第97話 女性専用車両での無実

「……本当に、やるのか」


 『それ』の前で、湊鍵太郎みなとけんたろうは神妙な面持ちで訊いた。

 鍵太郎の周りには、同じ吹奏楽部の女子部員たちがいる。今の質問は彼女たちに向けてのものだ。

 それをやる覚悟はあるのか。そのつもりで訊いたのだが――彼女たちは慣れたもののようで、特に緊張した様子など見せなかった。

 その中の一人が、鍵太郎に応えてくる。


「今さらなに言ってんのよ」


 そう言ったのは千渡光莉せんどひかりだ。彼女はいつものように少しむすっとした顔をして、鍵太郎を半眼で見つめている。


「あんただっていいって言ったじゃない」

「いや、まあ……そう、なんだが」


 歯切れ悪くそう答える。確かにそう言ったものの、あれはほとんど無理やり言わされたようなものだった。

 積極的に賛成したわけではない。むしろ今からだって帰りたい。ただ、この雰囲気でそれは無理だ。


「湊くん、行こ?」


 隣で言ってきたのは、宝木咲耶たからぎさくやだ。

 いつも彼女が浮かべている柔らかい微笑に、少し照れのようなものが見える。それがさらに鍵太郎の警戒心をあおった。

 これは、まずい。なんとかして彼女たちからなるべく離れないと――


「みーなと! 早く早く!」


 『それ』の入り口で、浅沼涼子が手を振っていた。彼女はまったくもっていつも通りで、元気な笑顔でこちらを誘っている。おまえは本当に、いつも感性だけで真っ先に突撃しやがって――と思ったところで。

 ――真っ先?

