第96話 いままでと、これからと

 トライアングルが、目覚ましのベルのような音を出す。

 湊鍵太郎みなとけんたろうはその音を、楽器を吹きながら聞いていた。

 クリスマスコンサートの本番。その舞台で、壊れた時計の曲を吹いている。

 曲名は『シンコペイテッド・クロック』。歯車が欠けてしまったのか、一定のはずの針の動きがたまにずれたり早くなったりする、そんな様子を表した曲だ。

 突然今のようにベルを鳴らしたと思えば、何事もなかったかのように元に戻ったり、かと思えばやっぱりずっこけたりして聞き飽きない。

 壊れているかと思いきやその歩みはどこか温かく、刻まれているその時は、不思議と合っていたりする。

 それはまるで、今までの道のりのようだった。

 中の構造が狂っていても、進んでいるものは進んでいる。

 騒がしかったり落ち込んだりして、ここまでやって来た。最後にびよんとバネが飛び出して、そこでこの曲は終わってしまうけど――まあ、飛び出したものは仕舞えばいい。

 それでまた、刻んでいく。

 ちゃんと役目を果たしていないはずなのに、どこかお茶目で遊び心があるこの時計の曲は、吹いていて楽しかった。お客さんからも拍手が起こる。

 それが収まってから、部長の貝島優かいじまゆうがマイクを持って司会を始めた。


『――さて、次はみなさんご存知の曲、「恋するフォーチュンクッキー」です。いろいろな団体が踊っている動画をネットに上げたりしていますね。

 踊れる方いますか? もしよかったら前に出て踊ってみてください。小さいお子さんもどうぞ』


 いや、部長の外見がその小さいお子さんみたいなんですが――と、鍵太郎は本人に言ったら絶対怒鳴られそうなことを密かに思う。

 しかし見た目はともかく、優はちゃんと司会をこなしていた。だいぶ緊張もほぐれてきたのか、さっきまでの噛み噛みな口調ではない。あれはあれでかわいかったけど。

 一生懸命背伸びをして楽器を叩こうとしていた彼女は、自分なりに踏み台を見つけられたのだろうか。

 これが部長としての初本番ということで、優ははかなり気負っているところがあった。しかし、少なくとも現時点で問題はない。

 進行も、演奏も。

 三年生たちがいなくなっても、なんとかなっている。

 萎縮することはない。みんな。

 曲が始まって吹いている途中で、ジャンパーを着た小さい子どもが、何人か隅の方で踊っているのが見えた。

 誰かに強制されたわけでもない。

 ただやりたいように、演奏に合わせて素直に身体を伸ばしている。

 それでよかった。

 それが嬉しかった。



###



 讃美歌を吹く。クリスマス定番の、『きよしこの夜』だ。

 最後の曲は讃美歌のメドレーで、これもそのひとつだった。アレンジされた曲が多い中、ここだけはとても静かで、雪の積もった外の景色を窓越しに見ているような気分になる。

 星の輝く夜空と、穏やかな柔らかい雪。

 静かなその景色の中にひと匙の救いを見て、ただ祈る。

 なににと訊かれれば、それはよくわからない。

 あの人にか、助けてくれた人たちにか。

 自分の信念にか、それとも他のなにかか――ただ、祈りたくなった。

 そして、曲が変わる。

 打って変わってアップテンポに。鍵太郎はそのリズムを聞いていた。ここは全曲通して唯一の、そして最後のまとまった休みだ。口を拭いて呼吸を整えて、他の楽器の音を聞く。

 『ジングルベル』。気になって歌詞を調べたことがあったが、特に、神様がどうのこうのという歌ではなかった。

 そりを走らせてただ笑う、子どもたちの姿が見えただけだった。

 雪の中に小さな足跡をつけるように、クラリネットがメロディーを吹く。舞い上がる結晶がグロッケンの音できらめいて、光が戻ってきたことがわかった。

 鈴が鳴る。このそりもただ走るわけではない。このメドレーの名は『クリスマス・フェスティバル』。長い休みを終えたら――そこには全員で始める、祭りのような光景が広がっている。

