第108話 見せる仕事
「イルカ見たい」
浅沼涼子のその一言で、みなで水族館に行くことになった。
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春休みに入り、冬の乾燥した空気が一日ごとに湿っていくのを感じられるようになってきたその日。
「意外と暑いねー」
先頭を歩く涼子が言う。確かに今日は三月としては驚くほど暖かい。会ったときはデニム地のジャケットを羽織っていた涼子も、今はそのジャケットを脱ぎ腰に巻きつけている。
タイツの上にショートパンツを履いているので、下は暑くはないのだろうが。
桜が咲くのももうすぐだろう。そんなことを思わせる陽気だった。
「アイス食べたい」
「……まだ水族館に行ってもいないんだが」
相変わらず自由なことを言う涼子に、鍵太郎は額を押さえて突っ込んだ。
着く前からこれでは、今日一日どうなることやら。ただでさえ私服の女の子に囲まれて、周囲からは針のむしろだというのに。
おまえも来いと全員に言われたのでついてきてみが、やっぱりここでもいつもの役回りのようだった。
「ま、確かに暑いわよね。どこかにアイス売ってるとこ、あったかしら?」
涼子の意見に賛同したのは、同じ吹奏楽部の
鍵太郎たちが今いるのは大きなショッピングモールである。奥には水族館、映画館などがある大型複合施設だ。
ファッション雑貨などの店が軒を連ねており、もちろんその一角にはアイスなどを扱う店も存在する。
光莉は少し趣味が変わったのだろうか。以前のようなボーイッシュな服装ではなく、白いブラウスにチェック柄のスカートを履いている。珍しいなと思って見ていたら、「あ、あんまり見てんじゃないわよ!?」と殴られた。
その頬を冷やすためにも、アイスはいいのかもしれない。なにか釈然としないものを感じつつ鍵太郎がそう思っていると、涼子が「あ、あった!」と叫んだ。
彼女が指差した方向を見れば、そこにはおしゃれなアイスクリームの形をした看板があった。
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「というか、早いよね。もうすぐ私たち二年生になるんだね」
そのアイスクリーム屋の列に並んでいると、鍵太郎の隣で
こちらはふんわりとしたスカート姿だ。彼女は涼子ほど暑くはないのか、長袖の上着を羽織ったままでいる。
「湊くんと会って、もうすぐ一年かあ。変わったような、そうでないような」
「とりあえず、楽器を吹くようになってから色々考えるようになった気はする」
ガラスケースの中のアイスを眺めつつ、鍵太郎は咲耶に言った。
「野球も楽しかったけど、こっちにもまた違った楽しさがあるというか。やっぱり演奏して『よかったよ』って言ってもらえるのはすごく、嬉しいなと思うようになったな」
ひとり孤独で、周囲に噛みつくように戦っていた昔とはまるで違う感覚だった。
こちらもこちらで気に入らない人間はいたけれども、それ以上にいい人たちにも会えた。
そしてこれからは、後輩も入ってくる。そういえばあの老人ホームにはまた演奏に行くのだろうか。恒例行事と言っていた気がするので、もう一度あのおばあさんにも会えるのだろう。
あの人には「また来てね」と言われた。
この一年間で本当に色々あったけれど、なんとかまたあの人の前で演奏することができそうだった。
「元気かなあ、キクさん」
なにかをやって人に喜んでもらえることがこんなに嬉しいことなんだと、あのとき初めて知った。
あれは初舞台で、原点だ。一年経って、少しは成長した自分をあの人はどんな風に見てくれるだろうか。また「ありがとう」と言ってくれれば嬉しいのだが。
と――そこで、列の前方から歌が聞こえてくる。
驚いてそちらを見れば、なにやら店の人が手を動かしつつ、大きな声で歌っているのが目に入ってきた。
「あ、ここね。そういうお店なんだよ。アイスに果物とかクッキーとかを混ぜながら歌うんだって」
「へえ……」
咲耶の説明に、鍵太郎はもう一度店員の手元を見る。歌に合わせてアイスと果物が、リズミカルに混ぜられていた。
あれって結構練習するんだろうな、とその淀みない仕草を見て鍵太郎は思う。人に見せることをやっている人物を見ると、つい客ではなくそちらの立場で考えるようになってしまっていた。
これも吹奏楽部に入ったからかもしれない。観客ではなく、やる方の気持ちがよくわかるようになって――
「……ん?」
と、そこで改めて店員と客の間の空気を察して、鍵太郎は眉をひそめた。
店員は笑顔だ。しかしそれはほんわずかだが、辛そうなものに見える。
