第105話 途切れることなき約束
三年生の入場に合わせて、曲を吹く――
それが今日、鍵太郎たち吹奏楽部に与えられた役割だった。
楽器やら譜面やらをセッティングし、二階から一階を見下ろす。高い柵が壁のようになっていて、大きく乗り出さなければここから一階はほとんど見えない。
そして、一階から二階も見えない。
これなら先輩が言っていた通り、吹き終わったらしゃべらない限り、なにをしても大丈夫そうだった。上と下をつなぐのは、聞こえるその音だけなのだ。
それ以外に届けるものはなにもない。
今日演奏するのはたった一曲だけだが、逆に言えばそれしか届けられないということでもある。
先輩たちはそれを聞いて、なにを思うだろうか。意外とよくできてると思うのだろうか。それとも、まだまだ心配だと思うのだろうか。
しかし、泣いても笑っても今日は卒業式で、三年生の先輩たちとはこれでお別れだった。
俺は、泣くのだろうかと、鍵太郎は自分のことながら他人事のように思った。なんだかこれで終わりという感じがしなかったのだ。
それは現実を受け入れるのを拒否しているのか、それとも吹き続けることでお別れではないということを言いたいのか――
本当のところは、自分でもどちらかわからなかった。
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『卒業生、入場』
そのアナウンスとともに、顧問の先生は指揮棒を振った。
『主よ、人の望みの喜びよ』――卒業式で演奏されることの多い、讃美歌のひとつである。
鍵太郎は指揮棒に合わせてリズムを刻んでいった。先生は毎年毎年この曲を振っているので慣れているのだろう。暴走しがちな主旋律群に合図を送りつつ、曲を進めていく。
結局、言うほど考えを整理できたわけではなかった。
この曲を初めてやったときのことを思い出して、鍵太郎はそう思った。
だから先輩に贈る色紙を書くときも相当苦戦した。迷って迷って、せかされてようやく書いて、だけど今でもあれでよかったのかという思いが抜けない。
そんなものだ。あの人たちに対する思いなんて、整理しきれるわけがなかった。多少方向性が見えてきたくらいで、歩くように前に進んでも結論は見えてこない。
それは、三年生たちだって同じはずだ。あの人たちはあの人たちで、整理なんか関係なしにやりたいことをやって、矛盾だらけだった。
人間的にできているかといえば案外そうでもなく、しかしやたら印象に残る人たちばかりで、口にするのはまあ恥ずかしいのだが――それもひっくるめて、自分はあの人たちのことが大好きだった。
そんな先輩たちに対して色々言いたいことがあるのは当たり前で、できればまだ本当に、一緒に楽器を吹きたいくらいだ。
なにを言っても言い足りないし、話が尽きることもない。
言葉にならないそれを込めて、楽器を吹く。
静かなのに明るいこの不思議な曲は、ひとつの山を越えて吹っ切れた門出に相応しいものだ。三年生たちがどこまで入場を終えているのかは見えないが、自分たちはそれが終わるまで、エンドレスでこの曲を吹き続けることになっている。
終わることのないように。
途切れることのないように。
それは自分の望みであって、限定されたこの瞬間でだけ許されることだった。着地しないまま、曲が二周目に入る。
この曲は優しい。それになんとなく同じ楽器の引退した先輩の姿を思い浮かべてしまって、やばい、と反射的に鍵太郎は思った。やはり自分は無意識に考えるのを避けていた。あの人に関することが鍵になって、一気に感情の蓋が開く。
そうでもしなければまともに吹けなどしなかったのだ。突発的な感情の奔流をどうにかしようとしたら、泣くのをこらえるのと一緒で頬と顎のあたりがこわばるのがわかった。
金管楽器は吐く息で唇を震わせて音を出すものだ。こうなると、その振動が阻害されて思った通りの音が出なくなる。
なんとかこのこわばりを解いて、ちゃんとした音を出さなければ。顎の筋肉を引っ張ろうとする力と元に戻そうとする力が同時に働いて、もはや痛いくらいになっている。落ち着け。今はこんなことをしている場合じゃない。
泣いている暇があったら音を出せ。思いっきり息を吸って思いっきり息を吐け。本当にあの人が好きなんだったら――!