 息を吸う音が聞こえた。

 それは自分も一緒で、その瞬間に目が大きく開いて、景色が一変した。白が大半だったそこに、光沢を帯びた赤や緑の色が入り込む。それがなんとなくクラッカーのしましま模様を思い出させて、それこそパーティのような騒ぎが始まったのだとわかった。

 そこからは、ずっと、騒がしいまま。あれだけの休みでは少しきつくて、身体の内側が軋むような感覚がやってくる。

 ただ、これが最後だ。もう少しもってくれれば、今日はそれでいい。

 さっきみたいなつながる感覚はなくて、ただ個々人が好きに叫んだり歌ったりしているのが聞こえた。

 別々のことをやりながらも向かっている方向だけは一緒で、フレーズの最後の音だけがなぜかそろった。

 勢いが止まらなくて、なだれ込むように次の讃美歌に入る。練習ではもう少しゆっくりで教会っぽい雰囲気だったが、切り替えきれなくてやたら元気な歌になる。

 ひとっつも教会らしくない。神聖さなんてカケラも感じなくて、みながただ己の信念に従って好き勝手に吹いていた。

 統制が取れなくてまとまりがばらける。自分とはまったく違う旋律がそこかしこから聞こえてきて、吹いているものが合ってるのか合ってないのかもわからなくなる。

 ひとりで吹いている感覚。これまでならここで、不安になって音がしぼむはずだったが――

 今は違う。

 鍵太郎はぶれてバラバラになりそうな感覚を無理やりひとつにまとめて、腹の底から音を出した。

 信じて。

 踏み込んだ。

 最後フィナーレ。そのおかげかどうか単に曲が切り替わったからなのかはわからないが、そこでまるで合わなかった周りの音が、同じ方向を見たことだけはわかった。

 そのまま勢い任せに突っ込んでいく。今までメドレーでやってきた数曲が浮かんで消えた。見えたものを全部詰め込んで、ただ走る。その先には真っ白い光しか見えない。

 力の限り足を伸ばしきって、駆け抜ける。最後の音はそんな感じだった。そのうち酸欠で目の前が白いのか、それとも本当に光に包まれているのかわからなくなった。とにかく全員の音を支え続けて――

 そして、曲が終わった。



###



「おつかれさまでしたー」


 本番が終わって興奮冷めやらぬ中、鍵太郎は来たときと同じくトラックに楽器を詰め込んでいた。

 暑い。本番前はあんなに寒かったのに、今は額に汗が滲んでいる。

 疲れているはずなのに気分は晴れやかで、最近ずっとまとわりついていた薄暗い不安がなにもなくなっていた。今ならなんだってできそうだ。

 極度の集中状態の余韻がまだ続いていて、アドレナリンとかそういったものが過剰に出ているのだろう。スポーツ選手と一緒だ。本当に体育会系文化部だなあと苦笑しながら、鍵太郎は重い自分の楽器を荷台まで引っ張り上げた。それで蓋をして、積み込みは完了だ。

 音楽室に帰ろう。一息ついて手を叩き、荷台から飛び降りる。

 するとそこに、ちっちゃい部長の姿があった。


「……ふむ。いいでしょう。なかなかやりますね、湊くん」


 打楽器担当の優は、鍵太郎の積み込んだ荷物をざっと見渡して言ってきた。これで次から、ほんとにできるのかなどという疑いのまなざしを向けられずに、この作業を任せてもらえるだろう。

