第111話 腹式呼吸を教えてみましょう
「腹式呼吸ってどうやるんですか!?」
今日も元気な新入生にそう訊かれ、
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新入生歓迎演奏から数日。
見学に来る生徒も落ち着き、吹奏楽部は本格的に一年生を部員として扱い始めていた。
大量に入った新入生に楽器を割り振って、さっそくやってみようということになり――鍵太郎たち低音楽器の面子も、バリトンサックスを担当することになった一年生、
宮本朝実。
初心者で入部してきた、三つ編みメガネの元気のいい女の子だ。
たまに口を滑らせてとんでもないことを言うのが玉に傷ではあるが、基本的にはかわいい後輩である。鍵太郎はいつも自分がやっていることを、朝実に説明する。
「えーと、鼻から息を吸って」
「むい」
「脇腹が膨らむくらいに思いっきり……」
「???」
息を吸っているので言葉には出していないが、朝実の全身から「よくわからない」という意思は伝わってきた。
言葉で説明するのは、なかなか難しいか。
自分のときは、どうやってやったっけ――と記憶を探って、鍵太郎は渋い顔をした。そういえばちょっと刺激的な教え方をしてもらったんだった。
先輩元気かなあ、とこの春に大学生になった二つ上の先輩のことを思う。ついでに去年触ったその先輩の脇腹の感触と声がよみがえってきて、思わず緩みそうになる頬をどうにかして戻した。
結果として、なんだか笑ってるような引きつっているような、おかしな表情になる。
「なに変な顔してるんですか湊先輩? 相変わらず気持ち悪いですね!」
「ごめんね、この子はこういう残念な子なの」
相変わらず朗らかに罵倒してくる朝実に、バスクラリネットの三年生、高久広美がそう言った。
広美はもう朝実の言動に慣れてしまったようで、出会ったときのようにいちいち驚いたりはしない。というかもはや面白がってる節すらある。今もすごいニヤニヤしていた。
味方がいなかった。
入って数日の一年生にすら、なんだか下に見られている気がする。
泣きたい。立場的にも音域的にも相変わらずの最底辺だ。結局男子生徒は見学に来なかったので、鍵太郎は今年もひとりで、この吹奏楽部の超マイノリティとしてやっていくことが決定していた。
だからこそ、やることはちゃんとやらないと存在意義がないのだ。大いなる悲しみを乗り越えて、鍵太郎は朝実への指導を続ける。
「脇腹、というか背中のあたりが膨らむくらい、思いっきり息を吸うんだ」
「どのへんですか?」
「えーと」
ためらう。ここだと直接触ってあげられればいいのだが、さすがに後輩といえども女の子にそれをやるのは気が引けた。
下手をしたらセクハラである。先輩のときは本人の許可があったから、よかったけども。
なので鍵太郎は、相変わらずニヤニヤとこちらを見ている広美に、助け舟を求めた。
「えーと……先輩、触ってもらってもいいですか」
「あたしがやってもセクハラになるけど」
「どんな触り方するつもりなんだよこのおっさん女子高生」
ちょっと興味はあったりもするが。見せてもらおうか、女の子同士のいちゃいちゃというものを――いや、そういうことを考えてるから後輩から無邪気な言葉の暴力を受けるのである。
自分は先輩になったのだ。だったらもっと、きりっとかっこいい感じでいきたい。
ただ、やっぱり――教えるのって難しいなあと、鍵太郎は思うのである。
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他のパートでも、新入生への指導は始まっていた。
例えば浅沼涼子のいるトロンボーンパート。
「こんな感じで構えて、吹く!」
「はい!」
「すっげーアバウト……」
涼子が新入生に教えているのを見て、鍵太郎は半眼になった。
新入生は元気よく返事をしていたが、「こんな感じ」で本当にわかるのだろうか。見本を見せてやるのもいいが、もうちょっと言葉で補足してやれよとも思う。
