第88話 すべてはエロの理論

「どっちやろうかなー」


 放課後の音楽室。吹奏楽部の生徒たちが徐々に集まるそこで、湊鍵太郎みなとけんたろうは楽譜を見ながら腕を組んでいた。

 彼が見ているのは、クリスマスコンサートで演奏する曲の楽譜だ。

 『そりすべり』『シンコペイテッド・クロック』『クリスマス・フェスティバル』『恋するフォーチュンクッキー』――など、曲名は知らなくても、どこかで聞いたことはあるだろうものが並んでいる。

 鍵太郎が悩んでいたのは、どの曲をやるかではなく、全部の曲の中の、どのパターンをやるか、といったことだった。すなわち――


「うぃっす……あー、眠……」


 そう言って音楽室にダラダラと入ってきたのは、鍵太郎のひとつ上の先輩、高久広美だ。

 彼女はいつも眠そうだが、今日はいつもにも増してだるそうだった。朝に弱いというのは聞いていたが、今はもう放課後である。

 広美の席は鍵太郎の目の前だ。彼女はカバンをどさりと落とし、中から缶を取り出した。

 缶コーヒーだ。カシュリと音をたててプルタブを開け、広美はそれを一気にあおる。


「っくはー! これこれ! これだよ!」

「先輩、今日も元気におっさんですねえ」


 慣れた光景に、鍵太郎はのんびりと広美に言った。缶コーヒーがカップ酒に見えそうだった。

「気つけだよ、気つけ」と覚醒した先輩がのたまう。


「テスト勉強なんてやってられっかよ! ひっく」


 ご丁寧にしゃっくりまで入れて、広美は酔っぱらったサラリーマン同然の一言を放った。

 しかしまあ、きのうまでテスト期間だったのだ。広美でなくとも「勉強なんてやってられっか!」という気分にはなる。

 鍵太郎も、ようやく再開した部活を楽しみにやってきたのだ。クリスマスコンサートの楽譜も配られるだろうし、これで思う存分楽器が吹ける。そんな思いで音楽室にやってきた。