 優の仕事は多い。打楽器の搬入搬出、部長としての仕事、もちろん自分の演奏――それらを全部背負うのは大変なはずだ。

 しかし彼女は今日、それをやってのけた。改めて優を見ると、男子としては小柄な鍵太郎より、さらに彼女は小さい。

 だがその存在は、今朝の楽器積み込みのときよりしっかりして見える。

 この人も不安はあったろう。三年生がいなくなり頼るべき存在がいなくなって、今度は自分がみなを引っ張らなければいけなくなった。

 それでも精一杯やって――今日は、予想以上にうまくやることができた。

 安心した。これなら、これからもやっていけるはずだ。

 自分も、あの人の好きだったこの場所も。

 今日の演奏を聞いて、優のこの姿を見て、鍵太郎はそう思った。改めて「おつかれさまです」という言葉が口をついて出る。

 トラックの荷台を見つめていた優は、なにかを考えていたようだ。彼女はしばらくして、こちらを向き尋ねてくる。


「……最近やる気が出てきた湊くんに、ひとつ訊きたいことがあります」

「なんですか?」


 真剣なまなざしに、こちらも自然と背筋が伸びた。いったいなにを言われるのだろうか。そう思っていると、優は鍵太郎の予想を超えたことを口にする。

 それは非常に鬼軍曹と呼ばれた彼女らしく、また、とても部長らしい言葉だった。



「――来年のコンクールこそは、絶対に金賞、取りたくありませんか?」



###



 音楽室に全部の楽器をしまい終え、学校を出る。

 今年最後の本番が終わった。今日から冬休みだ。あとは学校が始まるまで部活はない。

 鍵太郎はもらったクオカードを見て、苦笑した。五百円分。今回のクリスマスコンサートの、これは報酬だった。

 校長からの依頼だった今回の本番は、学校行事としてというより個人的な頼みごとだったらしい。なので部員みなの願いだった『音楽室への冷房』というクリスマスプレゼントは叶わず、こうして現物での支給ということになったのだ。

 来年こそは暑さにのた打ち回りながら練習をしなくて済むと期待していただけに、当然部員たちからはブーイングがあがっていた。顧問の先生は「しゃあねえだろ! 文句あるやつにはやらねえぞ!」と言って、さらにブーイングを食らっていた。大人の付き合いも大変だ。

 まあ、五百円分とはいえ、部員全員にくれたのだから結構な金額にはなる。

 校長は自腹を切ったということだし、今回のことを踏まえて次のチャンスを期待しよう。

 これからコツコツと、職員室へのパイプを作っていけばいいのだ。今日はその取っ掛かりだ。まあ確かに、夏のあの暑さの中で練習するのは、本当に死にそうになるのだけど――


「……コンクール、か」


 と、そこまで考えて、鍵太郎は優の言葉を思い出していた。

 吹奏楽コンクール。

 夏にある、吹奏楽の甲子園。

 今年は悔しいながらも銀賞に終わったそれを、新部長は、既に見据えていたらしい。

 自分はまだそんな先のことまで考えていなかった。目の前のことでいっぱいいっぱいで、とにかく一人前になるのが先決だったからだ。

 しかし、今日の本番を越えた、今の自分なら――今度こそ、証明できるだろうか。

 優は知らないだろう自分だけの事情を思って、鍵太郎は歩き出す。

 途端、ずしんと身体が重くなった。


「う……」


 膝に手をつく。どうやら脳内麻薬の効果が切れたらしい。

 楽器運びもそうだし、なにより今日の本番は、少し無理をして吹いてしまった。その疲れが一気に出たようだ。

 もらったクオカードを使って、帰りにコンビニかどこかで甘いものを買ってしまおうかと思う。ひとり打ち上げ、それに今日はクリスマスイブだ。もうこの際だから、ケーキとか買ってもいいんじゃないか。

