第106話 吹奏楽部は個性の巣窟
「……で、結局、告らないまま別れたってか」
川連第二高校では先日、卒業式が行われた。
そこで鍵太郎は寸前まで、先輩に告白するかどうか迷っていたのだが――結局、しないまま先輩を見送ったのである。
ただひとつの約束を胸に。
「いや、そこは言えばいいのに。当たって砕ければいいのに」
「砕けたくないから言わなかったんですよ!」
せっかく収まりかけていたところを蒸し返されて、鍵太郎は広美に突っ込んだ。
なぜ言わなかったのかといえば、これは今告白してもうまくいかないだろうと、なんとなく直感でわかってしまったからだ。
そして再会できることはわかっていた。だから少しでもうまくいく可能性に賭けたというのに。
広美は「って、言ってもねえ」と反論してくる。
「向こうは湊っちの気持ちを知らないんだから、なにがあっても保証はできないよ? なにしろ春日先輩はこれから大学生だ。キャッキャウフフのキャンパスライフが、これからあの人を待ってるんだよ?」
「う……」
先輩の言葉に鍵太郎はうめいた。
確かにあの人の行く手には、自分の知らない世界が広がっているのだ。まだ高校生である自分には想像もつかないが、大学生活とはどういうものなのだろうか。
そんな不安を煽るようにして、広美は続けてくる。
「先輩くらいの人だったら、言い寄ってくるチャラい男もいるんじゃない? まあ、あの人はそういうの苦手そうだけどさ。学生コンパ? 一人暮らし? アルバイト? まあ高校にいるときよりも、そういう危険な機会は増えそうだよねー」
「せ、先輩に限ってそんな……」
「なに言ってんのさ。虫がいいよねえ。いつまでも待っててくれるなんて、そんなの女々しい男の幻想だよ」
「うぐぐぐぐ……」
「あ、もしかして湊っち、逆にそっちの方が燃えたりする? NTあー……」
「俺の先輩にその属性を追加するんじゃないッ!!」
そこだけは断固反撃しておいた。高校一年生にその単語は早すぎる。大学生にだって早すぎる。
からかっていたのかどうなのか、逆セクハラ魔人こと広美は、その反応に満足したようだった。あっさりと話題を変えてくる。
「というかさ。高校一年はもうすぐ終わりだよ。これから湊っち、二年生になるじゃん。後輩できるじゃん」
「あー……。なんかそう考えると不思議ですねえ」
先輩になる、ということにはまだいまいち実感がわかなかった。ここ一年は下っ端生活しかしていないので、余計である。
自分が敬われる立場になるというのは何か、変な感じだ。
後輩かあ。どんな子が入ってくるのだろうか。そう考えると、鍵太郎の胸の内に少しの不安とワクワクが巻き起こった。
「まあ、あんまり変な子じゃなければいいです」
「最初はみんな素直な子だよ。この部に来るとみんなおかしくなってくけど」
「なんでそう言って、俺を見るんですか……?」
人のことを言えた義理ではないだろうに。というかこの先輩に言われるほど、自分は変な人ではないはずだ。まったく本当、一緒にしないでほしい。
「というかアレです。男子部員がほしいです」
後輩ということなら、ということで鍵太郎はここ最近、常々思っていたことを言った。三年生の先輩が引退してからというもの、男子部員は自分一人になってしまったのだ。それがとてもつらいのである。
女子の中に男ひとりというのは、周りから見ればうらやましいのかもしれないが、その実とても肩身が狭い。
卒業した打楽器の先輩の気持ちが、今ならとてもよくわかる。一人は儚い。二人はありがたい。三人だったら心強い。
この境遇を分かち合える仲間がほしい。吹奏楽部は男子部員を募集しています。もれなく下働きですが、俺がちゃんとサポートしますので……!
そんな風にまだ見ぬ後輩を思っていると、広美が生暖かい笑顔を浮かべて言ってくる。
「そっかあ。心の隙間を埋めてくれる、後輩の男の子がほしいのかあ。どっちがどっちかなあ。これはいろいろ妄想がはかどるわー」
「あんたたちがそんなんだから、今俺はこんなに惨めなんじゃないですか!」
というか、その言い方は卒業したあの人のものじゃないのか。そう言うと、「女子は多かれ少なかれ、みんなそういう要素を持っている」と言われた。なにこれ怖い。女子怖い。
「俺は男子部員がほしいだけなんです! 忌憚なくごくフツーに話せる、ただそれだけの存在がほしいだけなんです!」
「いろいろと誤解を招く発言だけど、心意気だけはわかったわー」
広美はそう言って立ち上がった。どこに行くんだろうと鍵太郎が見上げると、先輩は「新入生勧誘でなにを演奏するか、二年生たちで決めてくる」と言ってくる。
「そこでなにを演奏するかで、見学に来る新入生の数や層が変わるからね。選曲は大事よ」
「なるほど。確かにそれは大事ですね」
自分のときは確かに、男女ともに人気がありそうな曲をやっていた。
吹奏楽という未知のものを紹介するために、有名な曲をやることでハードルを下げていたのだろう。なら今回は、なにをやるのか。
たくさん部員は入ってほしいので、やはり有名どころを持ってくるはずだ。なるべく男女ともに受けそうな曲を選んでほしいと思う。
今のやり取りで広美もそれはわかったはずだ。先輩は「じゃ、行ってくるねー」とこちらに手を振って、会議へ向かっていった。
そしてしばらくして、戻ってくる。
「おつかれさまです。なにやることになりました?」
「いやー……」
鍵太郎が訊くと、広美は気まずそうに笑って頬をかいた。
それに一抹の不安を感じていると――広美はそのまま結論を告げてくる。
「ごめん湊っち。ディズニーになっちゃった」
###
エレクトリカルパレード。
