第95話 熱を込める

 湊鍵太郎みなとけんたろうは、氷のように冷たい自分の楽器に息を吹き込んだ。

 十二月二十四日、クリスマスイブ。

 吹奏楽部はこれからクリスマスコンサートを行う。場所は隣町の中学校の体育館。ここで開催されているチャリティーバザーの余興の一環だ。

 演奏する曲は『そりすべり』や『シンコペイテッド・クロック』など、この時期になると絶対どこかで聞いたことのあるものになっている。他にも讃美歌のメドレーなど、実にクリスマスらしい。

 そして、この時期らしいといえばそれはそうなのだが――本番の会場である体育館は、やっぱりちょっと寒かった。

 鍵太郎は金属でできた大きな楽器、チューバを抱えていた。先ほど息を吹き込んだところは少しだけ温まって、すぐに冷えていく。

 この楽器は大きく、温めるのに時間がかかるのだ。ストーブのある音楽室ではなく、寒い体育館という環境がさらにそれを際立たせている。暖房は入っているが、やはり広すぎて音楽室よりは寒い。


「あんまり寒いときは、ドライヤーを使う人もいるよ」


 笑いながら言ったのは、指揮者の城山匠しろやまたくみだ。プロのトロンボーン奏者でもある先生はこういった場面を何度も経験してきているのか、こんな風に鍵太郎が思いもつかないことを言ってくる。

 ドライヤーなんて使っていいのか。自分の息だけで温めなければいけないのだと、なんとなく思い込んでいた。

 鍵太郎がそう思ってきょとんとしていると、城山は言う。


「別にいいんだよ。ダメだと思ったらいろんなものの助けを借りればいい」

「いろんなものの助け――」


 鍵太郎は、その言葉をぽつりと繰り返した。

 いろんな人の助けなら、もう借りている。

 借りすぎていて、そろそろ返さなければと思うくらいに。

 今ここにドライヤーはない。だから自力で温めなければならない。他の部員もそれぞれ楽器に息を吹き込んだり、指を動かしたりしていた。準備運動をするようなもので、それぞれが下がっている体温を上げようとしている。

 鍵太郎もはやる気持ちを押さえながら、ゆっくりと息を吹き込んでいく。少しずつ楽器が温まってくる。

 チューニングをする。管を全部入れれば音程はなんとか合ってくれた。あとは本番、吹き続けていれば熱が消えることはない。幸いなことに、この楽器にはほとんど休みがなくて吹きっぱなしだ。

 三年生がいなくなって、初めての本番。

 先輩たちが抜けて、今までみなどことなく自信がなくて控えめな演奏をしていた。それが、今日これで変わるだろうか。

 学校祭のとき以来の熱は、戻ってくるだろうか。

 どうなるかわからないが――とにかく自分に残された選択肢は、やること、だけだった。

 本番の準備をしているのを見て、なにが始まるのかと徐々に人が集まってくる。それに伴って、周辺の温度が上がっていくように感じる。

 人がいるだけで温かくなる。もう席すらない隣の空間を意識しながら、鍵太郎は城山に言った。


「先生」

「ん?」

「こないだ先生は、俺に言いましたよね。『もっと踏み込んでほしい』って」

「言ったね」


 城山がうなずく。この間の練習で、一生懸命やってもまだ足りないものがあると言われた。

 なにかに邪魔されて本気を出せない、今までずっとそんな感じだった。

 コンクールのときも。学校祭のときも。

 けれど、今は違う。

 それを明確にするため、鍵太郎は城山に宣言する。


「俺、今からそれやります。練習と違うかもしれませんけど、面食らわないでください」

「おや」


 先生が驚いたように目を開いた。そして笑う。

 とてもとても、楽しそうに。


「いいよいいよ。もっと前に言ったね。僕そういうの好きだよって」

「……そうでした」


 『それ』に気づくと一皮むけるプレイヤーが多いから越えてきてほしいと――学校祭でこの先生に相談したとき、既に言われていたのだった。

 今さら思い出した。つくづく、自分は救えないやつだと思う。

 だがしかし、今度は。

 越えることができるだろうか?

 近づくことができるだろうか?

 不安はある。結局、今までみたいに失敗して、みんなに迷惑をかけるんじゃないかという気持ちはある。

 けれども――


「……それでも踏み込まなきゃ、なにも越えられないんだ」


 覚悟を決めろ。腹を据えろ。

 あとは信じて、飛び越えるだけ。

 今度こそ本当に、自分の思いを証明するためだと思えば――怖くないだろう?

