第94話 信じる者は飛び越える
クリスマスイブ。
本番までの自由時間にバザーを見て回る。買った豚汁を食べながら、鍵太郎は隣にいる
「……そういえばさ、すごい今さらだけど、宝木さんてクリスマスとか大丈夫なの?」
咲耶の家は寺だ。つまり仏教である。
そしてクリスマスは、言うまでもなくキリスト教の記念日だ。
彼女本人は、自分の家はまったく厳しくないところだと前に言っていたが。しかし寺でクリスマスというのも混乱するのではないだろうかと、鍵太郎はふと思ったのだ。仏像の前にクリスマスツリーとか、ミスマッチすぎるだろう。
鍵太郎は正月には神社に初詣に行って、お盆には仏壇に線香をあげ、クリスマスにはケーキとチキンを食べるようなごくごく一般的な日本人だ。
だが咲耶はそうではないのではないか。気遣いというよりはちょっとした好奇心で軽く訊いたのだが――返ってきた彼女の言葉は、予想とはちょっと違ったものだった。
「クリスマス? ああ、バテレンさんのお祭りのことね」
「なんか、すっごい深い溝がありそうな答えが返ってきたなあ!?」
いつものにこにこ笑顔の咲耶に妙な影が見えたような気がして、鍵太郎は顔をこわばらせた。クリスマスコンサートでやる曲には、普通に讃美歌が入っている。果たしてそれは大丈夫なのだろうか。
「大丈夫ダイジョウブ。全然気にしてないヨー」
「全然大丈夫な返事じゃないし!?」
なんかカタコトだし。え、まさかいけないことだったのか。他宗教の歌とか歌っちゃいけないのか。
鍵太郎がそんな風にわたわたしていると、咲耶は表情を崩し、おかしそうに手を振ってくる。
「あはは。そんなことないよ。冗談冗談。仏教ギャグ」
「相変わらず、あんまり笑えないよねそれ……」
よくわからないが安心して、息をつく。咲耶がたまに飛ばすこの仏教ギャグなるものは、独特すぎて鍵太郎としてもツッコミづらかった。
普段とても真面目な彼女だけに、たまに外されると脱力感が半端ない。まあこれこそ、彼女が気を許している証なのかもしれないが。そう考えると入学当初に比べ、咲耶との距離はだいぶ縮まったように思える。
それこそ、変な冗談を言ってくるくらいには。彼女は「ごめんごめん」と言いつつ、続ける。
「少なくとも私相手なら、そんなに気にしなくて大丈夫だよ。私は家で普通より詳しい説明とかを日常的に聞いてきたから、そこまで言うならいるんじゃないかなあ、くらいに思ってるだけだし。湊くんだってそうでしょ?」
「まあ、程度の差はあれそんなもんか……」
初詣では、お賽銭を入れて神様に祈ったりする。お盆では線香をあげてご先祖様に祈ったりもする。
クリスマスでは今回みたいに讃美歌を吹いたり聞いたりすると、安定したハーモニーに神様っぽい存在を信じたくなったりもする。
日本人は神様に節操がないと言われるが、そんなものなのだろう。いようがいまいが、信じればそこになにかありそうな気はする。それは自分も咲耶も似たようなものだということか。
「信じる者は救われる、だっけ」
それこそ、このセリフが何教だかも忘れるくらいのごちゃ混ぜの宗教観なのだが。なにを信じて、なにに救われるのか。世界中に宗教が無数にあるくらい、それは人それぞれなのだろう。
それに神様でなくたって、好きな人や大切な人には救われることもあるのだ。鍵太郎にとってそれは引退した先輩だったり、落ち込んでるときに声をかけてくれた人たちのことだったりする。
完全に復活したとは言えないけれど、それでもだいぶ救われていることは確かなのだ。
それを全部信じてしまって、いいのだろうかと思う。
信じてしまえば、救われるのだろうか。
まだ、迷っていた。
難しく考えずに自然にやればいいと、あのアホの子を見ていて思った。
トランペットの同い年からはさっき、技術面では向上していると言われた。
じゃあもう、やってしまっていいのではないか――そう思いつつも、最後、ほんのわずかなためらいが、まだ心に残っているのだ。
飛び越えられるだろう亀裂を前にしても、これでいいのか、これでもだめなんじゃないかという不安から足が前に出ない。