トロンボーンの新入生は、涼子の真似をしてぎこちなく楽器を構え息を吹きこんだ。形にはならないが一応音は出ている。
あとはどんな風にやっていくかだが――次はどうやって教えていくんだと涼子をうろんな目で見ていたら、彼女はすっと楽器を構えて、そして思いっきり息を吸いこんだ。吹く。
すると涼子が出した音は、振動する空気柱になってビームのように音楽室の壁に飛んで行った。
「……っ!?」
それを見て、鍵太郎は唖然とした。指揮者の先生がプロのトロンボーン吹きなのもあって、涼子がめきめきと腕を上げているのは知っていたが。
それにしても、ここまで上達していたとは。まさになんとかと天才紙一重というやつだ。いったいどうやったらこんな音が出るのか。
そんな涼子は、楽器を下ろして言う。
「こんな感じ!」
「どんな感じ!?」
「はい!」
「え!? 今ので納得しちゃうの!?」
涼子と新入生に忙しく突っ込む。いくらなんでも素直すぎやしないか。
鍵太郎はそう思ったのだが、先輩の音を聞いた新入生は目をキラキラさせていて、完全に疑いもしない様子だった。
そしてさらに驚くべきことに――新入生が次に吹いたとき、その音は先ほどとは比べ物にならないほど形になっていたのである。
「うえええええ!?」
思わず声が出た。なんだこれ。聞いただけでこんなに変わるもんなのか。
確かに初心者で入った子の経験値はゼロで、なんにもないまっさらな状態だけど――その畑を耕して、種をまいた途端にこんなに。
いったん吸収してしまうと、こんなに早く上達するものなのか。呆然とする鍵太郎の脳裏に、去年先輩に言われた「素直な子は早く上達する」という言葉がよぎった。
これが、そういうことなのか。
当の本人たちは、「おお! すごーい! 天才!?」「いや、天才は先輩の方ですよー!」「セ、センパイだって! 聞いた、湊!? センパイだって!」と無邪気にはしゃいでいるけど。
涼子の目が新入生と同じくらい、キラキラ輝いているけれど。まあ人のことは言えない。
朝実に先輩と呼ばれて嬉しかったのは、自分も一緒だ。少し心配ではあったが、涼子は涼子でちゃんと「先輩」しているようだった。
そしてそれが、いい方に向かっている。
「相変わらずすごいなあ、浅沼先輩は……」
「やっほーう! ほめられたよ!」
「ああもう、なんにも考えないでここまでたどり着くこいつが、なんかちょっとだけムカつくなあ……」
「そんなことないよー」
頭を抱える鍵太郎に、涼子は言う。
「あたし、湊みたいに言葉で教えるとか無理だもん。だったらこうだよーってやってみせるしかないじゃん?」
「まあ、それがおまえのやり方なんだろうな」
彼女は彼女なりに、自分の一番できそうなことをやったまでだ。
それが結果的に新入生の持っているものを、大きく花開かせることになった。
しかし、見本を見せる、か。
それを自分もできないだろうかと鍵太郎は思う。涼子のようにはいかないだろうが――さて。
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「そんなわけで宮本さん。俺の脇腹を触るんだ」
「わー。湊先輩なんか変質者みたいですー」
なるべく堂々と言ったのが、逆に怪しくなってしまったようだ。雄々しく佇む鍵太郎に朝実は無邪気な一言を返してきた。
考えた末に至った結論が、これだ。「まずはできる人のを体感してもらう」。それだけである。
言葉で言ってもわからないなら、実際に触ってみればいい。
百聞は一見にしかず。考えるな感じるんだの世界である。去年は自分も、そうやって教えてもらったことだし――と再びニヤけそうになる顔は、今度は頬が一瞬引きつる程度で抑えることができた。
以前のような失敗はしない。鍵太郎はあらかじめ一番脇腹が膨らむ部分を確認し、そこを朝実に触らせた。彼女は去年の鍵太郎のように遠慮することはなく、ぺたし、と手を置く。
息を吸った。
すると彼女は予想外に触れた部分が動いたことに、とても驚いたようだ。「おおおっ!?」と声を上げる。