 また冷え始めた楽器に、息を吹き込む。もう少しで本番だ。緊張してきた。呼吸が浅くなる。少し落ち着かないと、せっかくカッコつけたのに、また水の泡だ。

 深く吸って、吐く。集中しなければ。集中――


「湊くん。笑顔笑顔」


 ふいに先生に声をかけられて、気づかないうちにうつむいていた顔が上がった。


 ――あとは、もっと楽しそうに吹くといいですよ!


「……っ」


 そこで唐突にあの人の声が強烈によみがえってきて、鍵太郎は瞬間的に息が詰まりそうなほど、心の内圧が高まったのを感じた。

 それが好意なのか悔しさなのか、怒りなのか悲しみなのか、あの人に対してなのか自分に対してなのかもよくわからない。

 ただの感情の昂りだ。吹き荒れたそれは気負いも緊張も全部なぎ倒して、ついでに変に落ちつこうとしていた態度までかっさらって、何事もなかったように消えてしまった。


「……」


 嵐が去って、きれいさっぱりなにもなくなった。そんな自分にびっくりして、自分で呆れた。


「……馬鹿だな、俺」


 ため息をついて、苦笑する。自分の中にまだあんなに強い気持ちがあって、まだそれを捨てられていなかったことに、馬鹿だなあと自分でも思う。

 だが、それと同時に少し安心した。

 まだ熱は残っている。消えたわけでもなんでもなくて、ただ見失っていただけ。

 あの人がくれたものは今も。

 自分の中で息づいている。


「さーて、そろそろだね」


 城山がそう言って、指揮台へと向かった。客席を見れば、先ほどより人が集まってきている。鍵太郎の抱える大きな楽器を物珍しそうに見ている人もいた。

 それに自然と笑みがこぼれる。そう、この楽器、大きいでしょう。どんな音が出ると思いますか?

 クリスマスらしく、温かく、みなで盛り上がれればいい。ざわざわとする会場の空気を心地よく感じて、鍵太郎は大きく息を吸って、吐いた。



###



『みなさんこんにちは! 川連第二高校吹奏楽部です!』


 バザーの実行委員会のおばさんからマイクを渡されて、新部長の貝島優かいじまゆうが客席に向かって叫ぶ。

 いつもは顧問の先生がやっている司会だったが、今回は演出の都合上と彼女たっての希望で、優が司会を務めることになっていた。

 いつもの厳しい態度は部員相手のものだ。舞台の前に立つ優は目を大きく開いて言葉を発して、一生懸命にあいさつをしている。


『今日はクリスマスイブということで、みなさんに音楽を届けにまいりまひたっ!』


 ……噛んだ。

 ちびっちゃい女の子ががんばってしゃべって、そして噛んだ様子に、会場から笑いが漏れる。優自身は非常に恥ずかしそうだったが、これで演奏者と客席の距離は縮まったようだ。

 グッジョブです先輩。心中で親指を立てていると、優は顔を赤くしながら自分の楽器を取り出した。少し前に新しく買った、鈴だ。


『一曲目は「そりすべり」です。曲名は聞いたことがなくとも、どこかで絶対聞いたことのあるはずのクリスマス・ソングです。そりが軽快に滑っていく楽しげな様子を、どうぞおき……おき、きください』


 うん、確かに「お聞きください」って言いづらいよね。いつになく緊張した様子の優に、思わず苦笑がもれる。この人もこの人で、なかなかに気負ってやっているらしい。

 新部長としての初本番だ。気合いが入っていて当然だろう。鍵太郎は楽器を構えた。マイクを置いた優が鈴を鳴らしながら舞台に戻ってくる。

 十分に鈴が客席からの注目を集めたところで――城山が指揮を振った。

 全員の音が炸裂する。元気に楽しく! 初見の合奏で言われたことそのままに、思いっきり吹いていく。

 最初の最初だ。これでまず聞く耳を持ってもらいたい。本来そこまでやる曲でもないかもしれないが、案外聞いている人にとってはこのくらいでちょうどいいのかもしれない。最前列で聞いている三つ編みメガネの女の子が、目を丸くして聞き入り始めたのがわかった。