 そのままの姿勢で、少し休む。優に訊かれたあのときは、きっと大丈夫だと思ったからイエスと答えた。しかし今はこの体たらくだ。

 こんなんで本当にやっていけるのだろうか。疲労感に苛まれて、また弱気の虫が顔を出す。

 このままじゃダメだ。

 まだ、足りない――そう思ったとき。


「みーなと! おつかれ!」


 後ろからバンと背中を叩かれて、そのまま前に倒れそうになった。

 慌てて体勢を立て直して振り返ると、そこにはトロンボーンの同い年の姿がある。

 浅沼涼子。いつも元気でアホなことを言い、でもなぜか放っておけない愛嬌の持ち主。


「のど乾いたから、どっかで飲み物買って帰ろうよ!」

「ぐっ……」


 文句をつけようとしたところで笑顔でそう言われ、思わず言葉を飲み込んでしまった。ああもう、本当なんにも考えてないコイツ。思ったように好きに生きててうらやましい。


「今日は楽しかったね! でもおなかすいた!」


 そう言って、彼女は笑う。そんな涼子を見ていたら、いつものように悩んでることが馬鹿らしくなってきた。

 ため息をついて、苦笑する。そうなのだ、今は考えてもしょうがない。

 これからのことはこれからのことで、こんな体調じゃないときにまた考えればいい。

 校舎から宝木咲耶たからぎさくや千渡光莉せんどひかり、越戸ゆかりとみのりが出てくるのが見えた。

 彼女たちはこちらを見つけ、近づいてくる。


「湊くん、一緒に帰ろう」

「……勝手に先に行くんじゃないわよ」


 咲耶と光莉がそれぞれ言った。涼子も含め言ってることがみんなバラバラで、好き勝手で、それがなんとなく今日の本番の演奏を思い出させる。

 それに、ああ、でもそんなもんなのかな、と思う。

 ひとり打ち上げとか言っていたが、それよりも今は、人と一緒にいたほうがいいのかなと思った。

 そのほうが楽しいのかな、と。

 そうだ。みんなでなにか買って、飲みながら帰った方がいい。鍵太郎がそう思って言いかけたとき、はっと気づいた様子でゆかりが言う。


「ねえねえ。ちょうどいい機会だから、こないだ言ってたアレやろうよ」

「アレ?」


 首をかしげる。なにか言われただろうか。そう思っていると、みのりがニッと笑った。


「みんなでデート! みんなでプリクラ!」

「げっ!」


 そういえばそんな話もあった。すっかり忘れていたことを思い出して、思わず悲鳴をあげる。

 プリクラというものは、なんだかとんでもなく女子っぽくて、鍵太郎にとっては苦手意識があるのだ。できればものすごくご遠慮したいと思う。

 というか、あのとき自分は断ったはずだ。撮りたいなら五人で行けばいいだろうに。

 さっきまでみんなでとか思ってたことはとりあえず置いておいて、鍵太郎はその旨を宣言しようとした。


「あ、あの、俺もう疲れたから今日は帰ろうかなー、なんて……」

「ああ。クリスマスイブだしねえ。せっかくだから撮りたいよね、で」

「そうね。の証に撮りたいわよねえ」


 こいつら、俺の意見なんてまるで無視か。

 セリフに変な強調があるのも気になったが、それ以上に彼女たちの視線が「逃がさない」と明確に物語っていて、鍵太郎はダラダラと冷や汗を流した。

 女子ってなんで、こんなにプリクラ好きなんだ。意味わからん。

 得体の知れない雰囲気に後ずさりする。すると、咲耶と光莉にがっしりと腕を掴まれた。二人ともなぜか、にっこりと笑っている。

 怖い。なんか怖い。プリクラ苦手とかそういうのより、笑ってるのに獲物を見る肉食獣みたいな、二人の目つきが怖い。


「さあさあ、ぐずぐず言ってる子はしまっちゃおうねぇ」

「食わず嫌いしないで一回撮ってみればいいじゃない」

「なんだかよくわかんないけど、みんなで撮ったほうが楽しいよねー」

「撮ろう撮ろう」

「そしたら、ふでばことかに貼っちゃおう」

「おまえら、俺の意思はまるで無視なのか!?」


 全員から強制参加を申し付けられた。

 吹奏楽部の男子部員は、なにを言っても全スルーされることがままある。最近みんな優しいのであまり気にしていなかったが、そうだ、そういえばこの部活、こういうところだった……!


「べ、別に今日じゃなくてもいいだろ! 遅くなるし、今日はもう帰――」

『うっさい。つべこべ言わず一緒に撮れ』

「はい……!」


 全員から一斉に言われて、鍵太郎は陥落した。理不尽を感じた。

 今からこれでは、先が思いやられる。部長のセリフを思い出す。来年のコンクールもこんな調子でいくのだろうか。

 これから先、一体どうなるんだろう。自分の意見とは真逆のことを言う人がいて、みんな好き勝手で、バラバラだけど――それでも一緒にやらなきゃいけないのかな、と思う。

 さしあたって、目の前の五人と一緒に。もっと先のことよりも今のことを考えながら、鍵太郎は連行されていった。

 朝から晩まで騒がしく、楽しかった。

 そんなクリスマスイブは、もう少しだけ続く。

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