第101話 楽器屋のプライド

 卒業式で演奏する曲を練習しながら、湊鍵太郎みなとけんたろうは考え事をしていた。

 それは卒業する先輩へ、なにを言おうかということだ。

 今までありがとうございましたと言いたい気持ちもあるし、反対に行かないでほしいという思いもある。

 自分の気持ちは非常に曖昧で矛盾していて、しっちゃかめっちゃかでわけのわからない状態だった。

 必死に考えても答えが出なくて、どうしたらいいんでしょうと吹いている楽器に問いかけてみる。今こうして吹いているのは、その先輩から受け継いだ楽器なのだ。

 あの人がこの部から引退した今、これは先輩と自分を結ぶ絆のようなものだった。

 答えが返ってくるわけではないが、とりあえず音は出し続けよう。そう思いつつ、音程を変えるためにレバーを指で押す。

 すると――


 スコン、と右手の小指が空振ったような感触があった。


「――っ!?」


 今までにないその感覚に、ぞっとする。

 動かした小指は四つある操作レバーのうちの、四番を押さえるものだ。その手ごたえがないというのは、いったいどういうことなのか。

 慌てて楽器を置き、四番レバーを見る。大型楽器のチューバでもそのあたりは意外に繊細な部品が多く、ネジや細い金属棒など、様々な部品が組み合わさって形成されている。

 そこで鍵太郎は、信じられないものを見た。

 四番レバーに繋がる金属棒。それがぷらん――と、折れた小鳥の骨のようにぶらさがっているのを。



###



「……ぼくのだいすきなていおんがっきー、せんぱいからもらっただいじながっきー♪」

「湊が壊れた」


 首をおかしな角度に曲げて虚ろな目で変な替え歌を歌う鍵太郎に、トロンボーンの浅沼涼子がそう言った。

 彼女が鍵太郎をつついても、歌は止まない。今の鍵太郎にできるのは、とりあえず歌うことだけだった。


「とーってもだいじにしーてたのにー♪ こわれてでないおとーがあるー♪」

「……四番レバーって、動かないとなんか出ない音あるんですか?」

「レが四番だが、一と三番を一緒に押せば替え指になる。別に出ないわけじゃないぞ。超音程上ずるけどな」

「というかその歌、私の楽器が壊れそうだからやめてほしいなあ……」


 その壊れっぷりに、千渡光莉せんどひかりが顧問の先生にそう訊き、クラリネットの宝木咲耶たからぎさくやが自分の楽器を抱えて言った。

 鍵太郎はかまわず歌い続ける。「どーしよ♪ どーしよ♪」まさにそんな気分だった。目の前に垂れ下がる細い金属棒という凄惨な光景に、思考が完全に停止していた。

 そんな鍵太郎に、涼子が言う。


「接着剤でくっつけたら大丈夫なんじゃない?」

「ふざけんな馬鹿!? 管を二回折り曲げたらとりあえず形になるおまえのトロンボーンとは違って、チューバの造りはもうちょっと複雑で繊細なんだよ!」

「トロンボーンのあの形、あたしは好きだけどなあ」


 涼子の暴挙を許すまいと、鍵太郎は即座に楽器の前に立ちふさがった。そんな二人に、顧問の本町瑞枝ほんまちみずえが言う。


「まあ、なんだ。さっき知り合いの楽器屋に電話したから、もう少ししたら修理の人が来るぞ」

「知り合い……ですか?」

「ああ。大学の後輩がやってる店なんだ」

「……ふーん」


 本町の大学の後輩。

 その言葉にあの外部講師の先生の顔が思い浮かんできて、鍵太郎は微妙な間を挟んでうなずいた。

 なんというか、腕はいいのかもしれないが、性格にちょっと個性的なものを持ってそうな人が来る気がしてならない。

 吹奏楽部に入ってからというもの、正直マトモな人と会えたことの方が少ないのだ。大丈夫なのだろうか。鍵太郎の思惑をよそに、本町は続ける。


「まあ心配するな。仕事はきっちりやるやつだ。信用してくれていい」

「……わかりました」

「きっちりしてると言えば、こないだ買ったチャイムのローンも――」

「こんちわー。都賀楽器店でーす」