自分を信じることが、できなかった。
最後の踏ん切りが、つかなかった。
そんな鍵太郎の隣で、咲耶が言う。
「信じる者は救われる――って言われるけど。私は個人的には、信じる者は『飛び越える』だと思うんだ」
「……?」
ちょうど深い崖を見下ろしていた気分だった鍵太郎は、その言い回しにぴくりと頭を上げた。
咲耶はこちらを見ていた――ように思う。
近くなったと思ったら急に遠くから、それこそ崖の向こう側から、彼女は手を振るように呼びかけてくる。
「信じるっていうのは、論理的には飛躍だと思うよ。神様仏様や宇宙人はいるんだーって理屈で言っても、その存在を証明できてない以上は、単なる言葉に過ぎないでしょう」
「……でも宝木さんは、仏様はいるかもしれないなーって思ってるんだよね?」
鍵太郎の言葉に咲耶は「うん。矛盾してるよね」と言った。
「理屈を越えてる。いないかもしれないけど、信じちゃう。そんな論理的には溝になってるところを、飛び越えるのが信じるってことなんじゃないかって、私は思うんだ」
信じる者は救われるのではなく――
信じる者は、飛び越える。
そう思ったとき鍵太郎の脳裏に、他校の吹奏楽部の女子生徒の姿が浮かんだ。
意味の分からない理屈をそのまま飲み込んで、思考停止したまま自分は幸せだと言い切ってみせた彼女。
ほとんどカルトのようだと思ったあれと、それはあまり変わらないのではないか。そう危惧する鍵太郎に、咲耶はうなずいた。
「うん。無自覚にそれをやると、変な人に騙されたりするから慎重にしないといけないんだけどね。
けど、自分でちゃんと判断して、流されるだけじゃなくて意思を持って『信じる』ことを選択した方が、きっと楽しいんじゃないかって私は思うよ」
なにも信じないよりは、ね。咲耶はそう締めて、微笑んだ。
かつて人とのズレに苦しんでいた咲耶は、なにを考え、なにを越えて、今笑ったのだろうか。
こういうときの彼女は妙に大人びていている。だからこんなに仲が良くなっても、苗字にさん付けが取れない。
距離が、ある。
人と人の間には隔たりがある。それは鍵太郎も、引退した先輩の件で思い知っていた。
先輩以外の人間にも、溝だったり、それ以上に深い谷だったり、逆に高い壁だったりを、たまにひどく感じるときがある。それを越えて届けるというのは、本当に大変なことだということも、わかる。
けれど、咲耶はそれを越えようとしているようだった。
彼女はなにを信じて、どこに飛ぼうとしているのだろうか。
とても遠いのでよくわからないけれど、それはきっと、とてもいいことなんじゃないかと思う。
そして――見習わないといけないのかな、とも思った。
「いいのかな」
最後の確認だ。
今自分がやろうとしているのは、正しいことなのか。
それを『信じて』いいのか。
意思を持って――飛び越えてしまえばいいのか。
鍵太郎はつぶやいた。それは咲耶にだったのか、自分にだったのか、よくわからない。
「俺は信じて――越えちゃって、いいのかな」
そうすれば、届くのかな。
お客さんに。いや、それ以上にあの人に。
大好きだって、届くのかな。
「いいんだよ」
とん、と背中を押されたような気がした。
声をした方を見れば、やはり咲耶は、こちらを見て笑っている。
「それがちゃんと湊くんが考えて出した答えだったら、それでいいよ」
思いっきり、やっちゃえばいいよ。そう言われて、「そっか」と鍵太郎はつぶやいた。
そっか。
それで、覚悟が決まった。
やっぱり最後の最後まで、人に助けられてばかりだったけど。
でも、本当の最後を判断したのは、自分だった。
息を吸って、吐く。ため息ではなく、それは本番に向けての、鋭く速い息だった。
目が開いてくる。気力が湧いてくる。今日の本番は、今までとは違うものになりそうな気がする。
「ありがとう宝木さん。なんかちょっと気持ちが変わってきた」
「どういたしまして。あ、今だけ私、悩める子羊を導くシスターさんみたいな感じ?」
「今日だけキリストギャグなのか……」