それはおそらく、そのアイスを注文した客の態度が原因だろう。「人前で歌うなんて恥ずかしい」「別に歌わなくてもいいのに」という考えが、言葉に出さなくても滲み出ているのだ。
両者の距離が、埋めようもないくらい大きく開いてしまっている。
それはこの一年で数回とはいえ本番を経験してきた鍵太郎にとって、いたたまれない光景だった。あの空気の中で歌い続けるのは、本当にきつい。
人を喜ばせるためにやっているはずなのに、それを受け入れてもらえないのが分かりきっているのだから。
それでも店員は歌う。
それは『仕事だから』だ。
商品を買ってもらっている以上、それは商売だ。受け入れてもらえなくても客に嫌な顔をされても、決まりごとである以上は歌い続けなければならない。
それは『一般常識』で『当たり前』のことだった。
けれども――義務感だけで歌い続けるその人は、鍵太郎にはとても哀れに思えた。
もし自分が演奏するときにあの雰囲気だったら、確実に心が折れるだろう。
それでもやり続けなければならないのは分かるが、それはあの人が辛いだけだろうに――
「……」
と、そこまで考えて鍵太郎は、ブルーベリーとイチゴの入ったアイスを注文した。
順番が来て店員の前に立つ。正面から見てみれば、帽子を被った店員は若い女の人だ。
「こんにちは! ようこそ!」
元気のいい挨拶をされる。遊園地で客に向かって呼びかけるような、明るくよく通る声。続いて、歌を歌うかどうか訊かれた。
さっきの客は、なんでここで歌わないことを選択しなかったのだろうと思う。断りづらかったのかもしれないが。もちろん鍵太郎は歌う方を選んだ。
陽気な返事があがる。アイスを混ぜるスコップを打ち付け、店員のお姉さんは大きな声で歌い始めた。
その声は、人に届けようとするものだ。クリスマスコンサートのときに自分もやった、『踏み込んだ』もの。
それに近いことを、この人もやっている気がした。やっぱり根本は同じなんだろうなあ――と思いつつ、鍵太郎はそれに同調した。
つまり、歌った。
小声ではあるが。歌詞を知らなかったので、メロディーだけを口ずさむ。
それにお姉さんは少しだけ驚いた様子を見せて、より大きな声を響かせ始める。声に心が乗った。それがわかった。
時間にすればわずか十数秒。
たったそれだけの時間だったが――鍵太郎にはこの人が、本当に心から楽しそうに歌っているように見えた。
「はぁい、ありがとうございまーす!」
そして歌が終わったとき、そこには果物ときれいに混ぜられたアイスが出来上がっていた。
その声も笑顔も、鍵太郎が最初に見たときと特に変わった様子はない。そんな彼女を見て、まあ、少しはストレスなく仕事できたのかなこの人も、と鍵太郎は思う。
そうしてそのアイスを器に盛った直後、お姉さんは囁いた。
「……ありがとう」
そして、カップの上に少しだけブルーベリーが乗せられる。
驚いて、差し出されるがままにアイスを受け取ってしまった。お姉さんはそんな鍵太郎に対し、笑顔で人差し指を唇の上に置いた。
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「……別に、そんなつもりでやったわけじゃなかったんだけどなあ」
「いいんじゃない。それだけ嬉しかったんだよあの人は」
鍵太郎がアイスを食べながらつぶやくと、先ほどのやり取りを見ていた咲耶がくすりと笑った。
同情からの行動でもあった。ひょっとしたら侮辱と取られる可能性も考えていた。
だが結果として、予想以上にあの人は喜んでくれたようだ。内緒で追加されたブルーベリーを口に入れつつ、鍵太郎は先ほどのシーンを振り返る。
ほんの少しの間だが、自分の歌を楽しげに歌っていた、店員のあの人。
そんな人には、歌うときはなにも苦しまずに声を出してほしかった。次元が違うかもしれないが、同じ人を喜ばせる立場の者としては、彼女の置かれている状況に我慢ができなかったのだ。
嫌だったのだ。そんな人が辛そうに歌うのを見るのが。
だから一緒に歌った。それだけだ。
「……日本人てシャイだよな」
人前で歌うのは恥ずかしい――そんな思いがあるのだろう。
かく言う鍵太郎も、さっき全く恥ずかしくなかったかと訊かれればそうでもない。やはり人からどう見られているかは気になるもので、前に並んでいた人のことを見なければ別に歌ってもいなかっただろう。
これでよかったのかはわからない。
他人からすればこれはあの店員の彼女の力不足、人を引き込む力がまだまだ足りないということなのかもしれなかった。
自分たちのような部活とは違って、あの人のそれは仕事だ。単なるおせっかいと言われればそうだろう。
