第98話 きみの笑顔と除夜の鐘

 湊鍵太郎みなとけんたろうは大晦日の夕方、コタツに入ってテレビを見ていた。

 笑ったらケツバットのあの番組でもなく、アイドルや人気歌手が出る歌番組でもない。

 年末特別時代劇である。

 今年は会津白虎隊の話だ。最近めっきりテレビで時代劇をやらなくなったので、貴重な時代劇分を補給しようと、鍵太郎は食い入るようにテレビを見ていた。彼が同級生から変わり者扱いされる理由のひとつがここにある。

 時代劇はいい、と鍵太郎は思った。弱きを助け強きを挫く。自分が小柄で弱かったからよくわかる。

 いじめっ子を金属バットで成敗してまわった野球部時代を思い出す。今考えるとどうかと思う行為だが、若さゆえの過ちだ。挫折を味わい高校生になってからは、そんな無茶はしないと決めたから大丈夫だ。……たぶん。

 テレビの中のシーンは隊員たちが飯盛山で自刃するところだった。命より大切なものを守るために、少年たちは死を選んだのだ。

 切腹は単なる自殺ではない。己の意思によって死を超克する、極めて高次な精神的行為でうんたらかんたら。

 同じ部活の女性陣に語ったら絶対ウザがられるであろうことを延々と考えながら、鍵太郎は番組を最後まで見た。今年は姉が出かけているので、最後まで見ることができた。

 姉は暴虐の塊のような人間だ。いや、鬼だ。

 暴虐の限りを尽くす鬼だ。そんな姉がいないおかげで、今年はゆっくりと――と思ったところで、携帯が鳴った。

 着信だ。誰だろうと思って見ると、かけてきたのは吹奏楽部の同い年である宝木咲耶たからぎさくやだ。

 家が寺で礼儀正しい彼女のことだ。年末のあいさつでもしたいのかもしれない。鍵太郎は通話ボタンを押して、耳に当てる。「もしもし、宝木さん?」と言うと、聞こえてくるのは咲耶の、いつもの穏やかな声だった。


『こんばんは、湊くん。あの、今日これから暇かな?』

「え?」


 時刻は八時を回っている。これからの用事とはなんだろうか。首をかしげると、咲耶は変わらぬ調子で言う。


『うちに来ない?』


 ものすごく正直に言うと、その言い回しにほんの一瞬だけ思考停止した。

 こちとら多感で若い、年頃の高校生である。すぐに彼女がそういう意味で言っているわけではないと理解したものの――誤解を招くような言い方はやめたほうがいい、と鍵太郎は忠告したい気分になった。

 実際には言わないけども。

 というか、言えないけども。

 なにかにつけ罵ってくるあのトランペットの同い年やこっちの言うことなどまるで聞かない自由人であるトロンボーンのアホの子と違って、咲耶はちゃんと話を聞いて会話してくれる、鍵太郎にとって数少ない安心できる人間なのだ。ここで変なことを言って彼女を敵に回してしまったら、もうあの部ではやっていけない。

 そう思って動揺を鎮めて鍵太郎は「……なんで?」と訊いた。微妙に空いた間は見逃してほしいと思う。

 幸いにも咲耶は、特にそこは気に留めなかったようだ。電話越しにもわかる朗らかな調子で言ってくる。


『一緒に除夜の鐘つこうと思って』

「あ、なるほど」


 納得する。先ほども言ったが彼女の家は寺だ。百八つの煩悩を鐘つきで祓うあの行事を、宝木家でももちろん行うらしい。

 まあね、確かに少し、煩悩祓いたい気分だよね。さきほどの自分を振り返って、鍵太郎はそう思った。

 すっきりと新年を迎えたい。興味もあるし、せっかくのお誘いだ。行ってみよう。何時から始めるのだろうか?

 宝木家は学校の近くだ。定期券はまだあるので電車で行くのがいいのだろうが、あまり遅くなると帰れなくなってしまう。

 百八回の最初の方だけつかせてもらうのがいいだろう。なので始める時間を鍵太郎は訊いた。鐘をつく一回一回の間隔は長いだろうし、時間をかけてやるならそれなりに早い時間から始まるはずだ。今から行っても間に合うだろう。

 だが返ってきた答えは、そんな鍵太郎の計算からは大きく外れたものだった。


『始めるのは十一時半からだよ』

「遅ッ!?」

『だってさ、一分間に三回、二十秒間隔でついたとしても、百八回は三十六分でつき終わっちゃうんだよ』

「そう考えると煩悩の数って、意外と大したことないのかもしれないな……」


 悩みなど大したものではない、と言われているようであった。先ほどの気の迷いが許されたような気がしてなんとなく安心する。まあそれは、いいのだが。

 それだと行ったきり帰ってこられない。貴重な機会だが今回は断るしかない。

 そう言うつもりだったが、その前に咲耶があっさりと言う。


『遅くなるから、うちに泊まればいいよ』

「ちょっとそろそろ、その言い方いい加減やめてほしいなあ宝木さん!?」


 他意がないのはわかっているが。むしろいつもの仏教ギャグだと言ってほしいくらいなのだが。

 咲耶の口調は至って真面目だった。真剣に、続けてくる。


『いつも練習してる離れでもいいし、母屋にも空き部屋あるよ。布団は余ってるしお菓子もあるし、なにも心配しなくても――』

「心配だらけだわ! 煩悩祓いに行って余計煩悩まみれになりそうだわ! なんなのコレ!? 宝木家特製解脱メニューなの!?」

『そっか! なんだったら本堂でお釈迦様と一緒に寝ればいいんだよ! これであなたも悟りの道へ!』

「いろんな意味で悟れそうで怖いなあ宝木家!」


 修行僧さながらの過酷なメニューだった。目が覚めたらおはようございますブッタ様だ。そう考えるとお坊さんってスゲエなあ、と思わないでもない。

 なんだかやたら乗り気な咲耶には悪いが、ここまで清廉潔白な目的と理由でもさすがに泊まるのはまずいだろう。本人にその気はなくとも、邪推する輩というのはどこにでもいるものだ。