 そこでふと鍵太郎は、ある作戦を思いついた。そうだ、真っ先に入ってしまえばいいのだ。先陣を切って『それ』に入り、いち早く有利な位置を確保してしまえばいい。

 あとは嵐が通り過ぎるのを待つように、亀のごとく身を縮めていればいいのだ。

 低音楽器は裏方だ。好き勝手に吹くメロディ楽器の裏で、忍従することが多い。理不尽に耐え忍ぶことにかけては、おそらく他の楽器の連中よりは秀でているはずである。

 自慢にはならないが。


「よ、よし、わかった」


 意を決して一歩踏み出す。どうせ引き返すことなどできないのだ。だったら躊躇せず、奥深く切り込むだけ。

 そのほうが、かえって傷は浅く済むはずだ。

 覚悟を決めろ。腹を据えろ。

 誘惑に負けるな。それがあの人への思いへの証明になるのだから。

 そう思って、鍵太郎は足を踏み入れた。

 『それ』――プリクラの筐体の中へ。



###



「はいはーい、じゃあ背景決めよっかー」

「どれにするー?」


 立て続けにそう言ったのは、越戸ゆかりとみのりの双子姉妹だ。

 越戸姉妹に他の三人は、慣れた様子で背景色を選んでいく。


「……」


 きゃあきゃあと楽しげなその様を、鍵太郎はスペースの端からどんよりと見つめていた。

 狭い。

 わかってはいたが、撮影スペースは狭い。ましてや六人も詰め込んでいるこの状況では、そのパーソナルスペースの狭さは推して知るべしであった。

 クリスマスコンサートの本番が終わって、記念にプリクラを撮ろうという話になった。

 鍵太郎は反対したのだが、周りの女子部員が全員賛成に回ったため、鍵太郎の意見は紙のように吹き飛ばされたのである。

 吹奏楽部は女所帯。彼女たちがシロだといえば、男子部員はクロだと思っても従わないといけない。

 これは生き残るための知恵である。繰り返す。これは生き残るための知恵である。

 鍵太郎はプリクラは苦手だった。明らかに女性向けのこの筐体に入ることにも抵抗があったし、なにより一番危惧していたのはこの狭さからくる――


「よーし! じゃあ一枚目!」


 掛け声とともに女性陣が散開して、撮影スペースに押し寄せた。

 一気に人口密度が高くなる。となればもちろんくっつかざるを得ないわけで。


「わ……」

「ああああ! ごめん宝木さん!」


 右腕が咲耶の胸の近くに当たって、鍵太郎は慌てて腕を引っ込めた。

 冬の制服越しでも、さすがに感触は伝わってしまう。自分にはない柔らかさが、妙に腕に残ってすごく落ち着かなくなった。

 そう。これが一番心配だったのだ。

 こんな狭いところに大人数で入れば、どうしても誰かの身体が当たる。

 普段は女性陣と一緒に行動して同じ扱いをされていても、やはり男子部員である自分は異物だと鍵太郎は知っていた。

 彼女たちの前では口が裂けても言えないが、胸とか揺れれば本能的に目が行ってしまうのだ。ちょっと短めのスカートから伸びる健康的な足とかも、目に焼き付いて離れない。

 それが例え、好きな人以外の女性だとしても。

 だってしょうがないじゃないか! と、心中で鍵太郎は叫んだ。これは自然の摂理なのだ。刻み込まれた本能のなせる業なのだ。

 俺の意思とは無関係なんだ! そんな言い訳をしていたら、シャッターがきられた。


「……ちょっと、なんであんたちょっと見切れてんのよ」


 撮れた画像に光莉が、半眼でこちらを見てくる。どうやら逃げたい一心のあまり、カメラの撮影範囲から出てしまったらしい。

 端にいたのがかえって仇になった形だ。「ごめん」と謝るがなにか理不尽なものを感じる。セクハラはいらないから、もっと配慮がほしい。


「じゃ、二枚目いくよー」

「位置を変えろー」


 撮るものによって居場所を変えるのがルールなのか、越戸姉妹がそう言って動き出した。

 他の女性陣も動き始める。同じ位置でもよかったのだが、再度光莉に睨まれたため、鍵太郎もしょうがなく動き出した。

 動くといっても、左端から右端へだ。今度は見切れないよう注意しながら、なるべく隅に――


「みーなと! こっちこっち!」

「え――う、ぎゃあああああっ!?」


 涼子に後ろから抱きつかれて、鍵太郎は悲鳴をあげた。

 普段まったく女性らしさを感じさせない涼子だが、そりゃあ育つところは育っている。

 背中に当たる感触に、一瞬意識が飛びかける。く、くそ、浅沼のくせに意外と大きくて生意気だ。そんなギャップがさらに混乱を招く。

 いつもはあんなにアホの子のくせに、こんなときだけちゃんと女の子なのは反則だ。い、いやでも先輩には敵わないからな! 男なら胸そのものを愛せと言われるが、どっちかっていうと俺はないよりあったほうがいい派で――って、俺はなにを口走ってるんだ!!

 パシャリ。頭を抱えた瞬間に、シャッターが切られた。


「……あんた、いい加減にしなさいよ」


 完全に顔が隠れて見えない写真の中の鍵太郎を見て、光莉がさらに冷たい目で言い放ってきた。

 べ、別に好きで顔を写してないんじゃないんだからね! これは事故みたいなもんであって、決してわざとではないんだからね!

 と、いうことが言えなくて、鍵太郎は涙を飲んだ。

 今自分が思っていることを全部言ったら、この筐体から生きて出られなさそうな気がする。

 引退した打楽器の男の先輩の扱いが、まさにそうだった。キモいだのなんだの言われて罵倒されるのは、いくら我慢強い低音楽器の人間でも耐えられない。目の前でその先輩の扱いを見ているだけに、余計そんな思いは強かった。

 満員電車の中で、痴漢と間違われないように手を上げている人ってこんな気分なのかもしれない。

 身体が密着してもそれはしょうがないことで、決してやましい気持ちがあるわけではないのです。

 だから先輩、違うんです。俺は無実です。

 俺が今動揺していることは、ノーカウントでお願いします!

 クリスマスイブだけに、神様に許しを請うような気持ちで鍵太郎は祈った。

 だから嫌だったのだ、こんな大人数でプリクラ撮るのは。

 せっかく今日はいい本番だったのに、その思い出が全部このドタバタで塗り替えられてしまうではないか。誰だ今役得とか言ったやつ。代わってやるからこっちに来やがれ!


「じゃ、三枚目ねー。湊、今度こそちゃんと写ってねー」

「いっそのこと真ん中に来なよ」


 越戸姉妹に引きずられて、鍵太郎はセンター、カメラの正面に移動した。


「動かないでね」

「逃げないでね」

「……おまえら、なんで屈んで足を押さえる」

「え? そういうの好きでしょ?」

「湊最近、滝田先輩に似てきたよね」

「あの変態と一緒にしないでくれ!」


 ああならないようにこうして必死に軌道修正している最中だというのに。また頭を抱えようとしたら、今度はその腕も拘束された。


「あんた、何回同じ間違いすれば気が済むのよ」

「大丈夫だよ、怒ってないからー」


 光莉と咲耶がそれぞれ右腕左腕を押さえてきた。咲耶は怒ってないと言いつつも、若干の距離を開けて腕を掴んでいる。

 ち、違うんだ宝木さん、これは煩悩とはまた違ったものなんだ。お願いだからそんな彼岸の彼方からこっちを見るような顔をするのはやめてくれ。

 そんな咲耶に対して、光莉はというと――


「お、おい、あんまりくっつくなよ」

「……うっさい」


 どれだけ自分を逃すまいとしているのか、腕を組んできた光莉に鍵太郎は抗議した。そして、それに対してひどく不機嫌な返事が飛んでくる。


「……みんなにくっつかれて鼻の下伸ばしてんじゃないわよ。馬鹿じゃないの」

「誤解だ……!」


 冤罪だ。少なくとも故意ではない。

 今だってこの状況はまるで望んでないもので、光莉の胸が――

 ……胸が?