 そしてこうして、悩んでいるのである。再び腕を組んで楽譜を見る鍵太郎に、広美は言う。


「なにを悩んでいるの湊っち。おじさんが相談に乗るよー」

「む……」


 鍵太郎は視線を楽譜から広美に移した。同じ低音楽器とはいえ、広美は鍵太郎とは根本的に違う楽器、バスクラリネット担当である。相談してもいいものだろうか。

 迷っていると、広美がからんできた。ほとんど酔っ払いだ。


「おじさんは人生の先輩だよぉ。悩みがあるなら聞こうじゃないか」

「コーヒー臭い息を吹きかけられて、そんなこと言われてもなあ……」

「そんなこと言うと耳たぶ噛んじゃうぞー」

「ひゃうっ!?」


 本当に耳をあむあむとされて、本気で飛び退く。広美には今まで言葉で逆セクハラをされたことはあっても、触られたことはなかった。なので、完全に油断していた。


「せ、先輩なんか……いつもより、酔っぱらい方がひどくありません?」


 耳を押さえながら訊く。これはなんというか、異常なごほうび……いや、異常なからみ酒だ。

 入部してから広美のこんな体たらくは何度も見てきているが、ここまでになったのは初めてだった。

 いったいどうしたんだと不思議に思う。すると広美は疲れているのか、首や肩を回しながら答えてくる。


「いやあ、最近柄にもなくがんばっちゃったから、いつもにも増して悪酔いしてんのよね。まったく、慣れないことするもんじゃないよ」

「柄にもないこと?」

「ま、おじさんのその辺の事情はさて置いて」


 広美は二本目の缶コーヒーを取り出して、開けた。これ以上飲むのはいろんな意味で大丈夫なのだろうかと鍵太郎は思ったが、止める間もなく広美は一口飲んでしまう。

 促され、仕方ないので耳を警戒しながらも鍵太郎は「実は」と先輩に言った。


「チューバって上パートと下パートがあるんですけど、どっちやったらいいかなと思って」


 鍵太郎の担当楽器であるチューバは、曲中で高い音と低い音の二パートに分かれることがある。上パートと下パートだ。

 二つに分かれるのは音の厚みを増したり響きを出したり、深みを加えたりするためのものだ。今まで下のパートは先輩が吹いていたため、鍵太郎はずっと上パートをやってきた。

 しかし、今はひとりだ。その場合、どちらをやればいいのか。鍵太郎はそれで悩んでいたのだ。


「上と下」

「そうです」

「湊っちが上で動いて、それを下で春日先輩が包んでくれてたと」

「その言い方を即刻やめろ」

「真面目に言うなら上パートを推奨するね。トロンボーンが二本しかいない以上、下パートだと音域が離れすぎて、中音の人たちと連携が取りづらくなるだろうから」

「……いきなりマトモなことを言われると、それはそれで切り替えができないんですが」


 自分で注文をつけておきながら、いざ即刻切り替えられると反応に困る。普段ベロベロなくせして、こういうときにちゃんとした発言をしてくるから広美は印象に残るのだ。

 能ある鷹は爪を隠してるように見えるというか、捨て猫を拾う不良みたいだというか。とにかく常日頃の評価が低いと、なにかひとついいことをしただけでものすごくいい人に思えてくるものである。

 そういったこともあり一応、部長選ではかなりいいところまで行った人だ。言い方はともかく知識は豊富だし、ここはアドバイスに従って上パートをやったほうがいいのだろう。

 そう思っていたら、先輩は真面目な顔で続けてくる。


「ただし、来年になって一年生が入ってきて、バリトンサックス、トロンボーンに人が増えたら、下パートをやっていいと思うよ。むしろ下のがいいかもしれない」

「中低音が充実したら、それを支えるためにさらに下に行くってことですか」

「そう」


 それこそ、部活を根本から支えていた春日美里かすがみさとのように――と、いうのは口には出さなかったが。

 先輩がやっていたということもあって、下パートをやってみたいという気持ちは鍵太郎の中に確かにあった。曲中で自分が高い音に上がる中、美里がそれを支えるように低く踏み込むのは、隣で聞いていて非常に心地いいものだったからだ。

 あの人のようになるのだったら、いずれはそちらをやったほうがいいのだろう。しかし――


「まあでも、下パートは負担が大きいよ。今までやってた上パートより一オクターブ下がることが多くなるわけだから、単純な意味で言うと負担は倍になる」

「倍」

「ドシラソファミレドの最初のドと最後のドは、息の量が倍違うんだよ」


 低い方が量を使うんだ。低音楽器の先輩らしく、広美はそう言った。

 それなら、今まで美里が下パートをやってきたのもうなずける。低い音のが大変だというのなら、初心者の鍵太郎にそれをやらせるのは酷だったろう。

 あの人は自分の知らないところで、ずっと多大な負担を背負ってきたのだ。

 だったらそれを、今度は自分が背負う番だ。先ほどは上パートがいいと言われたが、ものは試しということで鍵太郎は『クリスマス・フェスティバル』の下パートを吹いてみることにした。


