顔も知らなかったメンバーで、しかも八十人超えの大編成で演奏するんだ。うちにいるだけじゃ絶対見えてこないものがある。思いっきりやってこい」

「わかりました!」

「行ってきます」


 鍵太郎と咲耶、それぞれの返事を聞いて先生は満足そうにうなずいた。

 細かい日程や詳細が書かれた書類に目を通す。そして鍵太郎は、参加者の項目を見て眉をひそめた。

 八十人を超えるメンバーの名前と、その隣には所属の学校名が記されているのだが――出演者のほとんどが、聞いたことのある学校の生徒ばかりだったからだ。


「宮園高校、富士見ヶ丘高校、久下田高校……」

「A部門の強豪校ばっかりじゃねえか……」


 ずらりと並んだ県下トップレベルの学校名に、うんざりとした声がもれる。選抜は学校関係なしの書類選考ではなかったのか。

 結局は有名な学校が主役なのか。そういう思いが顔に出ていたのだろう。先生が「まあ、そうむくれるな」と言ってくる。


「『海の男たちの歌』は相当な大曲だからな。一泊二日っていう日程で仕上げるには、強豪校のメンバーを軸にやるしかないんだろ」

「まあ、そうなのかもしれませんが……」


 鍵太郎はチューバのメンバーに目を走らせた。五人もいる。今の環境では考えられないことだ。先ほどの三校に、自分のいる川連第二高校。

 そして、南高岡高校という名前もあった。ここは聞いたことがない。


「南高岡高校はうちと同じくらいの規模で、やっぱりB部門の学校だ。な? 別に強豪校だけひいきされてるってわけじゃねえんだよ」

「……ですね」


 一応、県内の学校の交流という目的には沿っているわけか。しかしそれにしては、もう一方の曲がコンクールの課題曲というのが解せないのだが。

 課題曲というのは吹奏楽の大会で、A部門の学校が演奏するものになる。B部門の鍵太郎たちには関係ない。

 やはりなんだか、強豪校の練習のためのダシに使われている気もする。


「ああもう、うっせえなあ。せっかく選ばれたんだから、文句言ってねえでとにかく行ってこいよ。チューバ五人だぜ? 五人。春日しかまともに同じ楽器の音聞いたことないおまえには、新しい発見だらけだろうよ」

「た、確かに五人で吹くとどんな感じなのかは、興味がありますが……」

「だろ? 部門とか関係なくよ、大人数で吹くのは楽しいぜ。あんまり構えないで行ってこい、その方が絶対いいから」

「はあ」


 本町の言葉に、鍵太郎は曖昧にうなずく。確かに大人数で吹くとどうなるのかは気になるが、強豪校、特に宮園高校に関してはいい思い出がまったくないのだ。

 そんな連中に囲まれて吹いたら、どうなるのか。楽しみでもあり、またそれ以上に怖くもあった。


「とりあえずそういうことは、あんまり考えないで行ってみようよ、湊くん」


 すると、同じく隣で書類を見ていた咲耶が言った。

 彼女は真剣な眼差しで、書類を見つめている。


「どうなるかはわからないけどさ。前も言ったけど、A部門の学校の人たちだって、一生懸命やってることには変わりないんだよ。だからそんなに頑なにならないで、やるだけやってみよ。ね?」

「宝木さん……」


 クラリネットはその楽器の特性上、チューバよりメンバーが多い。

 だからその分、多くの学校名が書類には記されている。未知のところに行く怖さがあるのは、彼女だって一緒だろう。

 しかしそれを感じながらも、咲耶はあえて踏み出したのだ。以前似たようなことで彼女にたしなめられたことを思い出し、鍵太郎は「ごめん」と咲耶に謝った。


「わかった。とりあえずなるべく先入観はナシで、やるだけやってみる」

「おし、その意気だ」


 二人の意思が固まったのを見て、先生が不敵に笑った。


「いろんな学校の、いろんな考えを持ったやつらと一緒に吹くんだ。自分の音を見つめ直す、いい機会になるだろうよ」

「自分の、音」


 偶然なのか、必然なのか。

 先ほど自分が考えていたのと同じ単語が出てきて、鍵太郎はそれを繰り返した。

 自分の音。

 それは先ほど考えて、答えが出てこなかったものだ。

 この選抜バンドに参加すれば、それがわかるのだろうか。

 だが少なくとも、なにかしらのヒントは得られるかもしれない。面子が面子だけにやはり不安は残るけれども――。

 そんなもやもやしたものを感じつつ音楽室に戻ると、やはり初めての本番に向けて練習する、後輩の思い切りのいい音が聞こえてきた。

 そのエッジの効いた音に、ああ、と不思議と鍵太郎は納得してしまう。そう、まずは音を出さないと始まらない。

 咲耶にも言われたが、まずは素直に自分のやれることからやってみよう。話はそれからだ。

 今までだって、そうしてきたのだから。

 意外とこの後輩には、気づかされることが多いな。そう思って苦笑すると、朝実は怪訝な顔をしてきた。


「おかえりなさい湊先輩。先生になんて言われたんですか? 変態な言動は慎めと怒られたんですか?」

「この失言大王っぷりは、見習いたくないな……」


 せっかくある意味尊敬できる後輩だと思ったのに、いろいろ台無しである。

 しかしまあ、決まった以上はやるしかない。

 自分の席に戻って、楽譜を広げる。選抜バンドでの演奏会は六月上旬だ。あと二か月弱の練習期間がある。

 それまでに、強豪校の連中と少しは渡り合えるだけの力をつけないといけない。

 なので鍵太郎は後輩と同じ曲と、そして選抜バンドでの曲を両方練習し始めた。後輩は後輩で、自分は自分で。

 今年はまた、去年とは違った一年になりそうだった。

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