 あるべきはずのものが腕に当たらなくて、鍵太郎は目をしばたたかせた。

 そこにはあるべきものが、なんというか、その……なかった。

 それは例えるならそう、絶壁というべきもので――そう、まっ平らだった。

 それが今の状況ではかえって、動揺した気持ちを落ち着かせてくれた。鍵太郎は遠い目をして、言う。


「……なんでこの状況で、一番のオアシスがおまえなんだろうな」

「……どういうこと?」

「なんでもない」


 ひんぬーはステータスだって、どこかの青い髪の女の子が言ってたよ。

 だから別にいいんじゃないかな。決して口には出さないが、心の中で鍵太郎は光莉にエールを送った。


「じゃ、今度こそカメラ目線でー」


 後ろから涼子に頭を押さえられて、顔をぐっと上げさせられる。黒光りするレンズが目に飛び込んできて、顔がこわばるのが自分でもわかった。


「はーい、じゃ、笑ってー」


 笑えって言われて自然に笑えるやつは少ない。そう突っ込む前に、三回目のシャッターは切られた。



###



 ぎこちない笑いを浮かべる自分の写真を見て、鍵太郎は渋い顔になった。


「さーて、デコろうか」

「猫耳とかつけちゃうぞー」


 だいぶ撮り慣れているのか、ゆかりとみのりが表示された写真にためらいなくラクガキを始める。

 日付とか音符とか猫耳とか、とにかくキラキラしたもので写真が埋め尽くされていった。こういうの俺には絶対無理だ、と鍵太郎は思う。なんというか、考えてることもそんなにキレイじゃないし。

 二人に任せていればいいや。そう思って近くのイスで出来上がるのを待つつもりでいたら、ゆかりが持っていたラクガキ用のペンを差し出してきた。


「はい。湊もなんか書いて」

「書いてって、そんな……」

「文字じゃなくても、スタンプとかでいいよ」

「ほら。イブだからクリスマスのスタンプもあるし」

「うーん……」


 みのりにもそう言われて、仕方なく鍵太郎は画面を見た。

 確かにシーズンというカテゴリの中に、ツリーとかメリークリスマスの文字とか、こちらもキラキラした画像が映し出されている。


「……でも、このメンバーだとなんか、そんな感じしないんだよな」


 鍵太郎は他のカテゴリを開けた。この六人なら、メリークリスマス、よりもっと相応しい言葉があるような気がしたのだ。

 迷っていると、姉妹は画面の数字を指差して焦ったように言ってくる。


「早く早く、時間切れになっちゃうよ!」

「ホラ、ここの数字!」

「え!? ちょ、ちょっと待て――」


 刻々と減っていく数字に自身も焦りを覚え、画面を必死に探す。

 『仲良し!』『私たちの友情は永久に不滅です!』いや、そんなキレイな言葉じゃなくて、もっと、こう――


「あ、これ……か!?」


 鍵太郎は『その言葉』を選んで、自分のぎこちない笑顔の写真に載せた。ポップ調のフォントで、文字枠の中は虹色に染め上げられている。

 『Familyかぞく』というその言葉。それは自分の中の気持ちとは微妙に違っていたけど、この中のスタンプでは一番この六人に合っているように思えた。


「……よりによって、それなの」

「まあ、湊らしいといえば湊らしいけど……」


 しかしゆかりとみのりの二人はそれほどお気に召さなかったようで、そろって苦い顔をした。そして、画面上の数字はゼロになる。

 印刷されたシールを切って、全員で分けた。なぜか全員が、鍵太郎の押したスタンプを見て一瞬「……ふーん」という顔つきになる。


「家族……ねえ。それって、春日先輩が言ってたことじゃなかったっけ?」


 光莉が楽器ケースに貼ったプリクラを眺めながら言った。そう。楽団バンドは家族。それは、引退した先輩が言っていた言葉だ。

 別に、あの人とのことを引きずってその言葉を選んだわけではない。また怒られるかと思って身構えていると、光莉はなぜかこちらをちらりと見ただけで、なにも言ってこなかった。


「ま……こういうのも撮れたし、今日はそれでよしとしましょうか」


 全員に拘束された写真。

 その中央で腕を組んでいる、自分と光莉。

 二人とも底抜けの笑顔というわけではないのに、なぜ光莉がそれを見て許してくれたのか、よくわからなかった。

 分かり合えないのはたぶん、まだまだ家族というには通じ合っていないからだろう。なら来年はもう少し、笑って撮れるようになるといいなと思う。

 しかしさっきのドタバタを思い出すと、やっぱり来年は撮るのやめようかな、とも鍵太郎は思った。とりあえず恥ずかしいので、ふでばことかに貼るのは本当に勘弁してほしい。

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