言わずと知れたディズニーの名曲である。吹奏楽の譜面ももちろんある。
いや、そりゃ猛烈有名な曲だろうけどさ――と鍵太郎は盛り上がる女子部員たちの中で、ひっそりとそう思っていた。
しかし果たしてこれで男子部員が来るかというと、ちょっと望み薄なんじゃないかとも思ったりするのだ。
多数決は時に、マイノリティに対してひどく残酷である。
「ま、まあ……それでも誰かは来てくれるかもしれませんし。決まった以上は一生懸命やらないとな、うん」
「そうやって自分を納得させるのがどんどんうまくなっていくのは、きみも立派な吹奏楽部員になったという証拠だよ、うん」
立派になったものだねえ、と広美に妙な感心をされた。あまり深く考えてはいけない気がしたので、配られた楽譜に目を通すことにする。
この曲は最初にファンファーレがあり、あとはメドレー形式でどんどん曲が入れ替わっていくというもののようだ。
本物のパレードは見たことがないが、大丈夫だろうか。とりあえず合奏してみようということになり、部員たちは準備を進めていく。
「湊っち。この譜面、低音楽器にメロディーあるから。心の準備しといて」
「どれですか?」
「『お誕生日じゃない日のうた』」
「了解です」
鍵太郎は楽譜の前半にその曲名を見つけて、うなずいた。この主旋律のせいか、曲中の音の高低差がひどく激しくなっている。
他のところはベースラインなのでいつも通りはいえ、なめてかかると痛い目をみそうだ。準備が整って、顧問の先生が指揮棒を持ってやってきた。
構えて、振り下ろす。
そして普段通りに音を出したら、他の音が聞こえなくて鍵太郎はひどく驚いた。
低音の伸ばしだけがむき出しで、ものすごく貧弱に聞こえる。え、なんだこれ、と戸惑った瞬間、先生は指揮棒を下ろした。
「低音。ディズニーなめんな。もっとガツンと出せガツンと」
「せ、先生、結構この音低くてきついんですけど……!?」
「そういう曲なんだから仕方ねえだろ」
あっさりそう切って捨てられて、再び指揮棒が構えられた。さっそく痛い目をみてしまった。
どうやら想定していたより、この曲はよっぽど気合いを入れて吹かないといけないようだ。ならば、と鍵太郎は先ほどよりも、大幅に息の量を増やして音を出した。
おかげで初っ端から汗が噴き出してきたものの、先生は口の片端を小さく上げてうなずき、そのまま曲を進めてくれた。
トランペットとホルンが吠える。それに対比するようにトロンボーンが動いていく。
最初からガツンと金管勢の
新入生がびっくりするくらいの、すげえやつに仕上げてやろう。曲が切り替わって勢いよく進んでいくのを感じて、鍵太郎はそう思っていた。
###
部活が終わって携帯を見たら、このあいだ卒業した先輩からメールが入っていた。
「あ、先輩……」
「ん? 春日先輩から?」
鍵太郎がつぶやくと、広美がそれを耳ざとく聞きつけてきた。先ほどのやりとりでなんとなく不安になってしまったので、特に用もなかったが今どうしてますかとメールしてみたのだ。
それの返信だった。卒業して一足早く春休みに入った先輩は、今日はどこかに出かけたと書いている。
「受験勉強もきつかっただろうし、久しぶりに羽根を伸ばしてるんでしょうね」
「ていうか湊っち。きみはもはや、なかばナチュラルに病んできてないかい?」
「なんとでも言ってください。女々しかろうがなんだろうが、突き抜けたなら俺の勝ちなんです」
「この部に入るとみんなおかしくなるよね。やっぱり」
広美の世迷いごとを無視して、鍵太郎はどこに行ったんですかと先輩に訊いてみた。というか、こうなったのは誰のせいだと思っているのだ。
こういうなんでもないやり取りでも、続けていくことが大事なのだ。決してこれは、束縛とか監視だとか、そういうことではない。だ、だって相手に迷惑かけてないもんね。忘れてほしくないだけだもんね。
そんな感じで、まだまだ突き抜けきれない部分はあるのだが――ややあって、携帯に返信があった。
さて、先輩はどこに行ったのだろうか。先ほど演奏した曲が流れている遊園地とかだったら、そのまま話題を続ければいい。
演奏上のアドバイスとかも聞ければ、それもそれでありがたい。そう思って画面を見れば――そこには、よく聞く地名が表示されていた。
『い……池袋、です!』
「……」
「……」
隠せているようで隠しきれていないその文面に、鍵太郎と広美は揃って沈黙した。
これは、あれか。
俗に『乙女ロード』と呼ばれる、一部の婦女子たちを対象とした少々特殊な商品を置くお店に行った、ということか。
少なくとも鍵太郎は一生足を踏み入れることがないであろう、その界隈。女性なら多かれ少なかれ、みんなそういう要素を持っているというが――あの人はわりと、そういうのが好きな方で。
受験勉強が終わって。久しぶりに羽根を伸ばそうと――
「……先輩」
「……なに?」
「……あの隠れ腐女子が、先輩の言うようなキャッキャウフフの、リア充みたいなキャンパスライフを送ると思いますか?」
「うん……今回は珍しく、ちょっとあたしの読みは外れたかな」
「なぜだろう……喜ぶべきはずなのに、どうしてか俺はあの人が哀れに思えてくるんです」
後輩二人で、そんな微妙に失礼な会話をする。
この部に入るとおかしくなる。そんな生きた見本が実は一番身近にいたのだ。
新入生たちが入ってきたら、やっぱり自分も変な人に見られるんだろうか。個性の巣窟、吹奏楽部のただ中で立派な部員になったと褒められた鍵太郎は、今さらながらそんなことを思った。
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