第8幕 あなたの背中を追いかける
第100話 敵は味方の中にいる
「卒業生に送る寄せ書き、ですか」
三学期が始まり、部活も始まった音楽室で。
そろそろ卒業生を送る準備が始まるらしい。色紙は中央に『春日先輩へ』と書かれている。
後輩がその周りにメッセージを書いていくのだ。しかしそれはまだ回し始まったばかりのようで、宛名以外なにも書かれていない。
鍵太郎のつぶやきを聞き、相変わらずちょっとぽっちゃりした体型の先輩は、こくりとうなずく。
「そう。部活のみんなで先輩たちひとりひとりに寄せ書きを書くんだ。で、卒業式の日に渡すんだよ」
「……そう、ですか」
卒業式。その単語を聞いて、鍵太郎は歯切れ悪くそう言った。
その日を迎えるということは――つまりあの人は、部活だけでなくこの学校からもいなくなるということだ。
いつかそのときが来るのはわかってはいたが、こうして言葉で聞くと、コンクールや学校祭のとき以上にあの人との別れが迫ってきているという事実を突き付けられた気分になる。
「なに書いたらいいのかわかんないね」
色紙を見て智恵がそう言った。鍵太郎もその意見には大いに賛成だった。
そんな人との別れに際して、いったいなにを言えばいいのか。まだなんのメッセージも書かれていない色紙を見ても、答えは浮かんでこなかった。
自分の気持ちはそんな単純なものではなくて、そんな色紙のちょっとしたメッセージ欄で収まるものではない。
それは智恵も同じらしく、無言のままじっと色紙を見ている。ユーフォニアム・チューバパートの一員として自分より一年多く美里と過ごした彼女は、やはり先輩に対しては特別な思いがあるようだ。
智恵はやがてあきらめたようにため息をつき、鍵太郎に色紙を差し出してくる。
「湊くん、先書く?」
「いや、俺もまだ、ちょっと……」
「そっか。そうだよね」
とりあえず他のパートに回そうか。先輩のその発言に鍵太郎はほっとした。あれを書くにはもう少し、自分の中の気持ちを整理したかった。
初詣で買ってきた学業成就のお守りも、まだ先輩には渡しに行けていない。今のようにもやもやといろんなことを考えてしまって、三年生の教室に足が向かないのだ。
受験間近の三年生の教室は殺気立っていてちょっと怖いとか、もう引退した部活の後輩がわざわざお守り渡しに教室まで行くのって、相手としては迷惑に思うんじゃないだろうかとか。
そんな風に言い訳じみたことをぐだぐだ考えてしまうのは、結局あの人にどんな顔をして会っていいか、自分でもよくわからないからだと思う。
今の色紙のことと同じで、あの人がいなくなることに正面切って向かい合いたくないだけなのだ。それを自覚して、鍵太郎は自分の相変わらずの姑息さに、自分で呆れた。
「あと、これが卒業式で吹く曲ね」
「卒業式で?」
ため息をつこうとしたところに智恵に楽譜を差し出され、鍵太郎はため息の代わりに言葉を吐き出した。
『主よ、人の望みの喜びよ』とタイトルの書かれたその譜面は、相変わらず低音らしい四分音符ばかりの単純なものだ。いつもの通り、どんな曲なのかぱっと見ではよくわからない。
タイトルから察するに、クリスマスのときと同じような讃美歌なのだろうけども。首をかしげていると、智恵は卒業式のどこでこの曲を吹くのか説明をしてくれる。
「卒業式で三年生が入場するときに、それを吹くの。毎年その曲って決まってるんだ」
「へー……」
CDを流すんじゃなくて、生演奏なところにこだわりを感じるなあと鍵太郎は思った。いつから続いていることなのかは知らないが、これはスピーカーから出てくる音ではなく、そのときにしかできない微妙なニュアンスの音を求められているのだろう。
この学校にいたそのとき、なにがあったか、なにを思ったかを歩きながら思い出してもらうために。
初めに書いてある指定テンポを見ると、確かにゆっくり歩くくらいの速さになっていた。
「卒業生が入場し終わるまで、エンドレスで吹き続ける感じになるよ。耐久レースみたいになるけど、終わったら休めるからがんばっていこー」
「休めるんですか?」
「そう。わたしたちは体育館の二階で演奏するから、他の在校生たちみたいにずっと座って固まってなくていいんだー。入場の演奏が終わったら体操用マットに寝転がっていてもばれないから、終わっちゃえばすごい楽」
「吹奏楽部の特権だなあ……」
ヒラヒラを気楽に手を振る智恵に、鍵太郎はそう言った。そういえば体育館の二階には落下防止用の柵があって、それが目隠しとなって一階からはほとんど見えないのだ。
そういう状況なら、思う存分演奏に集中できるだろう。終わったらゆっくり休むこともできる。
「先輩たちが聞いて『これじゃ心配でおちおち卒業もできない!』って思われないように、がんばって練習しようね」
「……ですね」
鍵太郎はうなずいた。悩んでいてもしょうがない。まずは音を出さないと始まらない。
そうした方がかえって、頭で考えているよりも解決するのだ。
ここ最近の経験から、鍵太郎はそう思うようになっていた。
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「よーしおまえらー。とりあえず一発やってみんぞー」
音出しの後、顧問の先生がそう言って指揮台に立った。
今回の本番は学校行事なので、いつもの外部講師の先生ではなくこの先生が指揮を務めるらしい。先生は生徒たちを見渡すと、すっと指揮棒を構える。
そして、やわらかく振り下ろした。
『主よ、人の望みの喜びよ』は卒業式で演奏されるにふさわしい、静かな音楽だった。