 丁重にお断りしよう。少なくとも今は無理だ。もっと先、例えば大人になって車でも持てばまた違うのかもしれないが――

 そう思ったとき、鍵太郎の頭にある想像がよぎった。

 それは、何度か行ったことのある宝木家での境内での光景だ。知った顔が何人も、楽しそうに動き回っている。

 トロンボーンのアホの子が、好奇心いっぱいに除夜の鐘をついていた。トランペットの同級生が自分もやってみたそうに、チラチラとそれを伺っている。

 その周りを見分けがつかない双子の姉妹が、かしましく動き回っていて――それは賑やかでいつも通りの、ずっと見ていたくなるような光景だった。

 自分はそれを、本堂の階段に座って見つめていた。多少背が伸びて、顔つきが大人っぽくなっているのは願望なのかもしれない。

 そんな未来の自分というべき存在は、鐘の周りできゃあきゃあ騒ぐ四人を見守っていた。その隣には咲耶がいて、一緒に座ってそれを見つめている。

 穏やかな光景だった。

 それはこれからあるかもしれない未来で――大人になってからも、そんな風に変わらず楽しくやれたらいいな、と思う。

 こんな未来になるとは限らない。けれど、卒業して、大学に行って、就職して――道が分かれてもこうしてみんなで集まって、同じように騒げればいいと思った。

 いつまでもこのままでいたかった。

 それは、先輩と一緒にいたころと、似て否なる気持ちなのかもしれない。

 そのうちおまえもやれと言われて、鐘の前に引っ張り出される。しょうがねえなあと前に出て、鐘をつこうとして――ふっと、振り返る。

 そこには、少しさびしげに微笑む咲耶の姿があった。

 彼女はいつもそうだ。少し離れたところから、みなを見ている。

 今までより距離は縮まっているものの、やはりまだその癖は残っていて簡単には直らないようだった。もし大人になってもそれがそのままだとしたら――それはとても、悲しいことのように思えた。

 だから手を差し出した。

 以前彼女にそうしたときと同じように、そうした。そんな顔をしないでほしかった。単なる自分のわがままだが、彼女は、嬉しそうにこちらに駆け寄ってきて来てくれた。それでよかった。

 彼岸の距離など飛び越えて、信じることを教えてくれたのは彼女なのだから。

 自分自身がそれをできないでどうする。そう思って鍵太郎は咲耶と一緒に綱を持って、鐘を鳴らそうと――



『――湊くん? どうしたの?』



 不意に声をかけられて、鍵太郎は我に返った。


『急に黙っちゃって……私なにか、変なこと言った?』

「あ、いや、ごめん、違うんだ」


 慌てて鍵太郎は謝った。なんだかあの部活に入ってから、物思いに耽ることが多くなった気がする。

 もともと考えすぎる性分だが、耳を震わすあの音たちに触れて、それが深化しているのだろうか。ある意味これも悟りへの道か、と鍵太郎は苦笑した。

 身体に負担のかかるあの楽器をやっていることも相まって、本当に修行しているのかもしれないと思う。周り女子ばっかだし。刺激強いのにそれ言ったら殺されるし。

 きっと来年もそうなるんだろうなあと思った。かしましくて好き勝手な行動をするやつらばかりで――きっと、楽しくなるのだ。それがさっきの光景につながっていくのかもしれない。

 今回はご遠慮させてもらうけれども、もっと先、ああなることを祈って。そう咲耶に伝えた。

 彼女は断られて少し落胆した様子だったが、すぐにいつもの調子に戻る。


『そうだね。確かにそうなったら、いいね。うちでみんな集まれたら』

「うん。そのときはよろしく」

『そのときは、湊くんも一緒に準備してね』

「そ、そうだな、言いだしっぺだもんな」

『そうじゃないけど……まあ、いいか』

「……?」


 鍵太郎は首をかしげた。イメージは正確に伝えたと思ったのだが、どうやら自分と咲耶の認識にはズレがあるらしい。

 そうだ。いつだって、彼女とは少しズレている。だからこそそれを越えようと思うわけで――果たして咲耶は、いつものように穏やかな口調で言うのだ。


『じゃあね、湊くん。また来年も、その先も――よろしくね』

「うん。こちらこそよろしく、宝木さん」

『……来年はそれ、やめてほしい』

「あー……うん、がんばる」


 咲耶に対してはまださん付けが取れない。なんだかよそよそしいからやめてくれと散々言われているものの、ここまで来るともはや取ったら変な感じすらする。

 来年はこれも変わるのだろうか。その未来は不確定のまま、刻一刻と今年が終わり、新しい年は近づいてきている。


『じゃあ、湊くん。よいお年を』

「よいお年を」


 鍵太郎は年末の挨拶をして、電話を切った。



###



 それから数時間後、除夜の鐘の音が聞こえてきた。

 百八つの煩悩を払う音の向こうに、咲耶とみなの笑顔が見える。来年はそんな年になればいい、と鍵太郎は思った。

 それを守ることが、あの人のことを本当に好きだった証になるのだろうから。

 そんな全員の意思から少しずつすれ違うその思いを胸に――大きく鳴らされた音が聞こえる。

 聞くもの全てに届けんとするその響きをもって、新しい年が明けた。

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