ただ、それでも――周囲の受け入れ方で歌が変わるときだってあるんじゃないかと、鍵太郎は思ったのだ。
「やっぱりああういところって、素直に乗ったほうが楽しいんだろうな」
「だね」
楽器を吹くようになって考えるようになったのは、きっとこういうことなんだろうね、と咲耶は言った。
「なにか、してあげたくなったよね。見ているだけじゃなくてさ。それはこういうことなのかもしれないね」
「……宝木さんも、変わったよね」
いつもどことなく遠くで眺めているだけだった彼女も、こう思うようになったのだ。
先ほどは自分が変わったのか変わってないのか、よくわからないみたいなことを言っていたけれども。彼女だって確実に、なにかが変わっている。
そう言うと咲耶は「そ、そうかな?」と戸惑ったように笑って、アイスを一口食べた。
「これなら今度から、先輩って呼ばれても大丈夫かな?」
「大丈夫だよ。……少なくとも宝木さんは、今日の面子の中では一番しっかりしてると思うし……」
「なんか、その言い方はちょっと……」
「みーなとー! 早く早くー!」
そんなやり取りを遮って、いち早くアイスを食べ終えた涼子が呼びかけてきた。
その笑顔は、初めて会ったときとほとんど変わっていないように見える。
「……ほら。俺はあれがちゃんと先輩と呼ばれるかどうか、それが心配なんだ」
「ま、まあ、うん……」
店外でぶんぶんと手を振っている涼子は、やっぱりなんだか恥ずかしい。これは吹奏楽部だろうがなんだろうが変わらないぞと思ったりもする。
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「イルカー!」
そして目的のイルカが泳ぐプールに突撃していく涼子を、鍵太郎は後ろから見守った。
ショーを行う広場には、水槽を囲むように半円状に座席が設置されている。涼子はためらわず、その最前列に腰を下ろした。
高校二年生になる身で水槽目の前ど真ん中はどうかと思うが、見たところ子どもはいないようなので、まあいいだろう。みなで同じ長椅子に座る。
「見て見てすごいすごい!」
間近にある水槽の中では、イルカたちがスイスイと泳いでいる。準備運動だろうか。身体は大きいのに思ったより早くて、鍵太郎も思わず「おー」と声が出た。
「へー。すごいわね。イルカショーなんて小っちゃいとき以来だけど、今でも案外楽しそう」
「だな」
光莉が隣でつぶやき、鍵太郎もうなずく。正直涼子がイルカショーと言いだしたときは「高校生にもなって……」と思ったものだったが、こうして見ると意外に楽しめそうだ。
こいつの場合は、変わらないことがいいんだよなあと涼子を見て思う。あの明るさは彼女だけのもので、他の誰にも真似できないものだ。
それで先輩扱いしてもらえるかどうかは別として、個人的にはとてもいいものだと思っている。
いい後輩が入ってくるといいなあ。そう思っていると、もうイルカショーが始まるようだった。
スピーカーからアップテンポの曲が流れ始め、三匹のイルカが揃ってジャンプする。
そこからも水面から顔だけ出して泳ぎ続けたり、吊り下げられたビニールボールをジャンプでつついたりと、様々なパフォーマンスを見せていた。
ざぶん、とイルカが潜っていくと、その飛沫が少しだけかかる。一番前の席なので少し濡れるのは覚悟はしていたものの、さすがにびしょ濡れにはならなそうで安心した。
となると、久しぶりに間近で見るイルカの方が断然気になってくる。ショーを仕切っている調教師の何人かがイルカに餌をやり、頭をなでた。それにキュウと鳴いたイルカが、再び海に潜っていく。
音楽が切り替わり、調教師たちが頭の上で手を叩き始めた。
これは観客も手拍子で参加するパターンだ。イベントに慣れきっている吹奏楽部の面々は、躊躇なくそれに乗って手拍子を始めた。今まで何回もやっているのだ。大きな音が出るコツは心得ている。
ノリのいい観客がいるのがわかったのか、調教師たちの動きも大きくなったようだった。それに合わせて音楽も盛り上がり、会場のテンションを上げていく。
そのとき、突然イルカが水面から飛び出した。
前に回転しながらプールの端から端まで大ジャンプしていき、派手に飛沫をまき散らす。
その様子に、うおぉぉぉ、と観客席から驚きの声があがった。その後も乗りに乗って、イルカたちは交差してジャンプしたり、ひねりながら着水したりして踊っていく。
「すごいすごーい!」
それに、涼子だけでなく光莉まで目を輝かせて拍手をしていた。
ひとつのパフォーマンスが終わるたび、彼女は楽しそうにはしゃいでいる。普段はツンツンしている光莉も、なんだかんだ言ってやっぱりこういう感じが好きなのだ。