厳粛に、しかし明るい光の中で曲が進んでいく。ただ初見のせいか、各楽器のテンポ感がバラバラだ。指揮と聞こえてくる音の両方に注意を払っていると、自分がどこで刻んでいけばいいのかよくわからなくなってくる。
鍵太郎が吹いているのはまさに、卒業生が歩いていく足取りのような音だった。それに対して主旋律のアルトサックスは、妙に早く流れて行ってしまうように聞こえる。
いやあんたら、もうちょっとこう、噛みしめるように歩きたくありません? と、それに対して鍵太郎は思う。向こうからしてみればこちらの吹き方は重ったるくてやりづらいものなのかもしれないが、それにしたって早く行きすぎではないだろうか。
こちらの音は聞いていないのかもしれない。そう思ったとき、引退したサックスの先輩が楽器を吹く姿が脳裏をよぎった。
人の音など聞いていないと言った、あの人を食ったような態度の先輩は元気だろうか。
自分からしてみれば正反対の考え方の持ち主だったが、それでもとてもうまい人であることに違いはなかった。自分の楽器が大好きで、いろんな音が出せるのがすごいんだぜーと語ってみせた彼女は確かに、吹奏楽とジャズではまるで違う吹き方をしてみせていた。
ひとりが浮かんだら、他の人のことも芋づる式に思い出されてくる。やたらハイテンションなトランペットの先輩、ひどくマイペースなトロンボーンの先輩。上手く吹けなかったがホルンの先輩は、どこの大学に行くのだろうか。えらい難関大学を受験しても、あの人だったら大丈夫な気がする。
みんなからこき使われていた打楽器の男の先輩は、打楽器というよりずっとドラムを叩いていたイメージがあった。あの人は大学に行っても吹奏楽を続けるのだろうか。それともバンドだろうか? どちらにしてもあの先輩たちから、楽器を離して考えるなんてことは正直できなかった。
そして、あの人も。
部長であって、同じ楽器の先輩であって――
今こうやって楽器を吹けているのは、良くも悪くもあの人のおかげなのだと、鍵太郎は思い知っていた。
彼女に対して言わなければならないことはたくさんあって、でもそれは今の演奏のようにバラバラだ。
この曲は、そんな中で果たしてどんな風に吹けばいいのだろうか。それは色紙を書くのと同じくらい難しいことで、鍵太郎の中にこれが絶対と言い切れるものは未だになかった。
ただ、卒業式の日は決まっている。
できていてもできなくても、本番は来る。
先輩たちが聞いて『これじゃ心配でおちおち卒業もできない!』なんて思われるのは――同じ間違いを繰り返すのは、もう死んでもごめんだった。
だったらもう、やるしかないのだ。どんどん重くなってきている自分の中のテンポを、鍵太郎は気力を振り絞って、前へと進めた。
大事なものを捨てたわけではない。ただそれを抱えたまま、進んでいくことを選択した。
伸び伸びになっていたテンポが多少修正され、演奏に流れが戻ってくる。相変わらず旋律群とは合っている気がしないが、これは自分というより向こうに問題がある気もする。
簡単そうに見せかけてひどく難しい曲だ。単純でゆっくりな曲だと思いきや、それが故に実力がストレートに出て誤魔化しが利かない。
ゆっくりになればなるほど曲がスカスカにならないよう、音を長く保たなければならない。最初のようなテンポだと息がもたなくなり、やがて結果的に自分で自分の首を絞めることになるだろう。
やはり前に進む感じで吹かないと、酸欠で死ぬことになる。しかも合図があるまでエンドレスだと言うし、これはちゃんと整理して考えていかないとマジで死ねる。
やはり前向きになるのは、自分にとっても先輩にとってもきっといいことなのだ――と、苦しさで混乱した頭で考えているうちに、初見の合奏は終了した。
「……っふ、はー」
鍵太郎は楽器を膝の上に置いて、もたれかかりながら息をついた。これはほんとに、終わったら体育館のマットで横になるかもしれない。
卒業式まで、あと二か月。それまでに、この曲も自分の思いも少し整理しなければ。
どんな風に吹くのか。これからどんな風に進むのか。
卒業式までに、春日美里になにを言うのか――これを吹きながら、考えよう。
###
合奏が終わって、智恵がピアノの上で色紙を書いているのが見えた。
「なに書くんですか?」
彼女がなにを書くのか興味があって、鍵太郎は先輩に話しかけた。智恵は上機嫌で、どうやらあの人へなにを書くか整理がついたようだ。
先輩は早いなあ。そうと思っていると、彼女は赤のペンでメッセージを書きながら答えてくる。
「えーっとね。色々考えたけど、やっぱりこれが一番かなと思って」
「見せてもらっていいですか?」
「いいよ。じゃーん!」
同じパートの先輩として参考にさせてもらいたい。そう思っていると、ちょうどメッセージを書き終えた智恵は、口で効果音を入れながらそれを見せてくる。
そこに書かれていたのは、こんな文だった。
『春日先輩へ♪ 大好きです! きゃー言っちゃったー! ユーフォニアム 今泉智恵』
「……」
参考どころか先に言いたかったことを言われてしまって、鍵太郎は澱のように沈黙した。
なんというか、これはズルくないだろうか。
俺が言おうと思ってたのに。女の人同士だからってそれはないと思うのだが、どうだろうか。
そりゃあ確かにこの人だって、自分よりあの人と長く過ごしてきた分、特別な思いがあるとは知ってたけど――。
「もうねー。これしかないなって思って。あ、湊くんも書く?」
「……もうちょっと別な感じで考えてみます」
笑顔でそう言う智恵に、鍵太郎は首を振った。なるほど、ライバルは意外なところにいたのだと、今さらながらに知った気分だった。
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