崩れないで吹き続けた。それはあの先輩がいなくなってからできるようになったことだった。
失ってから知ったものがあった。つらくてもやり続けるしかなかった。それが正しいことだと思っていた。
だがそれでも――報われないことがひどく悲しいのは、変わりがなかった。
これが、終わったら。
久しぶりに、あの人に会いに行ける。
そのとき、自分がなにを言うのかといえば――
二周目の途中。卒業生が全て入場を終え、そこで先生の指揮はふわりと着地した。
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卒業式が終わって行ってみれば、三年生の教室はがやがやと騒がしかった。
胸に花をつけた卒業生に、挨拶に来た在校生でごった返している。廊下に広がって写真を撮ったりしているので、なかなか進めない。
あの人に、
卒業おめでとうございますという定型句以外にも、話したいことはたくさんあった。
怪我の痛みが消えたと言ったら驚くだろうか。そして、それがあなたのおかげなんだと言ったらそれ以上に。
驚く前に不思議そうに首をかしげるか。それも見てみたいと思う。
ここにいて、よかったのだと。あなたに会えてよかったのだと。そう思えたのはいつだったか――思い返せば、案外最初の方だったように思う。
どうしても消えなかったそれは、あの人の優しさに触れて消えてなくなっていた。
それに気づいたのは迂闊なことにかなり最近で、どうして引退する前に気づかなかったのかと過去の自分を責めたくもなる。
つらいことを乗り越えて、過去の傷を飲み込んで、壊れた部品を取り換えるようにして、生まれ変わっていく。
楽器はそうなのだと言われた。人も同じだ。
そんな風にして、自分はこの数か月でだいぶ変わったような気がする。あの人は変わってないだろうか。いや、いい意味で成長していてほしいというか、引退したからその辺の話にもう少し敏感になっていてほしいというか、でもあの人が天然でなくなってたら、それはそれでものすごく残念というか――
「――湊くん?」
『その声』を聞いて、鍵太郎は自分の心臓が恐ろしい勢いで跳ね上がるのを感じた。
ぎこちない動きで声のした方を見れば――そこには引退したときとまったく変わらない春日美里が、本当に嬉しそうな顔で、自分のことを見つめてきていた。
「う、わあ、わ、ああああ……」
心の準備ゼロの状態で遭遇してしまったからか、今まで考えていたことが全部、吹き飛んでしまった。
やばい。久しぶりすぎて耐性がなくなっている。混乱する頭の中に浮かぶのは、心の奥底で考えていた、まじりっけのない本音で――
俺、ぜんっぜん変わってなかった。『それ』がわかって、鍵太郎は本当に自分が嫌いになった。
つらいことを乗り越えてきた。過去の傷を飲み込んできた。
だから――「こんなにつらかったんだから、愛してください」なんて、そんなの。
「そんなの、言えるわけないだろ……!」
それじゃ前と変わらない。
俺はなんにも、変わってない!
肝心な部分がそのままだと、本人を目の前にしたらわかってしまった。この人がいなくなってからものすごくつらくて、がんばってきて――その反動で、ベロベロに甘えたくなっている自分を自覚して、鍵太郎はここに来るまでに考えていたことを怒りのまま全て放棄した。
なにが自分は変わったような気がする、だ。全然変わってないじゃないか。
こんなんじゃ、学校祭のときと同じだ。なにを言ったところで、それは自己弁護と変わらない――!
そんな愕然としている鍵太郎の元に、美里は駆け寄ってきた。久しぶりに再会した後輩へと、あることを言うために――
「湊く――へぶっ!?」
「あああっ! この人も変わってなかったっ!?」
ずっこけた美里を助け起こす。これはこれで安心なような、そうでないような。「あ、あはは……すみません、わたしったら相変わらずドジで」と美里は困ったように笑う。
「もう大学生になるというのに、この体たらくで……こんなんで、大丈夫なのでしょうか」
「なに言ってるんですか。大丈夫ですよ、先輩なら」
「そうですかね? 本当ならわたしが湊くんを励ますはずだったのですが、逆に励まされてしまいましたね……」
美里はそう言って立ち上がった。というか、この人からしたら自分は今も変わらず励まされる対象なのか。確かに先輩からしたら、いつまで経っても後輩は後輩のままだろうけれども。
結局、そんなものなのか。
そう思っていると、美里は鍵太郎を見て首をかしげ、「と、いうか」と言ってきた。
「しばらく見ないうちに、湊くん、背が伸びました?」
「――え?」
予想だにしなかったことを言われて、鍵太郎は驚いて先輩を見た。
そんな後輩に、美里はのんびりと笑いながら言う。
「やっぱりしばらくぶりに会うと、変化がわかるものですねえ。男子三日会わざれば刮目して見よとは、こういうことを言うんですね」
「背……伸びてます?」
自分では気がつかなかったが。というか、周りの人間からもなにも言われなかったが。
やはり久しぶりに会うと、昔の自分とは変わっているものなのか。
気づかないうちに部品を変えて――知らない間に生まれ変わっているものなのか。
肝心なものはまだそのままだけど、それでもあの時点からはなにかが変わっている。
変わり続けている。それは終わることなく、途切れることなく、続いていく。
吹き続けることで、それは続いていく――
「あの、先輩」
ようやく、訊きたかったことのひとつを思い出して、鍵太郎は美里にそれ尋ねることにした。「なんですか?」と美里が小首をかしげる。
「先輩は大学に行っても――楽器、続けますか?」
「もちろんですよ!」
間髪入れずに美里が笑顔で返してきた。
「大学の部活か、社会人バンドに入るかはまだ決めていません。けど、わたしはずっと、続けますよ!」
『たからもの』を持ち続けますよ――! そう言う彼女の笑顔は相変わらず楽しそうで、鍵太郎は久しぶりに真正面から、その笑顔を見てしまった。
それを見て思う。
ああ、だめだわ。
やっぱり俺、この人のこと好きだわ。
変わったものと変わらないものがあるとするならば、それはやはり、この部分だった。
「じゃあいつか――また隣で吹いてもいいですか?」
「はい、ぜひ!」
終わりではなかった。
それはさらなる変化の始まりで、現実を受け入れるのを拒否していたわけではなかった。
続けることこそがこの人の隣にいられる術だということを、既に自分はなんとなく悟っていたのだ。
ならば――
「俺も続けますよ。で、今年こそは金賞を取ろうと思います」
うちの
今度こそ、証明してやりたい。
願わくば、その隣を空けたままで――
「約束です。先輩も新しいところで――がんばってください」
「はい! お互いがんばりましょう!」
それは、新しい約束。
終わりではない。これから――途切れることなく、それは続いていく。
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