やる方も見る方も一緒になって盛り上がれば、普通にやる以上の力が出ることを自分たちは知っている。
やっぱりこういう方がいいよなあ、と先ほどのアイスクリーム屋の店員のことを思い出して鍵太郎は笑った。
あの人は仕事だから歌っていたのかもしれないけれど、それでもやはり好きで歌っていた方が絶対いい。
二年生になったら、こういうのやりたいな。飛び跳ねるイルカと盛り上がる会場の雰囲気に、鍵太郎はそんなことを思った。
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「すごかったねー!」
ショーが終わって、涼子が全員の意見を代表してそう言った。
イルカが見たいと言い出したのは彼女だ。なんにも考えていないように見える涼子ではあるが、それでもやはり彼女についていくと、自分だけでは見えなかった景色を見られる。
「楽しかったなあ」
まだまだ水槽の中を泳ぎまわるイルカを見て、鍵太郎もうなずいた。会場の盛り上がりがイルカにも伝わったのか、ショーが終わっても元気な様子だ。
「面白かった。やっぱりみんな、こういうの好きなんだな」
「当たり前でしょ」
光莉はショーが終わった途端にいつもの調子に戻っていた。なんで続かないんだろうなあ、と鍵太郎はそれを見てもったいなく思う。さっきみたいに素直にはしゃいでいた方が、絶対いいのに。
「演奏会でもこういうショーでも、がんばって練習してきた人に対して拍手を送るのは当然よ。それは恥ずかしいことなんかじゃないわ」
「……ま、おまえもおまえで、いい先輩になりそうだな」
「ちょっとそれどういう意味……?」
「そのまんまの意味だよ」
態度はいつものツンケンしたものだが、これはこれで厳しくていい先輩になりそうだった。
今年は先輩たちに頼りきりでやってきたような一年だと思っていたが、それだけではなかったのだ。
変わったものと変わらないものがある。
まだまだ発展途上ではあるが――それでも今ならなんとか、自分たちも先輩と呼ばれて大丈夫そうだった。
それじゃああとは、イルカのクッキーでも買って帰ろうか。鍵太郎がそう言おうとしたとき、事件は起こった。
イルカがショーの興奮そのままに、水槽からジャンプしたのだ。
それは予想外の出来事であり、そしてその場所も予想外で――
最前列にいた鍵太郎たちは、間近で着水したそのイルカの水しぶきを思い切り被ることになった。
「ぎゃー!?」
「つめたーい!?」
しまった、盛り上げすぎた。
悲鳴を上げつつ思わず閉じた目を開けると、鍵太郎の視界にあるものが入ってくる。
「うわっ!?」
慌てて再び目を閉じる。すると、外れてほしかった予想通り、光莉の呪詛のような声が聞こえてきた。
「……見た?」
「見てない!? 見てないぞ!?」
はっきりとは。事実を言ったら抹殺されるのがわかりきっていたので、鍵太郎は目をつぶったまま首を必死で横に振った。
あんにゃろ、なんで今日に限って
濡れて肌に張り付いていたブラウスが、閉じた視界に今でも焼きついている。うわあ、と鍵太郎はさらに首をぶんぶんと振った。はっきり見えていなかっただけに、余計に目の毒だった。
「そう……見てないのね」
「見てません見てません! だから殴らないで光莉さん!? お願いします!」
もう既に今朝一発殴られているのだ。変わったものと変わらないものがあるなら、ここはぜひとも変えてほしいところだった。
目を閉じているので、光莉がどんな表情をしているかわからない。それがさらに恐怖をあおる。
すると彼女は、意外にも神妙な調子で言ってきた。
「……見てないならいいわ。まあ、事故だもんね。あんたに罪は……」
「だよな!? 事故だもんな!? 下に肌着着てるから、下着までははっきり見えてないもんな!?」
「しっかり見てんじゃないのよあんたはあああああっ!?」
「しまった油断したああぁっ!?」
許してもらえそうになったので、うっかりと口を滑らせてしまった。目を閉じたまま命乞いをする。
「ぼ、暴力反対! おま、おまえ後輩にも暴力振るうつもりか!?」
「こんなことやるのあんただけに決まってんでしょうがっ!?」
「ちょ、それどういう意味……ぎゃああああッ!?」
イルカプールの前で、鍵太郎の悲鳴がこだました。
それにまだショーが続いていると思ったのか、またイルカが楽しそうに、ざぶんと跳ねた。
第8幕 あなたの背中を追いかける〜了
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