「なんかすごいです! ここ、こんなに膨らむんですね! びっくりしました!」
「わかってもらえたかな?」
「はい! えーと……」
朝実は今度は、自分の脇腹に手を触れて腹式呼吸を始めた。場所はわかったので、ちゃんとそこを押さえている。
何度かやるうちに、コツをつかんだようだ。「おおおっ!?」と再び、驚いて目を輝かせる。
「できました! すごいすごい! 湊先輩ありがとうございます!」
「うん。あとは慣れていって、楽器を吹くときは意識しなくてもできるようになればいいよ」
「はい!」
元気のいい返事に和む。ああ、教えてよかったなあと思った。
かわいい。やっぱりなんだかんだ言っても、素直でいい子なのだ。一生懸命慣れようとする朝実はやはり教え甲斐がある。
そんな後輩をを見ていると、広美が「そういや、いつまでも宮本さんじゃあれだから、なんかあだ名つけよっか」と言いだした。
なんだか、本格的に後輩という感じになってきた。慣れてきた印象があっていい。広美は首をひねりながら、ぶつぶつと候補を出している。
「宮本朝実……みやのん、だとあの人になっちゃうし……朝実。あさみ……アサミン」
「ピク○ンじゃないですか」
それだと引っこ抜かれて戦って食べられてしまうではないか。まあ、人の言うことを素直に信用してついてきてしまうところは、通じるものがあるかもしれないけれど。
だとしても、食べられてしまうのはナシだ。この子のことを大切にしようと思ったのだ。そんなことはさせない。
うん。なんか、先輩っぽい。そう思って反対しようとすると、さらにその上の先輩から鍵太郎の携帯にメールが来た。
「あ、春日先輩」
「またかよ。ほんと残念な子だね湊っちは」
「春日先輩、なんか免許取るために教習所通いだしたみたいですよ。大丈夫かなー」
広美の言葉を無視してメールを読み進める。あの人はなんにもないところで転ぶドジっ娘なのだ。運転とかには本当、気を付けてもらいたいと思う。
自動車教習か。どんなことをやるのだろう。文章に目を通していた鍵太郎は、その中に「応急救護の教習で人工呼吸の練習をしてきました!」というものがあったので噴き出した。慌てて続きを読む。
『使ったのは練習用の人形なのですが、なかなか人の肺って膨らまないそうですね。だから教官の方が「本気でやってください」って言ったんです。だからわたし本気でやったんですが、そうしたら逆に肺がパンクしそうになってしまったみたいで。教官の方に「あなたは本気でやらないでください!」と怒られてしまいました。えへへ』
なんで嬉しそうなんだよ。
反射的に突っ込む。いや気持ちはわかるが。吹奏楽部、しかも低音楽器は相当な肺活量を必要とするのだ。
中学からそんな楽器をやってきたあの先輩は、人並み外れた肺活量を知らず知らず身に着けていたのだろう。それが証明されたのだ、嬉しいに決まってる。もしそんなことを言われたら、鍵太郎だって絶対ドヤ顔をする自信がある。
近くで腹式呼吸の練習をする朝実にも、ぜひこのくらいになってもらいたい。大丈夫、自分は先輩だ。この無邪気についてきてしまう後輩を、ちゃんと導いていくつもりだ。
改めて、自分を教えてくれたこの先輩に感謝する。自分もこの人みたいに、すごい人になりたいと思った。
しかし――それにしても人工呼吸だ。
あれだ。肺がパンクしてもいいから、その人形と代わりたい。切にお願いしたい。マウストゥマウスだ。その人形、なんてうらやましいんだ……!
「高久先輩ー。やっぱり湊先輩って気持ち悪いですよね?」
「指さしちゃいけないよ、アサミン。あと、怪しい人にはついてっちゃいけないよ」
「はーい!」
街中の親子のような会話を経て、低音楽器パートの絆は深まっていく。
それは鍵太郎の考えているものとちょっと違ったのだが――まあおおむね、平和なことに違いなかった。
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