「……噂をすれば、だな」


 先生と一緒に鍵太郎が声のした方を見れば、そこには白いシャツに黒いエプロンをした、茶髪の男性の姿があった。

 カフェの店員のような出で立ちだが、それにしてはそのエプロンは少し汚れている。

 なんだろうと思って、鍵太郎はそれが楽器の油であることに気づいた。楽器に注す油と同じ、独特の匂いをわずかに感じたのだ。

 楽器屋にとっては、それが作業着なのか。そんな黒エプロンの人物を、本町が手招きする。


「都賀、こっちだこっち」

「どうも先輩。しばらくです」


 都賀と呼ばれたその楽器屋が、音楽室の中に入ってくる。見た感じ言動はしっかりしているし愛想もあるし、この先生の関係者にしては予想以上に社会的だなあと鍵太郎は妙なところで感心していた。初めて会ったときヒゲもじゃだったあの指揮者の先生とはえらい違いである。

 そんな都賀に、本町は壊れている部分を指差して言う。


「これだ。四番レバーが動かなくなった。見たところ接続部のネジが取れちまってる」

「わかりました。見てみましょう」


 楽器の傍に屈みこむ都賀に、鍵太郎は尋ねた。


「……直りますか?」


 この楽器は自分にとって本当に大事なものなのだ。直らなかったら大いに困る。

 これがなくなったら、先輩と自分をつなぐ糸が切れてしまいそうな気がするのだ。不安げに訊く鍵太郎に、都賀は壊れた部分を様々な角度から見つつ答えてくる。


「直るよ。似たようなケースは結構見てきた。チューバのこの部分は構造的にどうしても弱いところだから、部品の経年劣化でこうなりやすいんだよね」

「そうですか……」


 頼もしい言葉にまずはほっとした。自分の扱い方が悪くてこうなったわけではないというのも、とても安心できる材料だった。

 しばらく壊れた部分をいじっていた都賀は、本町に言う。


「部品の交換で直りますね。ただこれと同じ型番のものが店にあるかどうか。あればわりとすぐ、なければ部品を取り寄せして、少々お時間をいただくことになります」

「あと少しでテスト期間に入るからな。直らなくとも、しばらくは前の楽器を吹けばいいだろう。それでいいよな湊?」

「え、あ、えーっと」


 いきなり自分に振られて、ぼーっと楽器を眺めていた鍵太郎はとっさに反応できなかった。しかし大人二人が自分を注視しているのがわかって、素早く気を取り直して答える。


「……わかりました。修理に出してください」

「よし。じゃあしばらく前の楽器を――」

「でも、なるべく早くしてほしいなと思います。俺はその楽器を吹きたいから」

「……へぇ」


 続いて言った鍵太郎のセリフに、反応したのは都賀の方だった。

 今までなんとも思われていなかったはずなのに、鍵太郎は急にこの楽器屋にはっきりと視界に入れられたような気した。

 自分の言葉の、なにが彼の態度を変えたのか。それがわからなくて戸惑っていると、都賀は本町へ言う。


「あ、この子ですね。先輩が言ってたなんかおもしろい子」

「おもしろ……?」

「おいコラ都賀。本人目の前にして言うこたぁねえだろ」


 先生が少し焦ったように返した。しかし都賀は構わず続ける。


「高校の吹奏楽部でチューバのソフトケース買うなんて言い出すから、どういう子かなあと思ったら――なるほどなるほど。これはなかなか将来いいお客さんになってくれそうだ」

「あの、なにを……」


 客ってなんだ。

 ごく普通の一般家庭で育った高校生である自分に、楽器なんてそんなもの買えるはずがないのに。

 都賀は自分の中になにを見たのか。というか先生の知り合いって、やっぱりみんな変な人じゃないか。そう混乱しているうちにも、都賀は畳み掛けるように、こちらに言ってくる。


「となれば今のうちに、ちょっとセールスしとかないと。大丈夫だよ少年。きみの心意気は見せてもらった。都賀楽器店はできうる限り早く、この楽器を修理してきみの元へ届けよう」