 そう、このくらいやらないと越えられない。

 「このくらいでいいや」では、伝わらない。

 そんな風にどこかに甘えがあると途端に演奏がぬるくなることを、身をもって自分は知っている。

 ただ、気負いすぎて暴走してしまってもコンクールのときと一緒だ。ひとりで行ってしまったあのときを思い出して、今回はそうはいかないと苦く噛みしめた。

 目の前で吹いているバスクラリネットの先輩がいつか言っていた。低音はどこか冷静であれ。あのときはそれができなかったが、今は少しできていると言えるのだろうか。

 わからない。少し遠くからテンポを計っている自分もいる。しかしそれと一緒にひたすらに音に熱を込めようとしている自分もいる。

 これでいいのかどうか、わからない。

 正解など知らないが――とにかく今は、信じて向かっていくだけ。

 トランペットの旋律に、クラリネットが飾りを加える。ただでさえきれいなクリスマスツリーに、あれもこれもとモールやら星やらなんだかよくわからないボールやらを飾り付けていく。

 それはこの楽器ではできないことだ。もしこの部の連中で本当にクリスマスツリーの飾りつけをするにしても、自分ではああうまくはいかないだろう。そういうのは向き不向きがある。コンクール前に千羽鶴を作ったときのように。

 メロディ楽器の連中はすげえなあ、と思う。ただ自分にも別の役割があって、それは背景を作ることだった。

 テーブルの設置。壁の飾りつけ。雰囲気と状況のセットができればいいのだ。きゃあきゃあと楽しく騒ぎながらツリーを飾るやつらを、自分の仕事をやりながら見ていられればそれでよかった。そんなんでいいのかとあのトランペットの同い年からは言われそうだが、むしろ自分としてはこっちの方が居心地がいい。

 最終的にみんな笑ってくれていれば、それでいいと思う。やっている人間も聞いている人間も、楽しかったねと言ってくれればそれでよかった。その方がよかった。

 それはあの人の言っていた、「みんなが大好きです」という言葉に近いのかもしれない。

 あの人はどんな気持ちでこれを言ってたんだろうなあ、と思う。かつてひどく打ちのめされたこの言葉を、自分が使っているというのはなんというか、不思議な気分だった。

 でも、なんとなくこれでいいんだろうなとも思う。

 走り続ける鈴の音と、ときたま入るトナカイへの鞭の音が聞こえる。そうだ、感傷に浸っている場合ではない。強く意思を持ったと思えば、ちょっとしたことであっさり揺らぐ。悪い癖だ。なんでこんななのに、全体を支える低音楽器なんてやってるんだろう。

 転調する。こんな風に気がついたらいつの間にか、少しずつ変わっているのだ。あまりに自然で気づかない。

 けれど変わっている。この一年、ずっとそうだった。

 この先にはこの曲で一番盛り上がる部分がある。中低音の動きも、それまでとは打って変わってアグレッシブになる。

 吹いているのでまったく振り返れないが、後ろのトロンボーンの同い年、浅沼涼子を意識する。あと同じく低音楽器の、バスクラリネットの先輩。この三人で一緒に動くのだ。前と、後ろにいる人間。合図なんて送れないが、息をそろえれば自然と合う。涼子とは一緒に練習もした。あいつ人の楽器へこませやがって、後で覚えてろ。

 トランペットが再度の始まりを告げるかのように、メインテーマを吹き上げる。この裏で対旋律をやるのが自分たち三人で――と。


 そう思った瞬間、前の先輩と後ろの同い年との意識が、一本の線でつながったような気がした。


 初めての感覚に、え、と戸惑う。しかし吟味している暇はない。出番はもうすぐそこで、このままやるしかなかった。

 鋭く大きく息を吸って、意識的にレベルを何段階も上げて死ぬ気で大きな音を出す。この瞬間だけリミッターを解除して、本来消費してはいけないはずの大切ななにかを燃やして熱に変える。

 指が自然に動く。三人で合わせようとしなくても全部がそろった。そしてそれが気持ちよかった。

 ホール練習のときに感じた一体感とは、また別の感覚だ。あのときほど意識が埋没しているわけではない。でも確実に『つながって』いる。

 涼子なんてまったく見えないのに、変に合わせようとしたときよりよっぽどしっくりといった。なんなんだこれは。

 でもこれは、すごくいい。

 高音がメロディをさえずっている下で中低音三人が力強く動き、その他のみなも全員で騒いでいる。混沌とした音の奔流が最高潮に達したとき――ふっと、三人をつないでいた線が切れたのがわかった。

 曲も少し前の穏やかな曲調に戻る。特になにもなかったように曲は進んでいって、でもそれは確かに、それまでがあっての音だった。

 なにごともなかったようでも、それでも確実になにかは変わっていく。

 つまりはそういうことで――今まで歩いてきた道のりは、決して無駄ではなかったのだと知った。

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