「……っぐ」


 負担が倍、というのを早速実感する。しばらく進めるうちに、ボディブローのように腹部に鈍い苦しさが溜まってきた。

 ただその分、低く潜ったときに一段階深い響きになる。それが楽しいというか、落ち着いた。

 今までは知らなかった、もうひとつ底の場所。

 深海みたいな圧迫感のなかで、透き通った青と、きらめく水面を見上げるような気分になる。

 そのうちかなりきつくなってきたので、やめて浮上する。溺れかけた人間が酸素を吸うように、荒い呼吸を繰り返した。


「きついっしょ」


 呼吸を整えていると、広美が言ってくる。しゃべるのが億劫だったので、うなずいて意思表示をする。


「まあ、これも慣れだね。ちょっとずつ潜っていって、だんだんできるようになればいいんじゃない」

「……マラソンでも始めようかなあ」


 まだまだ肺活量が足りないと思ったので、鍵太郎はそんなことを言ってみた。しかし広美は「やめとけやめとけ、続かないから」と呆れたように言う。


「最初はやるだろうけど、これから寒くなるもん。続かないよ。人間、苦しいだけの訓練は続かないもんだ。気持ちよくできなきゃ、いくらやろうと思っても続かないよ」

「はあ……そんなもんですか」

「そうだよ。現に今、きつかったけど気持ちよかったでしょ。そのくらいの見返りが同時にないと、いくら先に目指すものがあるとはいえど続かないもんだよ。ダイエットと一緒。目に見えてすぐ減らないと、続かない」

「きつくて気持ちいいっていう言い方が、もう完全にヤバイ人に聞こえるんですが……」

「今さらなに言ってんの。そんなきつい楽器吹いて楽しそうにしておきながら」

「うっ……」

「人は心地よさを求めるんだよ? 気持ちいいから楽器を吹いてるし、お客さんも聞いてて楽しいから演奏を聞いてくれる。そう、すべては気持ちいいことで回っている。すべてはエロの理論なのだよ!」

「先輩の言うことはいっつも極端で、すぐには受け入れられないんですよ!?」


 これを認めたら最後、自分も広美と同類となる。さすがにそれは嫌だったので思い切り抵抗すると、広美は「なに他人のふりしようとしてんだよ」と言ってきた。


「湊っちだって、春日先輩に居心地のいい場所を求めてたじゃない」

「ううっ……」

「ていうか、言ってないだけでもっとえろいこと考えてたでしょ。そりゃそうだよね。健全な男子高校生が、あんなすーぱーそ〇子さんみたいな人の隣にずっといて、なんにも考えないわけないもんね。ほらほら認めちゃいなよ、気持ちいいことは間違いじゃないよー。むしろ正義だよー」

「俺のイメージを今よりさらに貶めないでくれます!? せっかくいろいろ取り繕ってマトモに見せようとしてるのに!?」

「なかば自白とも取れる発言だけど、まーだ半落ちだなあ。全部言っちゃえば楽になるのに」

「この人が部長にならなくてほんとよかった!!」


 そうしたらいったいどんな部になっていたのか。想像するだけで恐ろしくなる。

 そういえば本人は確か、部長なんてやりたくないと言っていたはずだが。それにしては広美は最近、やけに自分に構ってくることが多くなった。

 他の後輩と話しているのもチラチラ見るし、広美にはそういう部長というか『先輩らしい』行動が増えたように見える。

 今までの彼女とは、ちょっと違う行動パターンだ。一番初めのあのときは話を聞いてくれて助かったという思いが大きくて、なぜ広美がそんな行動を取ったのかまでは気が回らなかったが――今は違う。

 どんな心境の変化があったのだろうか。訊いてみると、広美はボソリと言ってきた。


「後悔したんだよ」


 コーヒーを飲んで、先輩は続けてくる。


「春日先輩たちが引退した次の日、きみが部活を早退するのを見てさ。ああ、もっときみと関わってれば、ひょっとしたらこんな結末は迎えなかったんじゃないかって」

「……先輩」

「一歩引いたところから冷静に全体を見つめるのが、あたしのスタンスだったんだけど――まあ、それだけじゃだめだったのかな、ってそのとき思ったんだ」


 その言葉に鍵太郎はコンクールの会場で、広美が画面の中のライブ演奏を見ていたことを思い出した。

 舞台の外から冷静に、相手を観察していた彼女。

 あれはあれでいい立場だと思っていたが、本人にしてみればそうでもなかったのかもしれない。

 わかっているのに手を出せない位置にいる、というのは。

 そして三年生が引退し――自分たちの代が部の中心になるにあたって、意識が変化したということか。まだ一年生である鍵太郎には、よくわからなかった。


「だから、すべてはエロの理論なんだよ。みんなが気持ちよく動けるように、せめて場所だけでもセッティングしようと思ってね。で、最近がんばっちゃって、普段動いてなかった分疲れてるわけ」