「は、はあ、ありがとうございます……?」

「ついでに本町先生、ロータリー調整とコルクの交換もいかがですか? 学校の楽器はなかなかメンテンナンスに出せないと思うので、この機会にやるのがオススメですよ」

「……商機を見つけると途端にグイグイ来るなあ、この腐れ楽器屋が」

「なんとでも言ってください。楽器屋っていうのは夢を売ってるぶん、バランス取って現実的にならないと生き残っていけないんです」

「あーもう……。わかったわかった。その代わり安くしろよ。こないだチャイム買ったんだから」

「なるべく勉強させていただきまっす。先生にはきっちり、そのチャイムのローンを払ってもらわないと困りますからね」

「この、腐れ楽器屋が……」

「えーと……?」


 大人二人がどんどん話を進めてしまうので、ついていけなくて鍵太郎は本町と都賀を交互に見た。本町は額を押さえており、都賀は力強い商売人スマイルを浮かべている。


「大丈夫。きみの大切なこの子は、うちの店が責任もってお預かりするよ」

「は、はあ」


 その言い方が逆に怪しい商人のようで、鍵太郎は後ろに楽器を庇うように後ずさった。決してそんなことはないだろうが、なんだかうまいことを言って、この子を分解してどこかに売り払ってしまいそうな感じすらした。

 先輩と自分をつなぐこの大切な楽器を、怪しい人に預けるわけにはいかないのだ。そんな警戒をする鍵太郎に都賀は苦笑し、少し腰を落としてゆっくりと言う。


「きみがこの子を大切にしているのはすごくよくわかった。だから僕は、楽器屋のプライドとしてその子を直そうと思うんだ」

「楽器屋の……」


 プライド。鍵太郎の言葉に、都賀はうなずいた。


「奏者にもプライドがある。楽器屋にもプライドがある。よりよい音を求めて真剣勝負をしている人たちに対して、適当なことなんか絶対できないさ。そんなことしたら、あっという間に店が潰れてしまうよ。さっきも言ったけど、大変なんだよ? 楽器屋もさ」


 そう言う楽器屋を見ていたら、その隣にいる本町が小さくうなずいてきた。

 わかったから、安心してそいつに預けろ。先生はそう言っているようだった。

 鍵太郎もうなずく。この人ならこの楽器を預けてもいい。そう思うことができた。


「……お願いします」


 楽器を都賀の前に置く。そんな小さな未来の客へ、楽器屋は言葉をかける。


「ありがとう。大丈夫だよ。きみとこの子をつなぐ絆は、そう簡単には切れたりしない。

 どこかが壊れたって、部品を変え油を注し替えながら、楽器は生まれ変わっていくんだ。魂のある楽器は、みんなそうだ」


 きみと先輩をつなぐ絆は、壊れたところで切れはしないんだ――なにも知らないのに、鍵太郎は都賀にそう言われたような気持ちになった。

 卒業したって、それは終わりではない。

 状況を変え考えを変えながら、自分とあの人をつないでいくんだ、と。

 この楽器屋は必死に考え込んでいた自分に、そう言ってくれたような気がした。


「ま、そんなわけで、将来楽器を買うときは、うちの店からでどうぞよろしく♪」

「はあ……まあ」


 曖昧にうなずいておく。これが大人というものか。自分のやること、言いたいことがとてもはっきりしている。

 あの外部講師の先生といいこの楽器屋といい、この顧問の先生の知り合いはふざけているようで、たまにひどく大人な人が多い気がした。

 自分はこんな風になれるのだろうか。言うべきときに、言いたいことが言えるように。

 とりあえず、卒業式には言わないとならないわけだが――

 鍵太郎がそんなことを考えていると、改めて楽器を点検していた都賀の動きが、ふと止まった。


「……なんか、変にへこんでるところがあるね」

「直してください」


 都賀の見ている部分がわかって、鍵太郎は即座に希望を出した。そこはクリスマス前に涼子に誤ってつけられた、へこみの部分だった。


「いいけど、これはさっきの見積もりの範囲外だなあ」

「部費で落ちなければ俺が払います。だからもう、跡形も残さずきれいさっぱり直してください。お願いします」


「え? 直しちゃうのそれ?」と言う涼子を無視して、鍵太郎はもう一度「直してください」と言った。


「出世払いかい?」


 都賀はニヤリと笑って、楽器をひと撫でする。

 まるで人質を取られているようだった。その笑顔を見ると部品を変え油を注し替えても、やっぱりこんな大人にはなりたくないな、と鍵太郎は思った。

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