いい加減バチが当たりそうな気がするが。すっかり元の調子に戻った咲耶とそんな会話をして、鍵太郎は立ち上がった。そろそろ本番の準備を始めよう。あの楽器は他のものより大きいので、温めるのに時間がかかるのだ。
みなでゾロゾロと、バザーの店が並ぶ中を歩いていく。舞台に向かうその途中、咲耶がふと、足を止めた。
「……かわいい」
彼女が見ていたのは、手作りらしい毛糸とフェルトの髪飾りだ。
最近そういうものが好きになったのか、咲耶は今日も先日の花の髪飾りをつけている。買おうかどうか迷っている様子の彼女を見て、鍵太郎は言った。
「……買ってあげようか?」
「いいの!?」
咲耶が目を剥いた。そんなに意外だろうか。先ほど相談に乗ってくれたことへのお礼である。そんなに高いものでもないし、あまり気にしないで受け取ってくれればいい。
「いいなあ! あたしもほしい!」
「一人だけになんてずるいわよ!」
「買わねえよ! というかおまえらはこういうの買っても、絶対つけないだろうがよ!?」
一緒にいた浅沼涼子と
そう言うと、光莉があさっての方を見ながら言う。
「……私も髪、伸ばそうかなー」
中学でのソロの失敗にケジメをつけるため、髪を短くしたという光莉だ。もう一年以上前のことである。襟足を指でいじる光莉に、鍵太郎は言葉をかける。
「いいんじゃないかもう。昔のこと気にしなくても」
この同い年だってもう十分、苦しい思いをしてきたのだ。
中学の同級生にはまだ許されていないとはいえ、いつまでも過去の過ちを引きずるのは彼女にとっていいことではないだろう。
そう思って言ったのだが――しかし光莉は不機嫌に、口を尖らせただけだった。
「……そんなんじゃないわよ。バーカ」
「……なんなんだよ」
良かれと思って言ったのに罵倒された。理不尽なものを感じる。
毛糸の髪飾りを買って、咲耶に渡す。彼女は相変わらず目を見開いたままで、ぽかんと口を開けて手の中のそれを見つめた。
「こ、これは、クリスマスプレゼント……?」
その言葉に、あ、と鍵太郎は思った。そうか、そういう感じになってしまうか。
少し焦った。変な誤解を招いてほしくない。その一心で鍵太郎は咲耶に説明する。
「え、えーと、あの、宝木さん。それは別に変な意味ではなくて、純粋にお礼としてのものであって、だからその――」
「……わかってるよ。大丈夫」
彼女はそう言って、今までつけていた花の髪飾りを外して、今もらった毛糸の髪飾りをつけた。冬らしく、温かそうな感じでよく似合っている。
店の鏡でその様を確認し、満足そうに咲耶は笑った。
「うーん。今だけキリストさん拝んでもいいかな。ハレルヤだよ。ありがとう湊くん!」
「宝木さんがなにを信じてるのか、本当にわからなくなってきたよ……」
鍵太郎は頭を押さえた。クリスマスだからだろうか、さっきからいろんなものを信じすぎだ。お祭りの雰囲気に、さすがの咲耶もテンションが上がっているのかもしれない。
「宝木さんはさ、本当はなにを信じてるの?」
さきほどの、本気でなにかの断絶を飛び越えようとしていた彼女の姿を思い出す。
冗談を言っているような感じではなかった。彼女が意思を持ってなにを飛び越えようとしているのか、興味はある。
果たして咲耶は、どう答えるのだろうか。クリスマスプレゼントではなくただのお礼である、その髪飾り。それを押さえて、咲耶は言ってきた。
その顔はなぜか――嬉しそうでもあり、悲しそうでもある、そんな複雑な笑顔だった。
「ええっとね――それはまだ、ナイショ」
「……そっか」
教えてくれる気はないらしい。まだ彼女との距離を感じて、鍵太郎はそれ以上追及せず、その話題を打ち切った。
本人が教えてくれないのだから、しょうがない。彼女がなにかの溝を飛び越えたなら、それを教えてくれることもあるかもしれない。
自分と一緒でそれが叶うといいなあとのんきに考えながら、鍵太郎は再び歩き出した。みなでゾロゾロと移動する姿は本当に迷える子羊のようで、ただ信じるものだけは、みな確かに知っているようだった。
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