 先ほどの柄にもないことというのは、それか。広美が疲れている原因が自分にあったと知って、鍵太郎は申し訳ない気持ちになった。

 自分の行動が、思いもよらないところで人の迷惑になっていたのだ。


「……すみません」


 謝る。しかし広美は「いんや。謝るようなもんじゃないのよ」と言う。


「これはあたしのためなんだよ。あたしが気持ちよくなるため」

「……?」

「春日先輩がどうとかじゃなくてさ。あたしとしては、湊っちが自分で気持ちいいと思ったことをやってほしいんだ。誰のためとかじゃなくて、自分のために吹いてほしいんだよ。そうじゃなきゃ、楽しくないんだ。あたしがさ」


 気持ちよくないわけよ。はたで見てて。

 すべてはエロの理論に反するわけよ――誰かがつらそうだと。

 先輩はそう言ったが、鍵太郎から見て、つらそうなのはむしろ広美の方だった。

 その理論を認めたわけではないけれど、それを見るのは自分も嫌だった。だからここで、鍵太郎は広美に言う。


「自分で吹いてて楽しいっていうのは、最近ようやく気付いてきました」


 それこそ薄暗くて苦しい深海から見上げる、はるか遠くの揺らめく光のようなものなのだけれど。

 誰かがどうとかじゃなくて、自分が楽しいと思えることが、少しずつ見えてきたような気がするのだ。


「今までは春日先輩に認めてもらうことばっかり気にして、見えてなかったんですけど……そのほうが本当は、楽しかったんだなって、今さらですけどようやくわかってきました」


 認めてもらいたい人がいなくなったからこそ成長できた、というのは皮肉な話だが、それでもなにも変わらないよりはマシだと思う。

 きっと、それはあの人が、本当に望んでいたことなのだろうし――

 と、そんな風に根っこにはやはり、あの人の姿があるけれども。それでも、向かう方角だけは間違っていないのは、ここ最近で実感できたのだ。

 鍵太郎の言葉を聞いて、広美は息をついた。


「……そう。あたしが思ってた以上に、きみは色々考えてたんだね」

「考えてたっていうか……あがいてただけです」


 とにかく苦しくて、人に言われるがままにもがいて、ようやくそれがわかった。その程度だ。

 それだって、広美が苦労してセッティングしたというのその場所の中なのだろうし。

 まだまだ全然ダメなんですけど。仏頂面でそう答えると、広美がニヤリと笑った。

 あれ? と突然雰囲気が変わった広美に、鍵太郎が目をしばたたかせると――


「ごほうび」

「え? ――っ!?」


 耳に息を吹きかけられて、今度こそ完全に鍵太郎は硬直した。

 またしても油断しているところを突かれた形だ。恐れおののいて広美を見ると、先輩は缶コーヒー片手に、こちらを指差して大爆笑していた。


「あっはっは。真っ赤じゃないか――気持ちよかった? おじさん、かわいい子にはついちょっかいかけちゃうんだよねー」


 今度は真面目モードから一気にオヤジモードへの切り替えだ。それに全く反応が追い付かず、鍵太郎はしばらく口をぱくぱくさせた。


「こ……こ、この……」

「この?」

「この、エロオヤジが!!」

「あっはっはっはー」


 鍵太郎の非難などどこ吹く風といった調子で、広美は豪快に笑った。それが楽しくてしょうがないといったように。


「そうそう。その調子だよ。そんな感じで、自分が気持ちいいと思った方向へ進むといい。上だろうが下だろうが、やりたいことやりゃあいいんだよ。それでいいのさ」

「せ、先輩のそれは、なんか色々間違ってる!」

「はっはっはー。いつまで否定できるかなー。さぁて、今日もいい感じに練習しますかねー」


 缶コーヒーを片手に、鼻歌でも歌いそうな上機嫌で先輩は自分の楽器を取りに行った。

 その背中を見送りながら、鍵太郎も自分の楽器を手に取る。なんだか全部あの先輩の掌の上のようで癪なのだが、楽器を吹くのが気持ちよくて楽しいのは確かなのだった。

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